終点
ある路線の「終点」が最寄り駅のはずなのだが、時折目覚めると知らない場所にいる。ひどい時は知らない道をひたすら歩いていることもある。そして何故か最寄り駅にちゃんと着く。
これはこの路線が、A点とB点の往復と見せかけて「路線の端に着いたのち、数駅折り返した所が終点」となっているためである。
ちなみに「知らない道」を歩いているのは酔っているからだが、なぜいつも方角が合っているのかは自分でもわからない。
鳩? チョコボ? と訊かれたので
「ともかく出口まで行って、大きな道を見つけたらその左側を歩いてると絶対に帰れる」
と主張したら困った顔をされてしまった。
何にせよ、「行き着いた先が終点」というのはただの思い込みであった。
この「終点だと思っていたのにまったく知らない所にいたので、全スキルを使って帰ろうと思います」という現象を、私は最近「異世界転生」と呼んでいる。
蝶よ花よ
「いい天気だね」
「ええ。…そろそろ休憩しませんか?」
あまり日に当たらないよう、医師からも言われている。
さっき食堂の側を通ってきたので、そこまで戻った。
「私はお茶だけでいいから、君何か食べて。でも此処のマカロニだけは駄目」
「なぜですか」
「…あれしか食べられない場所があったら、そこは地獄と呼ばれるべきだろうね。ゆで方であそこまで不味くできるって初めて知ったのが此処」
彼を窓側に座らせて、お茶とゆで卵、それと果物を少し持って行った。自分にはシェパーズパイとゆで卵。蛋白質は大切だ。
彼はいつも何でも上品に食べる。
「綺麗な絵でしたね」
「うん、花も綺麗。付き合ってくれてありがとう」
たまの休日に家族連れで混み合う王立植物園に来たのは、彼の観たがっていた博物画が展示中だからだ。
「もっと何というか、お洒落な店があれば良かったんですが」
「座れて君がいて花がよく見える、最高じゃない。あ、蝶々」
「そう言えば、さっきの蝶の鱗粉の絵もすごかったですね」
画家は後に著名な絵本作家になった人で、かつてここで働くことを望み、論文を書いて応募したという。
だが、望みは叶わなかった。
裕福に育って好きなことに才能があっても、女性だというだけで夢が潰えることがあるのだ。
「『チョウヨハナヨト』、蝶のように花のように、みたいな言い回しが日本語にあるんだって。大切に可愛がる、転じて甘やかす、くらいの意味合いでも使うらしい。あんなに綺麗に花や虫を描く人は、何の苦労もせずに夢が叶うといいんだけどね」
辛い思いをしないでほしいというのは同感だ。
「確かに…でも見てください、みんなうさぎのぬいぐるみを持ってますよ」
「本当だ」
「買って帰りますか」
「可愛いけど…私ね、読んだ中ではねずみが一番好きなんだよ」
仕事の無理がたたって眠り込んでしまった仕立て屋の代わりに、ねずみたちが大事な依頼をほぼ終わらせてくれるのだという。
「毎日、ねずみが犯人捕まえてくれないかなって思いながら出勤してる」
さすがに逮捕はできないのではないだろうか。
「あと、見たいところはありますか? さっきの赤い家とか」
「君、あれは一応宮殿だよ」
可愛らしいので家かと思った、と言ったら彼は声を上げて笑った。
「家もいいけど、あっちの塔がいいな。私たちはもう素敵なおうちを持ってるからね」
もう少し休んだら、そこに登ろう。家に帰ったら、何でもしてあげよう。まさしく蝶よ花よと。
最初から決まってた
個人的には
いい時にだけ 使いたい言い方です
絶対に自分のせいじゃない時も
使っている気がします
ただ、誰かの不運とか
自分のつらさとかに使うと
何かが 減る気がするのです
私について 最初から決まってたことは
文字を読むのが好きなことだけです
それを仕事にしている今
大変だけど 悪くはありません
明日、もし晴れたら
「空を見上げてみてください」
以下のふざけた話は、数年前に私が死に損なった時のものである。
「その、私はですね、貴方が言うところの神様と呼ばれる者なんですけど」
「いや、取り込み中なの分かりますよね? あと、『なんですけど』で止められても、だから何なのかが分かりません。それから自分に『様』をつけるのは」
「すみません、言い直します。私は貴方が神とか天使とか、そういったものに対して抱いているイメージをなるべくその…具体化するように命じられている者です。そして、貴方のような方を『次の場所』に案内するのが仕事でして」
「納得しました」
かれは「降りて」きた。
此処は自宅のすぐそば、私の住む三〇一号室すぐ上の屋上である。
柵に腰掛けた私の目に、階段の途中で潰れている私が見える。柵を乗り越えて自宅まであと三段の位置に落ち、動かなくなった私が。
月の明るい夜だった。
「何と申し上げればいいか」
「いや、お気遣いなく」
私は泥酔しており、かつ今日は、いやだいぶ前から死にたかった。だが何と言うか、もう少しうまくやれなかったものだろうか。
「…せめて道路に落ちろよとは自分でも思ってますけど」けどで止めてしまった。
大家さんはご高齢で、いつもにこやかな女性だ。「優しかった方の祖母」を思い出す。そんな方がすぐ下に住んでいるビルを事故物件にしてしまった。
「神様なんですよね? せめて敷地外にしたいんですけど、やり直しってできませんか? あとできれば事故っぽく」
「一度に三つのご要望にはさすがにお応えできかねるんですが…」
「じゃあ何ならできるんすか」
今一度お伝えしておくと、この時の私は泥酔している。
「最後に何か伝えたい方などがいれば夢枕に…」
いとこが突然死んだ時、その子の姉が「夢に出てきた」と言った。優しそうな男の人の、「最後だから、言い残したことがあったら言いなさい」という声の次に、弟の声で「お姉ちゃんありがとう」と聞こえたのだという。
いとこは心の病気で、まともなコミュニケーションができない状態だった。みんな、きっと伯父さんが迎えに来てくれたんだよ、と言った。
伯父さんとは私の死んだ父である。実のところ、私はこの話を信じてはいない。だが少なくとも、少しだけ慰めにはなった。私のところにも、迎えに来てくれてもいいはずだ。
「一番伝えたい相手はもうそちらに行ってます。いやそもそも今、今くらい来てくれてもいいんじゃないですか? 夢にも出てきたことないんですよ⁈ こんな知らんおっさん寄越さんでも」
「なんかすみません」
「いえすいません、さすがに失礼でした。ちょっと納得はしてないですけど」
「担当業務が違うんだと思います。あの、もし良ければ伝言だけはできると思うんですけど」
「じゃあ、伝えてほしいんですけど」
ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。…
三十回くらい繰り返したところで、「必ず、しっかりと、お伝えさせていただきますので」と遮られた。
のでなんだよ。あと敬語も変だよ。新入社員かお前は。
「新人さんですか」
「…経験不足なのは間違いありません」珍しく断定形である。
「私が成仏したらあなた一人前になれたりします?」
「…えーと…」
「取引相手がグダグダ言ってんだから、嘘でもいいからいいこと言って丸め込みなさいよ。『素晴らしき哉、人生!』って映画に出てくるでしょ半人前の天使が」すでに神様だとは思っていない。
「初めて聞きました」
「ちょっと疲れてる人にはすごく効く映画です…本当に死にたくなった後だと分かりませんが」
「…機会があったら観てみます」残念ながら、効く時期は通り過ぎちゃいましたが。
死を選んだが他人を巻き込まなかった人たちは、しばらく「次の場所」で休憩するのだという。
「温泉旅行あたりをイメージしていただいて」
せめて湯治と言ってくれ。
ほんの少し、苦しみを手放せた人たちは、こうして「自分と似た人」を案内していくのだという。
「あの今更なんですけど、何かすいません、色々暴言吐いて」
「あ、それはもうお気になさらず。人生最大レベルに衝撃的な出来事でしょうから」
「多分あなた、私よりずっとお若いですよね。実はさっきからずっとお顔が二重に見えているので、よくは分からないんですけど」
「あ、そこはモザイク処理になってるんです。万が一の場合に記憶に残らないように」
「向こうで会うかもってことですか?」
「いえ、万が一仮死状態だった時に、目覚めた方がものすごく絵がうまくて、私たち個人の顔がバレたりすると色々面倒なので」
妙に納得したところで、場違いな電子音が鳴った。何と言うか、昔ながらの「ビープ音」。1980年代のパソコンが出していた音だ。
「すみません」
かれは腕時計に目をやると蓋を開け、そこからアンテナを引き出した。何やらメッセージが来ているらしい。
「どこの骨董品? レトロSF?」
「上層部の趣味だそうです。特撮に出てきそうですよね」
確かに現実にはないと思う、そう言えば私の父は『ミクロの決死圏』という、手塚治虫のアイディアをパクったと言われているアメリカ映画(※詳細な事実関係は確認せずに書いています)がお気に入りだったけど、その中ではコンピュータのプログラムが穴をあけたパンチカードに入ってた、と言うとかれは驚いたようだった。
「うちの父に会ったら、その話もしてやってください」
「そのことなんですが、状況が変わりました」
貴方まだ死んでないみたいです。
「嘘でしょ? あそこでみっともなく転がってるよ⁈」
「万が一の事例が発生したと今連絡が来ました。酔っ払ってますし、気絶してるだけかと」カバンが下敷きになったおかげで、致命傷にはなっていないそうです。
…恥の多い人生を送って来ました。
でも、此処まで恥ずかしかったことは一度もない。
多分今悩んでることは、十年後にはどうでもよくなってるんだろうと思ってはいた。犯罪の被害に遭った訳でも、大きな災害に巻き込まれた訳でもない。ただ、かなり疲れた酔っ払いがバカなことをして、相応の代償を払ったというだけの話だ。私なら、今の私に同情しない。ひたすら大家さんに同情する。
私のイメージしていた神様とはちょっと違ったけれど、仕事でわざわざ来てくれたこのひとも、何か辛いことを抱えて「次の場所」に行ってしまったひとなのだ。そしてこのひとはもう、戻って来られない。
「たぶん、もうしばらくすると目が覚めます。怪我はしてるでしょうし痛いと思いますが、何とか救急車を呼んでください。もしかすると不可逆的な」私はかれの言葉を遮った。
「分かりました。自分でちゃんとできるし、必ずやりますから心配しないでください。ただ、あなたに一つだけお伝えしたいことがあります」
ごめんなさい。そして、本当にありがとう。
かれは「…どうも」と言ってくれた。改めて聞くと、とても若い声だった。
「それでは、何とか助けを呼んでくださいね。あと、これは業務上のアナウンスなので、ご無理のない範囲でお願いしたいのですが」
明日、もし晴れたら、空を見上げてみてください。
「バルンガでも浮いてるんですか」
「え、バルンガ知ってるんですか⁈」
「いや、何で『ミクロの決死圏』も知らない人が『ウルトラQ』知ってるんですか」
「日本の特撮は最高ですよ!」あ、個人情報は話してはいけないんでした。すみません。
「話を戻します。太陽をじっと見ていると、目が痛くなるでしょう? 苦しいことを見つめ続けると、それに呑み込まれそうになることがあります。目をそらしてください。見つめる必要はありません」
「太陽も死もじっと見つめることはできない、ですか」
「はい。能力的にできないのではなく、無理をして見続けなくていいよ、という意味で私たちは使っています」
私はもう一度、お礼を言った。
目が覚めたら明け方で、階段に突っ伏していて、口元がやたらに痛かった。
前歯がぐらついていて、唇が切れている。珍しかったので人生で初めて自撮りをした。
眼鏡は傷だらけで鼻当てがぺちゃんこに潰れており、鼻の頭が擦りむけていた。意識はあって動ける。救急車を呼ぶのは気が引けたので、医療機関の案内みたいなやつに電話して、朝を待って近くの大きな病院の歯科に行った。会社も休んだ。
タクシー乗り場で、昇ったばかりの太陽をじっと見上げる。目が痛くなったところでタクシーが来た。
前歯二本と引き換えに、私はほぼ元通りになった。医師からは目や顔の骨を傷つけなくて良かったね、としみじみ言われた。私の前歯はワシントン条約で保護されてもいいんじゃないかと思うくらいに綺麗で、「デカすぎるからなくなってほしい」と思っていた昔の自分に説教をしたい、と今では思っている。
母からは「お父さんが守ってくれたんだと思いなさい」と半泣きで叱られた。文字通りそうなんじゃないかと密かに思っている。
ただ、あの時酔っ払って取り乱した私に、ちゃんと向き合ってくれたかれ-かれがもう少し事務的なひとだったら、私は今頃あちら側に旅立っていたのではないかと思う。かれが不慣れで、私のおしゃべりに付き合ってしまったから連絡が間に合ったのだろう。
私は元いた、好きな仕事の部署に異動になった。
自分がその後、何か思慮深くなったとは全く思わない。だが。
最近、風船怪獣バルンガのイメージ元と言われるシェクリイの「ひる」を再読した。「もう一度読める」のがどれほど贅沢なことか、それくらいは分かっている。
明日もし、晴れたら、いつものお店で何か短篇を読もうと思う。
何か不思議で、ユーモアがあって、気の利いたオチのある素敵な話を。
だから、一人でいたい。
「シーソーは一人ではできない」
たまたま目に入った書き込みを見て、「確かに」と思った。自分ではない誰か、がいないと経験できないものは間違いなくある。今までシーソーで楽しく遊べたのは、私のために時間を割いてくれた誰かがいたからだ。心の底からありがたいと思う。
それでも残念ながら、相手に遠慮したり振り回されるようなシーソー遊びは楽しくないしもうしたくない、と思う自分もいる。
それくらいなら、一人でブランコを漕いでいたい。
とうに中年を過ぎ、あとどれくらい生きられるかも分からない。
自分が何を好きで何をしたいのか、それくらいは自分で決めたい。
だから、今は一人でいたい。