NoName

Open App
7/16/2024, 10:12:52 AM

終わりにしよう

 という台詞を、折角なので誰かあなたのお好きな(できれば中年以降の)、なるべく耳に快い声の俳優が言っているところを思い浮かべていただきたい。数日前の会話である。
「どうして…?」
「君に振り回されるのはもう疲れた。暦を見たまえ、もう七月も半分過ぎた。終わったんだよ」
「もう次が来るの…?」
「来るんじゃない、もういる」
「ひどい…!」
「そうじゃない、君はここに留まりすぎた。一方あちらは気が早すぎる。君たちは似た者同士だ。少しでも自分が主役でいようとする。だが残念ながら、君の季節は終わりだ」
 洋画でよくある場面-少し間を空けて「It's over」と言うように、もう一度繰り返した。
「終わったんだよ」
 かれが号泣(言葉の本来の意味通り「泣き叫んで」いた)し始めると、たちまち雷が轟き、大粒の雨が降ってきた。
「諦めてくれ」
 それだけ言って、庭へ続くガラス戸をぴしゃりと閉めた。

 それから数日、私が駅から自宅へ帰る時に限って雨が降る。これが「涙雨」なのだろう。何ともじめついた降り方で、帰宅した途端にやむ。
 だが私は心を鬼にして、次の相手を迎えねばならない。毎年命の危険を感じながら付き合っている相手なのだ。とてもではないが同時に相手はできない。
 そんな私が今本気でうんざりしているのは、「終わり」にしたい梅雨が、どうやらまだ一週間ほど続くらしいということである。
 そして、また長い夏が来る。

7/15/2024, 2:33:58 PM

手を取り合って

 壁の染みに気づいたのは、数年前のことである。
 その頃の私は、ある人に徹底的に嫌われていた。
 大病をして会社に戻ったら、「会社に迷惑をかけた役立たず」として、産業医に健康状態と勤務態度に関して出鱈目で悪意のこもった報告書を出された。それを書いた人が、「まともになるまで指導してくれる」のだという。
 電話を一回とるごとに「敬語が丁寧すぎる」といって十五分怒鳴られ、ベテランの部員が四人がかりで二日かけてやる作業を半日・一人で出来なかったといって別室に呼び出され、まあ毎日一〜二時間は怒鳴られていた。

 通勤電車に乗るたびに、飛び込んだら楽になるかな、と思ってはいた。だがこの路線はホームドア完備の上、ギリギリで乗り越えられなさそうな高さである。へばりついてじたばたした挙句、電車を遅らせて人に迷惑をかける。それはちょっと、あまりにも格好悪い。
「万里の長城は馬が越えられない高さ」と子供の頃習ったのを思い出した。

 昔は、夕飯のおかずをいつも三品作っていた。手際は良くないが、自分で作ったものを食べるといつでもほっとした。
 いつしか皿や箸、グラスすら洗うのが面倒になり、ほとんど家では食べなくなった。食べることも面倒になり、ひたすら酒を呑んだ。
 部屋は荒れ果ててベッドの上にまでモノが溢れ、毎晩、ベッドの端で体育座りをして寝た。
 染みはそのそば、ちょうど目の高さにあって、何となく五本の指と握り拳を連想させる形をしていた。汚れた手で触ったかと思い、何度も拭いてみたが落ちない。諦めた。

 ある晩いつも通り酔っ払って、コンビニで珍しくバナナを買って帰った。
 グラスにウイスキーを入れる。
 ベッドの定位置(そこしか座る場所がない)に陣取っていつもの染みを見ると、そこに両手があった。
 手の甲を上にして、右手は緩く開き、左手は軽く握っている。
 右手が、「 やあ 」と言うようにヒョコッと上がった。
 反射的に「ジャンケンしよっか」と言ってチョキを出したら、右手はグーを作ってきた。
「負けたからあげる」バナナを出すと、右手はしっかり受け取ってくれた。
 自分の言葉に誰かが反応してくれたのは久しぶりだった。家族が病気をしていた時期で、人とゆっくり話せる状況ではなかった。
 何だかいい気分になり、ウイスキーを呷ってそのまま寝た。
 目が覚めると、いつもは週に一度しか洗っていないグラスがきちんと水切りカゴにいて、バナナの皮はゴミ袋に入っていた。

 手は酔っている時に時々現れた。
 そのうち、失くしたと思った書類や、探していたものがベッドの定位置に置かれるようになった。
「あった…」
 そう言えば昔の私はものを失くさなかったし、何かを探すこともなかったような気がする。でも今は、ガラクタと貴重品をごた混ぜに放り込んだ巨大なゴミ袋に住んでいるようなものだ。
 自分は多分壊れているんだな、と思った。でもこの手はどうやら親切にしてくれる。嬉しかったので、時々いいバナナを買った。

 しばらく経って、元の部署に異動が決まった。病気になる前にいた部署だ。なかなか死ねないし、戻れないならもう辞めようと思っていた頃だった。
 辞令が出てから初めて手が出てきた時、元の部署への想いを長々と語って聞かせて、ウイスキーのグラスを持たせてみた。
 誓ってもいいが、戻ってきた時、確かに減っていた。一口にしてはちょっと多かったと思う。だが右手はサムズアップをしてくれた。
 右手はさらに「ちょいと奥さん」みたいに手を動かして、ベッドの一角を指差した。そこらにあるものを一つずつ持ち上げる。どうやら数年前から転がっていたペンがご所望らしい。インクが切れていないか確かめてから渡すと、ペンを持ったままサムズアップしてきた。
 その日はそのまま寝た。

 あくる日、手が置いてくれた週末の舞台(予定そのものを忘れていた)のチケット袋に、ミミズがのたくったような字が書いてあった。
「このぶたい みたら フロのてんじょう うえ」
「けいさつ ごめん」
 舞台は元々好きな映画をミュージカル化したもので、とても素晴らしかった。何が好きだったのかも忘れていた自分に呆れつつ、自分にとって大事なものを思い出せたことに嬉しくなった。
 帰ってきて、まずはゴミ屋敷をできるだけマシにした。「けいさつ」を呼ぶような事態が起こるのなら、せめて獣道くらい作らないといけない。
 浴室の天井裏にはビニールで厳重にくるんだ箱があった。指紋をつけないよう、きれいなタオルで持って開けてみる。中には、人間の両手だったらしきもの-左手は軽く握った形-が入っていた。
 まずは大家さんに連絡した。実はここ数年色々あって部屋がめちゃくちゃであること。それを何とかしようと思って大掃除を始めたら(これはもちろん大嘘である)、変な箱が出てきて、その中に…
 警察がきて、色々と片付いた。
 大家さんは私を一切責めず、色々大変だったんだね、何とか頑張るんだよ、と言ってくれた。

 その手は私が越してきた十年前よりももっと前、遠くの県で遺体で見つかった人のものだった。今でも身元は分かっていないという。
 犯人も不明、手だけが見つからなかったが、私の何代か前の入居者で連絡のつかない者がいるらしい。
 被害者は左利きらしく(遺留品に左利き用の文具があったが、それでも身元の特定には繋がらなかった)、見つかった左手の指はすべて骨が折れていた。
 こうしたことを、すべて報道と昔の新聞記事で知った。この間、手は一度も現れなかった。

 明日元の部署に戻れるという日に、久しぶりに手が現れた。
 両手を合わせて、拝むようなポーズをしてみせる。左手は曲がったままなので、ちょっと昔の映画に出てくる「謎の東洋人の武術家」みたいにも見える。
「舞台、すごく楽しかった。本当にありがとう」
 右手がサムズアップした。
「…何もできなくてごめんね」
 そう言うと、手は最初にしたように、両の手のひら側をこちらに向けた。そっと両手を合わせると、手は自分の両手を合わせて包むように持った。 
 とても温かかった。
 自分たちは手を取り合って、しばらくそのままでいた。

 いつのまにか眠り込んでしまい、例によって体育座りで目を覚ますと、手も壁の染みも消えていた。
 せめて名前を書いてもらえばよかった、と今でも思っている。

 私は今、少なくとも自分を憎んではいない人の中で、大好きな仕事をしている。自分で思っているよりも評価されており、もう死にたいとは思っていない。
 もし誰かが、少し前の私より遥かに辛い状況にあったとしても、少しばかり運動神経が悪くて虚栄心がまあまああり、一人だけでも手を差し出してくれる人がいれば、死なずにすむかもしれない。そうであってほしいと思う。
 この出来事で残念なのは、すでに亡き人は呼び戻せないということ、そして誠に遺憾ながら、私はどうやら部屋が汚くても平気らしいということだ(かつては違ったということだけは強調しておきたい)。
 それでもベッドの上だけはきれいになり、身体を伸ばして眠れるようになった。舞台のチケットも失くさなくなった。

 今度、『無伴奏ソナタ』の舞台版を観に行く。そしてティム・バートン-あの時観た舞台、『ビッグ・フィッシュ』の元になった映画の監督-の新作は必ず観る。
 たった一度でも手を取り合えた人がいて、これから先を楽しみに待てる。
 私は幸福を知っている。

7/13/2024, 2:56:25 PM

これまでずっと

 新しい部下は純粋な意味での人間ではなく、多少撃たれても死なないとのことだった。
 人間と違って嘘が吐けず、人を安心させる言動ができるように設計されているという。
 確かに、よくできていた。
 子どもを安心させるのがひどく上手く、自分の苦手なこと(例えば釦をとめたり靴紐を結んだり)までまめまめしく手伝ってくれる。何をやらかしても、呆れた顔をされることはない。それだけでとても安心した。

 ある日、彼は自分を庇って怪我をした。ショットガンが二発、脛と側頭部にかすった。
「死なない?」
 彼のメンテナンスを担当するドクターは、「大丈夫ですよ」とだけ言った。
「頭の傷、禿げたりしない?」彼はとても綺麗な金髪の持ち主だ。
「パーツごと取り替えますから大丈夫です。可哀想ですが、民間人と警官の保護は最優先事項なので」
「…私はこんな怪我させたくないんだよ」
 自分は自分の意志で警官になった。でも彼は「そう作られている」だけだ。
「確かに、どこか平和なところで子どもか年寄りの世話をするのも向いていそうですね」
 世話をしてほしいのは自分だ、と言いそうになって気がついた。
 これまでずっと冷やかされてきたように、彼が(嫌ではないことを前提に)自分の面倒をみてくれたら、そうしたら、毎日がもっといいものになりそうな気がする。
「参考までに聞きたいんだがね」
 この子を買い取るにはどうしたらいいの?
「…私は値段をつける立場じゃありません。ですのであくまで参考までに申し上げますが、この傷の治療費は…」
 なかなかの金額だった。義父の遺した財産を全て横領しても買い取るのは難しいだろう。
「ただ、買取希望の方が政府にとって極めて重要な情報を持っている場合、取引材料にはなるでしょうね」
 例えば、非常に希少な疾患とか。

 治療を終えた彼は眠っている-正確には、一時的に機能を停止している。
 断られたら諦めるが、とりあえず準備はしておこう。自分のために怪我をするのはもう見たくない。
 自分はきっと、これまでずっと淋しかったんだな、と初めて思った。


 目を開ける。
 眠っていた訳ではないが、何となく新しい気持ちになる。
 腕の中で彼が眠っていて、黒い髪が寝息につれてかすかに動いている。
 起こして(これが大変なのだ)、シャワーを浴びて、朝食を食べさせ、身支度を手伝う。
 手がかかるのは事実だが、同僚の人間たちに言われるように搾取されている訳ではない。
「ん」今日はすんなり起きてくれた。
 彼が深緑の目を開けると、体から余分な力が抜けるのを感じる。多分、人間の言う「安心」とはこういう感覚なのだろう。
 作られた存在である自分には「これまで」がない。
 ただ、これからずっとこの生活が続くなら、自分にも「これまで」が積み重なっていき、きっと人間の言う「幸せ」がわかるのではないか、そう思っている。

7/6/2024, 9:34:37 AM

星空

 私が星だと思っているものは
 空にあいた穴なんだそうです

 昼の間は太陽の眩しさで
 気づかずにいるけれど
 夜になるとそこに
 彼方の美しい処から光が漏れてくる
 それを星空と呼ぶのだと
 そう聞きました

 いつか空が割れて
 その美しい場所に行けたら
 会いたい人に会えて
 見たい夢が見られるのではと
 そう思っていました

 そう言えばもう長いこと
 星を見ていません

7/4/2024, 2:51:46 PM

この道の先に

 国境を越えた道の先に人だかりができていて、いきなり兵士に捕まった。
 何でもこの国には入ったら出られない迷宮があり、そこに棲む怪物が王を悩ませているのだという。
 七日に一度、この道を正午に通った者を退治に向かわせる。倒した者には、王の姪に当たる麗しい姫を与える。最初に通りかかったのが自分だった。
 顔も分からない娘を貰っても困る。

「是非、貴方に行っていただきたいのです」
 凛とした若い女の声。長衣に頭巾を深く被って、腰から美しい帯飾りを提げている。姫の侍女だという。
 「怪物」を殺さずに戻って来てくれたら、必ず貴方の望みを叶えると姫は云っています。
「僕には無理そうですが…」
 侍女は兵士に合図をして下がらせた。
 これを持って行ってください。糸を掛けながら最初はまっすぐ、二つ目の角を右に曲がって。迷ったら、これと同じ糸玉がある道へ進むんです。
「無理そうなのに、なぜ親切にしてくれるんですか?」
 貴方が丸腰だからです、と侍女は言った。どうか私を信じて、必ず殺さずに帰って来てください。
 誰かを本気で案じる人の声だった。
 とりあえず姫は見ず知らずの誰かに命を賭けろと言う人ではないらしい。それに、何であれ誰であれ、殺すのは嫌だ。
 最初はまっすぐ、二つ目の角を右へ。侍女の言う通り、いずれかの道の先に次の糸玉が置いてあった。

 大きな扉を開けると(苦もなく開いた)、そこには日の差し込む部屋があり、金色の髪をした大きな人間と出くわした。
 よく見ると、ただの大きな男だった。腰から、さっきの侍女と似た帯飾りを提げている。
「…驚かないの?」
「怪物じゃなかったからものすごく安心してる」
 部屋はきちんとしていて、隠者の隠れ家みたいだ。
「本当に怖くないの?」
「何が?」ただの人じゃないか。
「…目は見えてる?」
「うん」
 彼は失礼、と言って自分の手をとり、彼の左頬に当てた。何だか大きな凹凸があり、ざらついている。
「こんな顔だから、ずいぶん前から此処にいるんだ」
 日も当たるし、水も食べ物もちゃんとある。此処を作った人が、なるべく居心地がいいようにしてくれた。
「ところで何で、どうやって此処に来たの?」
 これまでの経緯を話した。
「丸腰で危ないよ。それに早く帰った方がいい」
「…じゃあ、一緒に入口の近くまで来てほしい。その女の人はすごく君を心配してるみたいだったから」
 彼は何らかの責任を感じたらしく、頭巾を深く被ってついて来た。だが話してみると穏やかで物知りで、一緒にいてとても気が楽だった。

 外はもう夜で、あの帯飾りの侍女がいた。
「あの人は?」
 一緒に来たけど、見えないように隠れてる。顔を見られたくないからと。
「彼が怖くはありませんでしたか?」
「僕は人の顔がまったく分からないんです」だから何とも思いません。
 お姫様がどれほど美しくても、自分にはそれが分からない。
「では、どうかお願いがあります」侍女の声は震えていた。
「あの人に、帯飾りを渡してほしいと伝えてください。そうすれば、貴方を閉じ込めた者たちに、貴方は死んだと伝えられるからと」
 彼が承諾の合図に咳払いをしたので、その通りにした。
 侍女はびっくりするような礼金と馬車を用意していた。
「もしできれば」彼女はよく通る、凛とした声で言った。
「この道の先、王の手の届かないところへ逃げてください。そしてどうか幸せになってください。貴方の苦しみを知らなかった私がそれを恥じている、とどうかお伝えください」
 彼女は頭巾を取った。彼と同じ、金色の髪をしていた。
「貴方のお母様は、最期までただ貴方を愛していた。彼女の娘である私が証人です」
 彼女は頭巾を被り直し、小さな声で
「兄を助けてくれて、そして私を望まぬ結婚から救ってくれてありがとう」
そう言った。その時だけ、とても幼く聞こえた。望みは、と訊かれたので、彼が嫌でなければ一緒に行こうと思う、と言った。

 しばらく経って、彼の頭巾がそっと出て来たので、
「行こう」と言った。
「家出してきた僕の故郷へ。あなたのことは必ず守るから、僕の話し相手になってくれないかな」
 喜んで、と彼が言った。
 そこで僕たちは出発した。
 この道の先、安心できる場所へ向かって。

Next