それは夕暮れ時だった。
空は夕日に染まり、紅色や山吹色、水色が混ざったよう
な色合いをしていた。
板前見習いの銀次は、お使い先の豆腐屋から帰るところ
だった。
料亭への帰り道、大きい石橋に差し掛かった頃、周囲の
どよめきに気がついた。
向かいから女が歩いてくる。綺麗な着物を着、笠をかぶ
った女だ。時間帯もあり、俯いているのもあって、顔は
よく見えない。だが、歩き方は上品で高い教育を受け
ていると分かる。
そして、周りをどよめかせる1番の原因は、女の纏う
雰囲気だった。一歩一歩踏みしめるように歩く姿は、
華奢な身体に似合わぬ威厳が、真っ直ぐ伸びた姿勢
からは凛とした美しさが、少し微笑っている口元には
妖艶さが、恐ろしいほど滲み出ていた。
銀次は女から目が離せない。見てはいけないものの
ような気がするが、誘惑されるように、自らの欲望の
ままに、貪るように女を見る。
歩くのも忘れ、突っ立っている銀次に、女が少しずつ
近づいてくる。
銀次は動けない。
十尺、
五尺、
一尺…
女は銀次の横を通り過ぎていく…。
歩きながら女は笠を少し上げ、銀次に囁いた。
「私は黄昏。会いたかったら天津屋においで。」
黄昏は風のように銀次のよこを吹いていった。
銀次の脳裡に、垣間見た黄昏の顔が焼き付いた。
誰をも惑わせる、妖しく美しい顔だった。
夕暮れ、店を離れ良い男に声を掛ける…。
天津屋、黄昏の新しい客を得る秘技であった。
彼は誰時、黄昏と名乗る美女に会ったら身の終わり
誰かわからないまま魅入られてしまったらもう遅い。
彼女という深い沼に堕ちて、この世で1番の悦楽と地獄
を見てしまう。
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たそがれ
「私は黄昏」
その子供は、国で最も高い塔の地下に閉じ込められて
いた。
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砂漠の中に、突然現れたようなオメラスという国は、
豊かな大地、尽きることのない鉱脈、昔から伝わる技術
によって、栄華を極めていた。
民は美味しい肉やパンを食べ、流行りの服を着、美しい
家に住む、幸せな生活を送っていた。民は、豊かな国の
豊かな生活に満足していた。
青色の屋根と白色の壁が特徴的な街並みは、オメラスに
訪れたことがない者たちも夢に見るほど美しかった。
他の国に住む者たちは、砂漠においてありえないほどの
豊かな暮らしを訝しむこともあったが、彼らもその恩恵
を受けていたので、深く考えようとはしなかった。
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翻って、塔の地下に住む子供はどのような生活を
していたか。
国の象徴にもなるような豪奢な塔の地下は、悲惨としか
言いようがなかった。
6歳ほどの子供だろうか。その年の子供にしては、腕や
足は骨と皮だけで、お腹は膨らみ、服も着ていない。
便所や体を洗う場所もなく、洗う者もないので、体は
垢や糞尿にまみれている。子供は人に会ったことが
ないので言葉も喋れず、思考も奪われ、ただ飢えに
あえぐだけの暮らしである。
光も入らず、音もない、闇と静寂に包まれた部屋で
子供は一人生きていた。
聞くだけで気持ちの悪い話である。だがしかし、その国
の人は子供の存在を知っていた。国に住むこどもも、
理解できる年になれば親から伝えられる話だった。
知っていても手は出せない。
なぜなら、子供を救えばオメラスの豊かな暮らしは
崩れ去り、砂漠で痩せ細っていくだけの貧しい国に
なってしまうからだった。
国の民は、子供の悲惨な暮らしとともに、国の繁栄の
もとを教えられるのだった。
みな、子供の境遇に同情するものの、己や家族、友人の
幸せを壊すことはできなかった。子供に1切れのパンを
差し出す者や、からだを拭く布を与える者は、国の
長い歴史の中で一人も居なかった。
稀に、小さな子供の悲惨な暮らしと引き換えに、豊かな
暮らしを享受することに耐えられず、国を出て、砂漠の
向こうに旅立っていく者もいた。
彼らをオメラスを去る人々と言った。
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「お前たちはこの話をどう思う?」
ある豪奢な部屋で、老いた男が孫たちに問いかけた。
男と女の双子で、彼らもオメラスの子供と同じくらいの
歳である。二人並んで天鵞絨の座椅子に腰掛け、
育ちの良さそうな素直な目で、祖父の話を聞いていた。
「ぼくはオメラスを去る人々に共感する。
だってその子供はかわいそうだけど、ぼくは妹と
おじいさまの幸せをうばうことはできないもの」
兄は優しい子で、人々の痛みを感じることができた。
「わたしはその子供はくにの弱点だとおもうわ。
だってその子をすくえば国はよわくなって、
かんたんに国をおとせるもの」
妹は利発な子で、国の行く先を考えることができた。
老人は、老王は、考える。
(国の王を任せるのはどちらが良いだろうか。
兄の方が王になったら、民を思いやり、国のために
正しい判断をして、安定した国をつくれそうだ。
逆に、妹の方が王になったら、他の国と渡り合い、
領地を増やして、豊かな国をつくれそうだ。
…やれやれ。優秀な孫たちで困るな。
また今度考えよう。)
老人はそこで考えるのをやめ、孫たちに向き直った。
「なるほど、二人の考えはよくわかった。
今日は遅いからもう寝なさい。」
おしゃべりな孫たちと別れると、部屋に静寂が訪れる。
静けさの中で、老人は昔を思い出していた。
(私があの国を領土としたのはいつじゃったか。
塔の下に閉じ込められていた子供を救い出し、我が娘の
伴侶としたのは。
砂漠の中で旨味もないように見えたが、塔の下には
巨大な鉱脈が走っておった。あの国の王は豊かな暮ら
しを失うのを恐れて、子供に手を出さなかったが、
勇気を奮って救けていれば、真実の繁栄を手にすること
ができたのにのう…。まあ、それも過ぎた話じゃ…
今は…二人の…孫たちに…専念しなければ……)
老人は安楽椅子を揺らしながらいつの間にか
寝入っていた。
本当の静寂に包まれた部屋では、老人を昔から知る月
が、優しく照らしていた。
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静寂に包まれた部屋
「老王の思い出」
オメラスを去る人々という話の紹介、後日譚のような
話です。なかなかにえぐい話ですよね。
「私の瞳の色は心の色なの」
彼女はそう教えてくれた。
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彼女は澄んだ青色の目を持っていた。
ふわふわの髪の毛は私の直毛と、全く違った。
姿かたちは、どこか異国の雰囲気を漂わせていた。
彼女は緑香る頃、爽やかな風と共に、私達の学校に
やってきた。彼女は、退屈な日常に異国情緒を伴った
風を吹き込み、非日常に変えたのだった。日常に
飽き飽きして、非日常に飢えていた私達は、
たちまち彼女の虜となった。明るく美しい彼女も、
私達のことを好いてくれたようで、クラスは彼女を
中心として、きちんと回っていた。
私は彼女のことを1番愛しく思っていて、彼女も
クラスの中で、私を大事に思っていてくれた。
自分の瞳が感情によって変わるという秘密を
私にだけ教えてくれた。彼女の瞳が冷たい色に
なるとき、彼女は悲しみや怒り、辛さなどの良くない
感情を感じている。逆に、暖かい色になるとき、
喜びや、嬉しさ、などの良い感情を感じているときだと
発見したりもした。
なのに、歯車が狂い始めたのはいつからだろうか。
最初は、うさぎ小屋でうさぎが死んだ事件だった。
当時、生き物係だった私と彼女は、放課後小屋で、
包丁で殺されたうさぎの時代を見つけた。
なかなかにグロテスクで、彼女の後ろに隠れて
しまったくらいだった。
「うさぎ殺されたみたい…。」
「誰がこんなことしたのかしら。ひどいわね。」
彼女は憤慨した様子で、そう言った。正義感の強い
彼女は、こんな事件が起きたら首を突っ込むこと
間違いなしだった。私は密かに、放課後も彼女と
居られる喜びを噛み締めながら、小屋の周りを
観察した。特に何も見つからなかったけれど、
彼女はなにか分かったようだった。
「今日は朝の7時半まで、雨が降っていたわね。
なのに扉を 開けた跡が土に残っているわ。
きっと朝にやったのでしょう。朝7時半から…
そうね、朝挨拶委員が並ぶまで、8時までに
来た人は誰かしら。」
私は答えられなかった。朝のことなんて覚えて
いなかった。そう繰り返す私に、彼女は諦めたよう
だった。犯人探しは頓挫した。
事件はおそらく生徒の犯行ということで、表沙汰には
ならなかった。彼女の瞳の色は緑色だった。
冷たい色だった。きっと悲しみを感じていたんだと
おもっていた。
歯車が狂い出した原因は、もう一つあるだろう。
彼女の瞳の色について、噂が出回ったのだ。
彼女の表面しか見たことがない人は、彼女の美しさを
妬み、悪意のある噂を流した。魔女の末裔だとか、
はたまたそれは虚言で、有名になりたいがためについた
嘘だとか。
みんな好きになるのが早かった分、離れていくのも
早かった。みな、異国からやってきた素敵な姫と
思っていたのに、もう他国からやってきた異物だと
思っているようだった。
彼女は徐々に孤立し、顔に笑みが浮かぶことも
なくなった。私は最後まで彼女のそばにいたけど、
彼女の瞳は緑色をたたえたまま変わらなかった。
深い哀しみに取りつかれているのだと思っていた。
そして彼女はとうとう転校した。
私に何にも告げず、学校に行ったら居なかった。
不審に思って先生に聞いたら、転校するのだと
教えられた。先生は親切に、彼女たちが出発する時間
も教えてくれた。
私はその時間に、彼女の家まで行った。ちょうど彼女が
出ていく頃で、私は声をかけた。
「ねえ、帰っちゃうの?なんにも言ってくれなかった
じゃない!」
「ねえ、なにか言うことはないかしら。」
「言うこと?うーん…。あなたがいなくなったら
さみしいわ。」
彼女はもうなにも言わなかった。黙って私に背を
向けた。そしてそのまま歩き出した。
でも私には見えた。別れ際の彼女の目は緑色だった。
多少素っ気なくても、別れを悲しく思っているのだと。
分かったつもりだった。
最近までは。でも今になってあのことを思い返すと、
彼女は気づいていたのかもしれない。
私が、うさぎを殺したって。彼女と少しでも長く一緒に
居たくて、あんなことをした。朝早くに来ていたのは
二人だけだった。私と、利き腕を骨折をしていた
クラスメイト。言ったらバレると思って、忘れたふりを
した。でもあれくらい骨折をした子に聞けば、すぐに
わかったはずだ。まともにうさぎを殺せたのが私だけ
だったと。
噂もそうだ。あのことを知っていたのは私だけだった。
みんなと仲良くしている彼女を見て、少し孤立したら
私だけを頼ってくれると思ったのだ。
そう、きっと彼女の瞳の緑色。
あれは軽蔑の色だったに違いない。
犯行をして、自分はやっていないように振る舞っていた
その姑息さを、心底軽蔑していたに違いない。
そして別れ際に、彼女が促しても知らない振りをした。
その卑怯さに呆れ果てついに私を見放したのだ。
でも時々思う。
かわいそうな子
私を愛してくれたらこんなことには
ならなかったのに。
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別れ際に
「緑の瞳」
僕の彼女は雨が降るといなくなる。
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彼女との帰り道、通り雨が降ってきた。
僕は折りたたみ傘を取り出してワンプッシュで
開いた。彼女のグレーの傘は骨を一本づつ伸ばす
タイプのようで、少し手間取っている。
彼女の髪や肩を雨が濡らす。
夏のセーラー服が素肌に張り付いて
彼女の存在を浮き出す。僕は濡れる彼女に傘を
差し出すけれど、彼女は断った。
彼女は付き合った頃から、僕を近寄らせない。
彼女が傘を開き終わって、僕は前を向いた。
会話は無く、僕たちは慣れた道を黙って歩く。
ふと靴の音が
一つになった。
傘に落ちた雨粒の音も
半分になった。
隣に弾む傘が
見えなくなった。
彼女が消えた。
僕はどうしたことかと思って横を向くと、
薄い雨の膜からぼんやりと彼女の輪郭が現れた。
彼女は居た。消えたというのは僕の勘違いだった。
でも視線を外すと
雨音にかき消され
隣の存在は消える。
彼女は雨に溶けて
なくなるみたいだ。
僕は不安になって
何度も彼女を見てしまう。
足元に水溜まりがあることに気づき、そしてその
水面にもう波紋が生まれないことに気付いた。
雨は止んだ。彼女はそれに気づいていて傘の骨を
折り始める。一本一本雨の余韻を折るたびに、
彼女はこの世界に滲み出てくる。僕は自分の傘も
差したままで世界に現れた蝶を見ていた。
やがて蝶はすべての骨を折って完全に存在を
取り戻した。彼女は笑いながら
「さっきからこっち見てない?もしかして今日の
私美しすぎる?」
と冗談めかして言った。
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通り雨
「雨が降ると消える彼女」
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雨が降ってきた。最悪だ。小さい頃から変えていない
折りたたみ傘を取り出す。灰色の傘は、まるで今の
心模様のよう。
彼の傘はボタンを押すと、一気に開く仕組みで
楽そう。少し羨ましい。私の傘はきっと、高校を
卒業するまではこのままだから。
彼が私に傘を差しかけてくれようとする。
私は断る。
私は、人ひとり分以内に近寄られるのが
気持ち悪いと感じるし、喋るのも好きじゃない。
その理由は、中学生のときの、世界からずれたような
感覚に帰結する。普通からはみ出してしまったと感じ、
まともに喋ることもできなかった時期。
高校に入ってからは、思春期も穏やかになり、他人と
話すことにそこまで抵抗を感じなくなった。
だけど、今でも人は少し苦手だ。
そんな私に、彼は好きだと言ってくれた。
特に下心もなさそうな、クラスでも優しいと評判の
男の子。なぜ私なのか、疑問は尽きなかったけど
こんな私を好きでいてくれる、彼の心を傷付けたくなく
ていい返事をした。私を肯定する彼を思って、
できるだけ良い彼女であろうと思うけど。
雨の日は、重たい雲や冷たい雨に、本当の私が
引きずり出される。自分がこの世で一番嫌いで、
消えたいと思う私。彼に1ミリの愛も返せない、
無様な私。雨音に紛れ湿気の中で蒸発してしまいたい
と思っている。
そういえば高校でできた友達と帰っているとき、
「今居る?」
と聞かれたことがあった。彼女は私がいなくなったと
思ったみたいだった。雨の日、私は消えたいと
思っていて、実際に消えたのかもしれない。
多分、いつもみんなが見ている私は消えて、
空っぽの本当の私が出てきたんだろう。彼女は本当の
私は見えなくて、消えたと思ったんだろう。
彼も今は雨の向こうに私を見つけることはできないだろ
う。でもいつか、この優しい人が私を見つけることが
できるように。
晴れたみたい。
傘をしまって。
まずは話すことから、始めてみよう。
「さっきからこっち見てない?もしかして今日の
私美しすぎる?」
笑って言った。
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「雨が降ると消えたい私」