汀月透子

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1/12/2026, 2:31:25 AM

〈寒さが身に染みて〉

 自動ドアが開くたび、冷たい風が吹き込んでくる。
 思わず身をすくめる。ふた月ぶりの外の空気は、思っていたよりずっと冷たい。

「外は寒いですよ」

 嫁の佐和子さんが、手にしていたダウンコートを私の肩に掛けてくれた。家から持ってきてくれたのだ。
 骨折してこの病院に入院するときには、まだ秋の終わりだった。退院する今は、もう冬本番だ。

「ありがとう」

 袖に腕を通す。ふわりと包み込まれる感触が、どこかほっとさせる。

「ふた月ずっと部屋の中だったから、一層寒いでしょうね」

 佐和子さんの言葉に、私は頷いた。

 息子の一雄は車を取りに駐車場へ行った。
 病院のロビーで待つ間、ガラス越しに外を眺める。木枯らしが吹き、枯れ葉がくるくると舞っている。そのうち風に乗って、どこか遠くへ飛んでいく。

「病院の中は暖かいんだけどね」

 ふと、口をついて出た。

「夜は寒さが身に染みるのよ」

 佐和子さんが、少し驚いたような顔でこちらを見た。

──

 夜の病室は、昼間とは違った。

 消灯時間が過ぎると、廊下の明かりだけが頼りになる。薄暗い部屋の中で、天井を見つめる。
 空調は効いているから、温度は十分なはずなのに、どうしてだろう。身体の芯から冷えてくるような気がした。

 日中は看護師さんが声をかけてくれる。隣のベッドの患者さんと、たわいもない話をして笑い合う。リハビリの先生と一緒に廊下を歩く。忙しくしていれば、気は紛れた。

 でも夜は、そうもいかない。

 夫が亡くなってから、もう五年になる。一人には慣れたつもりだった。けれど、病院という見知らぬ場所で、見知らぬベッドで、ひとり目を覚ますと──

 ああ、私は本当にひとりなんだと、あらためて思い知らされた。

 寂しいから、余計寒さが身に染みる。

 そう気づいたとき、ひとすじの涙が頬を伝った。誰にも見られていない暗闇で、私は静かに泣いた。

──

「ふみさん」

 佐和子さんの声で、我に返った。

「コーヒーでも買ってきましょうか?」

 心配そうに、私の顔を覗き込んでいる。

「大丈夫よ」

 私は笑顔を作った。

「家に帰ってお茶飲むのが楽しみなの」
「そう言うと思って」

 佐和子さんが、嬉しそうに笑った。

「ここの横のカフェで焼き菓子買ったんですよ。
 帰ったら紅茶淹れましょうね」
「まあ、ありがとう」

 この人は、いつもそうだ。さりげなく、私が嬉しくなることをしてくれる。

 ロータリーに、見慣れたフォルムの車が現れた。一雄が車を降りる。

「さあ、行きましょう」

 佐和子さんが、私の腕をそっと支えてくれた。

 自動ドアをくぐる。風が、ざあっと吹きつけてきた。
 その冷たさに、思わず身震いする。枯れ葉が足元をかすめて、遠くへ飛んでいく。
 でも、もう寒くはない。

 佐和子さんの温かい手が、私の腕を支えている。一雄が車から降りて、こちらへ駆けてくる。

──ああ、私はひとりじゃない。

 そう思ったら、胸の奥から、じんわりと温かいものが広がってきた。

 冬の風は、確かに冷たい。でも、帰る家がある。待っていてくれる人がいる。一緒にお茶を飲んで、焼き菓子を食べて、他愛もない話をする。

 そんな当たり前の幸せが、私を待っている。

 寒さが身に染みる季節だからこそ、温もりの尊さが心にしみるのかもしれない。

──────

嫁姑漫才()ふみさん佐和子さんシリーズです。
コーヒーより紅茶の方が温まるような気がするのは、気のせいですかね?

1/11/2026, 7:09:20 AM

やあ(´・ω・`)

「20歳」ってお題でまとめてたけど(´・ω・`)

昔のアレな記憶が蘇ったから書き直すよ(´・ω・`)

さっさと切り替えればちいのにね、やーね(´・ω・`)

じゃ(´・ω・`)

(´・ω:;.:...

1/10/2026, 4:14:04 AM

〈三日月〉

 定時のチャイムが鳴り、パソコンを閉じた。窓の外はもう薄暗く、街灯が一つずつ灯り始めている。
 退職してから三年半。母は通院と多少の介護が必要だけれど、日常生活は送れるまでになった。
 私は地元の小さな会社で週五日、事務のパート勤務をしている。

 この会社は定時で帰れるし、休みも取りやすい。その点では前の職場よりずっと働きやすい。
 けれど、昔ながらの体質が残っていて、細やかな改善を提案しても「今ので十分」と流されることが多い。書類の整理方法も、来客対応も、もう少し工夫すれば効率的になるのに、と思うことはある。
 でも、それでいいのかもしれない。ここでは私が全力で走る必要はなく、穏やかに歩く場所なのだから。

 会社を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
 ふと空を見上げると、西の空に細い三日月が浮かんでいる。
 猫の目のように細く欠けた月。けれど、よく見ると暗い部分もうっすらと光っている。
 地球照──地球を照らす太陽の反射光が月を照らす現象だと、昔どこかで読んだ。

 駅へ向かう道を歩きながら、昨夜読んだメールのことを思い出す。
 宇佐見さん──私が退職する少し前に入社した、後輩からの便りだった。

『岡部さん、お久しぶりです。お元気ですか?
 この春の人事で、瀬尾さんが課長になりました。
 相変わらず気遣いの人です。私が体調を崩して休んだ時も、『無理しないで』ってメールをくれて、翌日には業務の振り分けまで済ませてくれていました』

 ああ、あの瀬尾さんなら。
 異動してきたばかりの頃、不安そうに資料を確認していた姿が浮かぶ。その瀬尾さんが、今は誰かを気遣う立場になっている。

『岡部さんのお茶淹れマニュアル、今も使われているんですよ。
 私も新人の頃に岡部さんに教わって、今は後輩に教える立場になりました。他のフロアにも広がっていて、岡部さんの名前を知らない新入社員も活用してます』

 壁に貼られた、マニュアルの写真。
 私が書いたメモを誰かが清書して、パウチまでされているのを見ると、少し不思議な気持ちになった。
 あれは業績にも評価にも残らなかったけれど、若い人たちの間で静かに受け継がれている。私の名前が忘れられても、誰かの役に立ち、それがまた誰かを照らしている。

 信号待ちで足を止め、もう一度空を見上げた。
 すっかり暮れた空で、三日月はさっきより光を増している。

 自分が前の会社で残したものは、もう私の手を離れて、若い人たちの中で静かに息づいている。それが巡り巡って、また誰かを照らしているのかもしれない。

 今の私も、小さな職場で細々とした光を放っている。
 評価されることもなく、大きく満ちることもないけれど、三日月のように欠けていても、見えないところで光は巡っている。

 いつか、この小さな光も誰かを照らし返すかもしれない。
 そう思いながら、青に変わった信号を渡った。

──────

「moonlight」「君を照らす月」「心の片隅で」の続編?です。
ベタベタな話は苦手なので、ほんのり匂わせつつ(笑)こんな形で話を続けるのは少し楽しいですね。

1/9/2026, 9:22:42 AM

〈色とりどり〉

 年始の街は、いつもより浮かれている気がする。
 初売りに家族で出かけるのは、いつ以来だろう。正直、家で寝ていたかった気持ちもある。でも来てみると、思っていたより悪くない。

 百貨店のドアをくぐった瞬間、空気が変わる。外の寒さや人混みから切り離されて、明るさと音楽と人の声が一斉に流れ込んでくる。

「やっぱり混んでるわねえ」

 母はそう言いながらも、どこか楽しそうだ。
 父は入口で一度立ち止まり、フロア案内を見上げてから言った。

「俺、上の書店に行ってくるよ。時間になったらいつもの喫茶店で」

 それぞれの目的に分かれるのは、いつものことだった。私は母のあとについて、婦人服売り場へ向かう。

 店内には、色があふれていた。
 赤いセールの文字、金色の飾り、マネキンが着せられた淡い色のコート。コスメ売り場からは、花の名前がついた香りが漂ってくる。
 普段からこんなに色があっただろうか、と不意に思う。

 「ねえ、これどう思う?」

 母に声をかけられ、マフラーを手に取る。深い緑色で、端に小さな刺繍がある。

 「いいんじゃない。似合いそう」

 そう答えながら、指先で布の感触を確かめる。柔らかくて、少しだけ温かい。

 母は笑って、マフラーを元に戻したあと、何気ない調子で言った。
「何か上の空ね?」
「久しぶりにこういうところに来たから、色々目に入って。
 ぼーっとしちゃった」
「あんた、毎日忙しいもんね。
 朝早くに出て、夜遅くに帰ってくるから」

 責めるでも、同情するでもない声だった。
 ただ事実を言っただけの、静かな口調。
 私は「そうだね」と返しながら、胸の中では自分の在り方に戸惑っていた。

 仕事のある日は、決まった道しか通らない。まだ暗いうちに家を出て、夜になって帰る。見る景色は、グレーのビルと、白い灯と、スマートフォンの画面くらいだ。季節の色が変わっていくことに、気づく余裕もなかった。
 忙しいのは嫌いじゃない。仕事をしている自分は、ちゃんと立っている感じがする。でも、その代わりに、何かを見落としていたのかもしれない。

 エスカレーターで上の階に上がる。
 見下ろすと、フロア全体がひとつの模様みたいに広がっている。人の服の色、紙袋のロゴ、照明の光。それぞれが違うのに、うるさくはない。

 こんなに色とりどりだったっけ。
 街も、世界も。

 単一の景色しか見えていなかったのは、世界が狭かったからじゃない。自分が、そこしか見ていなかっただけだ。そう思うと、少しだけ可笑しくなる。

 時間を見て、母と喫茶店へ向かう。
 奥の席に、父が先に座っていた。紙袋から、分厚い本の背表紙がのぞいている。

 「やっぱり混んでた?」

 父はそう言って笑い、コーヒーを一口飲む。
 テーブルの上には、運ばれてきた紅茶の琥珀色、ショートケーキのイチゴの赤とクリームの白、窓から差し込む冬の光。

 カップを持つと、湯気が立ちのぼる。
 きれいだ、と思う。

 忙しい日々もきっと続くけど、無理に何かを変えなくてもいい。
 顔を上げれば、世界はこんなふうに、ちゃんと色づいている。
 それをきれいだ、と感じる。それだけで十分な気がした。

 そう気づけただけで、有意義な一日だった。

──────

都会のお店って、何であんなに鮮やかなんでしょうね……デパ地下とかキラキラしすぎて、めまいがします……

1/8/2026, 9:09:20 AM

〈煤雪、根雪〉

 朝の通勤路、数日前に降った雪が、歩道の隅で薄汚れた塊のまま残っていた。踏み固められた雪はゆっくりと水に変わり、側溝へ細い流れを作っている。
 その様子を見ながら、私は自分の居場所を重ねていた。

 去年の今頃のこと。
 休憩が終わり、マグカップを洗いに行こうとしたら、給湯室の扉の隙間から上司の本郷さんの声が聞こえてきた。

「今泉さんさ、歩道の隅で何日も溶け残ったような雪みたいだよな」
「ああ、わかります。いつまでも日陰に残って、埃かぶったような」

 若手の営業、望月くんの声だ。二人の笑い声が続く。
 私はコーヒーカップを手に、そのまま立ち尽くした。中に入ることも、離れることもできずに。

 三十八歳、独身。この会社に十五年いる。
 入社したての頃は「今泉さん、可愛いね」と言われた。取引先への同行を頼まれ、飲み会では隣に座らされた。
 でも三十を過ぎた頃から、私の存在は透明になっていった。

 この会社は男社会だ。女性は若いうちだけチヤホヤされ、年を取れば価値がないように扱われる。
 他部署に残っている五十代の女性社員、柏谷さんは違う。彼女は上司のパワハラ気質に巧みに乗っかり、後輩を叱責する側に回ることで生き残った。
「女のくせに使えない」と平気で言う。
 私は、とてもそんな風にはなれなかった。

 地味に、黙々と仕事をした。マニュアルを作り、業務フローを整備し、私がいなくても回るように準備した。
 でも結局、些細なことで皆聞いてくる。マニュアルに書いてあることでも、「今泉さんに聞いた方が早いから」と。
 私が三か月かけて作った提案書は、望月くんの雑談力で取った契約の前では、誰も評価しない。

 それでもよかった。この会社で消耗するつもりはなかったからだ。

 考え方を変えたのは、八年前のことだ。
 婚約していた恋人が浮気をした。相手は大学の後輩だった。
 「ごめん、でも彼女の方が一緒にいて楽しいんだ」という彼の言葉に、何も言うことはできなかった。
 婚約破棄以降、結婚という制度に意味を見いだせなくなった。誰かに選ばれなくても、きっと私には私の価値がある。そう信じて、勉強を始めた。

 最初はITパスポートやMOSを取った。業務に活かせると思って報告したら、本郷さんに鼻で笑われた。「そんなの誰でも取れるでしょ」。
 次にFP2級、簿記2級を取得した。でも評価は変わらなかった。
 実績よりもコミュニケーションが評価される会社だ。人当たりが良く、飲み会で上司を盛り上げる望月くんは、成果が出なくても可愛がられる。

 だったら、どうせなら。
 そう思って、公認会計士を目指す。合格まで五年かかった。
 残業のない日は図書館へ通い、週末はカフェで参考書を開いた。誰にも言わず、黙々と。

 休憩室の一件以降、本格的に転職を考える。
 転職エージェントの山本さんに初めて会ったとき、驚かれた。

「何故これだけ資格があったのに、今まで転職しなかったんですか」

 私は答えた。
「勉強するためです」

 山本さんは首を傾げたが、私にとってはそれが答えだった。
 この会社にいれば、感情を使わなくていい。期待されていないから、失望されることもない。毎日感情を押し殺し、割り切って業務をこなす。
 その分のエネルギーを、全て勉強に注ぐことができた。

 スマホに通知が来る。山本さんからだ。

「面接の日程が決まりました。先方も実績と資格を高く評価されています。
 今お勤めのところよりかなり条件も良くなりますよ」

 画面越しの文字を、何度も読み返す。実績を、資格を、評価してくれる場所がある。

 窓の外を見ると、冬にしてはかなり暖かい日差しが差し込んでいた。十二月だというのに、気温は十五度を超えている。
 オフィスの外、ビルの谷間の植え込みには、先週降った雪がまだ残っていた。日陰の、灰色に煤けた雪の塊。

 今日は、その雪が溶け始めている。陽の光を受けて、少しずつ、確実に、水になって流れていく。

「すっきりさせないとね」

 私は小さく呟いた。

 面接の結果がどうであれ、退職願を書こう。引き継ぎのスケジュールを組もう。丁寧に、完璧に。私がいなくても困らないように。
 長年続けてきた、根雪のように私の中で確立されたやり方だ。

 確かに私は溶け残った雪だったのかもしれない。この会社の隅で、誰にも気づかれない存在だった。
 でも今、私は動き出そうとしている。新しい場所へ向かって。
 誰かに選ばれるためじゃなく、私が私を選んだ場所へ。

 私の人生が、ようやく動き出す。

 今日も給湯室から笑い声が聞こえる。もう、気にならなかった。


──────

登場人物の名前、考えるのがしんどくてですね。
今回は地名を使っています。
あらあらここなのね、とおわかりになられたら笑ってください……

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