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明日、もし晴れたら

「空を見上げてみてください」

 以下のふざけた話は、数年前に私が死に損なった時のものである。

「その、私はですね、貴方が言うところの神様と呼ばれる者なんですけど」
「いや、取り込み中なの分かりますよね? あと、『なんですけど』で止められても、だから何なのかが分かりません。それから自分に『様』をつけるのは」
「すみません、言い直します。私は貴方が神とか天使とか、そういったものに対して抱いているイメージをなるべくその…具体化するように命じられている者です。そして、貴方のような方を『次の場所』に案内するのが仕事でして」
「納得しました」
 かれは「降りて」きた。
 此処は自宅のすぐそば、私の住む三〇一号室すぐ上の屋上である。
 柵に腰掛けた私の目に、階段の途中で潰れている私が見える。柵を乗り越えて自宅まであと三段の位置に落ち、動かなくなった私が。
 月の明るい夜だった。

「何と申し上げればいいか」
「いや、お気遣いなく」
 私は泥酔しており、かつ今日は、いやだいぶ前から死にたかった。だが何と言うか、もう少しうまくやれなかったものだろうか。
「…せめて道路に落ちろよとは自分でも思ってますけど」けどで止めてしまった。
 大家さんはご高齢で、いつもにこやかな女性だ。「優しかった方の祖母」を思い出す。そんな方がすぐ下に住んでいるビルを事故物件にしてしまった。
「神様なんですよね? せめて敷地外にしたいんですけど、やり直しってできませんか? あとできれば事故っぽく」
「一度に三つのご要望にはさすがにお応えできかねるんですが…」
「じゃあ何ならできるんすか」
 今一度お伝えしておくと、この時の私は泥酔している。
「最後に何か伝えたい方などがいれば夢枕に…」

 いとこが突然死んだ時、その子の姉が「夢に出てきた」と言った。優しそうな男の人の、「最後だから、言い残したことがあったら言いなさい」という声の次に、弟の声で「お姉ちゃんありがとう」と聞こえたのだという。
 いとこは心の病気で、まともなコミュニケーションができない状態だった。みんな、きっと伯父さんが迎えに来てくれたんだよ、と言った。
 伯父さんとは私の死んだ父である。実のところ、私はこの話を信じてはいない。だが少なくとも、少しだけ慰めにはなった。私のところにも、迎えに来てくれてもいいはずだ。

「一番伝えたい相手はもうそちらに行ってます。いやそもそも今、今くらい来てくれてもいいんじゃないですか? 夢にも出てきたことないんですよ⁈ こんな知らんおっさん寄越さんでも」
「なんかすみません」
「いえすいません、さすがに失礼でした。ちょっと納得はしてないですけど」
「担当業務が違うんだと思います。あの、もし良ければ伝言だけはできると思うんですけど」
「じゃあ、伝えてほしいんですけど」

 ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ありがとう。…

 三十回くらい繰り返したところで、「必ず、しっかりと、お伝えさせていただきますので」と遮られた。
 のでなんだよ。あと敬語も変だよ。新入社員かお前は。

「新人さんですか」
「…経験不足なのは間違いありません」珍しく断定形である。
「私が成仏したらあなた一人前になれたりします?」
「…えーと…」
「取引相手がグダグダ言ってんだから、嘘でもいいからいいこと言って丸め込みなさいよ。『素晴らしき哉、人生!』って映画に出てくるでしょ半人前の天使が」すでに神様だとは思っていない。
「初めて聞きました」
「ちょっと疲れてる人にはすごく効く映画です…本当に死にたくなった後だと分かりませんが」
「…機会があったら観てみます」残念ながら、効く時期は通り過ぎちゃいましたが。

 死を選んだが他人を巻き込まなかった人たちは、しばらく「次の場所」で休憩するのだという。
「温泉旅行あたりをイメージしていただいて」
 せめて湯治と言ってくれ。
 ほんの少し、苦しみを手放せた人たちは、こうして「自分と似た人」を案内していくのだという。

「あの今更なんですけど、何かすいません、色々暴言吐いて」
「あ、それはもうお気になさらず。人生最大レベルに衝撃的な出来事でしょうから」
「多分あなた、私よりずっとお若いですよね。実はさっきからずっとお顔が二重に見えているので、よくは分からないんですけど」
「あ、そこはモザイク処理になってるんです。万が一の場合に記憶に残らないように」
「向こうで会うかもってことですか?」
「いえ、万が一仮死状態だった時に、目覚めた方がものすごく絵がうまくて、私たち個人の顔がバレたりすると色々面倒なので」
 妙に納得したところで、場違いな電子音が鳴った。何と言うか、昔ながらの「ビープ音」。1980年代のパソコンが出していた音だ。

「すみません」
 かれは腕時計に目をやると蓋を開け、そこからアンテナを引き出した。何やらメッセージが来ているらしい。
「どこの骨董品? レトロSF?」
「上層部の趣味だそうです。特撮に出てきそうですよね」
 確かに現実にはないと思う、そう言えば私の父は『ミクロの決死圏』という、手塚治虫のアイディアをパクったと言われているアメリカ映画(※詳細な事実関係は確認せずに書いています)がお気に入りだったけど、その中ではコンピュータのプログラムが穴をあけたパンチカードに入ってた、と言うとかれは驚いたようだった。

「うちの父に会ったら、その話もしてやってください」
「そのことなんですが、状況が変わりました」
 貴方まだ死んでないみたいです。

「嘘でしょ? あそこでみっともなく転がってるよ⁈」
「万が一の事例が発生したと今連絡が来ました。酔っ払ってますし、気絶してるだけかと」カバンが下敷きになったおかげで、致命傷にはなっていないそうです。

 …恥の多い人生を送って来ました。
 でも、此処まで恥ずかしかったことは一度もない。
 多分今悩んでることは、十年後にはどうでもよくなってるんだろうと思ってはいた。犯罪の被害に遭った訳でも、大きな災害に巻き込まれた訳でもない。ただ、かなり疲れた酔っ払いがバカなことをして、相応の代償を払ったというだけの話だ。私なら、今の私に同情しない。ひたすら大家さんに同情する。
 私のイメージしていた神様とはちょっと違ったけれど、仕事でわざわざ来てくれたこのひとも、何か辛いことを抱えて「次の場所」に行ってしまったひとなのだ。そしてこのひとはもう、戻って来られない。

「たぶん、もうしばらくすると目が覚めます。怪我はしてるでしょうし痛いと思いますが、何とか救急車を呼んでください。もしかすると不可逆的な」私はかれの言葉を遮った。
「分かりました。自分でちゃんとできるし、必ずやりますから心配しないでください。ただ、あなたに一つだけお伝えしたいことがあります」

 ごめんなさい。そして、本当にありがとう。

 かれは「…どうも」と言ってくれた。改めて聞くと、とても若い声だった。
「それでは、何とか助けを呼んでくださいね。あと、これは業務上のアナウンスなので、ご無理のない範囲でお願いしたいのですが」

 明日、もし晴れたら、空を見上げてみてください。

「バルンガでも浮いてるんですか」
「え、バルンガ知ってるんですか⁈」
「いや、何で『ミクロの決死圏』も知らない人が『ウルトラQ』知ってるんですか」
「日本の特撮は最高ですよ!」あ、個人情報は話してはいけないんでした。すみません。

「話を戻します。太陽をじっと見ていると、目が痛くなるでしょう? 苦しいことを見つめ続けると、それに呑み込まれそうになることがあります。目をそらしてください。見つめる必要はありません」
「太陽も死もじっと見つめることはできない、ですか」
「はい。能力的にできないのではなく、無理をして見続けなくていいよ、という意味で私たちは使っています」

 私はもう一度、お礼を言った。

 目が覚めたら明け方で、階段に突っ伏していて、口元がやたらに痛かった。
 前歯がぐらついていて、唇が切れている。珍しかったので人生で初めて自撮りをした。
 眼鏡は傷だらけで鼻当てがぺちゃんこに潰れており、鼻の頭が擦りむけていた。意識はあって動ける。救急車を呼ぶのは気が引けたので、医療機関の案内みたいなやつに電話して、朝を待って近くの大きな病院の歯科に行った。会社も休んだ。
 タクシー乗り場で、昇ったばかりの太陽をじっと見上げる。目が痛くなったところでタクシーが来た。

 前歯二本と引き換えに、私はほぼ元通りになった。医師からは目や顔の骨を傷つけなくて良かったね、としみじみ言われた。私の前歯はワシントン条約で保護されてもいいんじゃないかと思うくらいに綺麗で、「デカすぎるからなくなってほしい」と思っていた昔の自分に説教をしたい、と今では思っている。

 母からは「お父さんが守ってくれたんだと思いなさい」と半泣きで叱られた。文字通りそうなんじゃないかと密かに思っている。
 ただ、あの時酔っ払って取り乱した私に、ちゃんと向き合ってくれたかれ-かれがもう少し事務的なひとだったら、私は今頃あちら側に旅立っていたのではないかと思う。かれが不慣れで、私のおしゃべりに付き合ってしまったから連絡が間に合ったのだろう。

 私は元いた、好きな仕事の部署に異動になった。
 自分がその後、何か思慮深くなったとは全く思わない。だが。
 最近、風船怪獣バルンガのイメージ元と言われるシェクリイの「ひる」を再読した。「もう一度読める」のがどれほど贅沢なことか、それくらいは分かっている。

 明日もし、晴れたら、いつものお店で何か短篇を読もうと思う。
 何か不思議で、ユーモアがあって、気の利いたオチのある素敵な話を。

8/2/2024, 10:19:27 AM