汀月透子

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〈煤雪、根雪〉

 朝の通勤路、数日前に降った雪が、歩道の隅で薄汚れた塊のまま残っていた。踏み固められた雪はゆっくりと水に変わり、側溝へ細い流れを作っている。
 その様子を見ながら、私は自分の居場所を重ねていた。

 去年の今頃のこと。
 休憩が終わり、マグカップを洗いに行こうとしたら、給湯室の扉の隙間から上司の本郷さんの声が聞こえてきた。

「今泉さんさ、歩道の隅で何日も溶け残ったような雪みたいだよな」
「ああ、わかります。いつまでも日陰に残って、埃かぶったような」

 若手の営業、望月くんの声だ。二人の笑い声が続く。
 私はコーヒーカップを手に、そのまま立ち尽くした。中に入ることも、離れることもできずに。

 三十八歳、独身。この会社に十五年いる。
 入社したての頃は「今泉さん、可愛いね」と言われた。取引先への同行を頼まれ、飲み会では隣に座らされた。
 でも三十を過ぎた頃から、私の存在は透明になっていった。

 この会社は男社会だ。女性は若いうちだけチヤホヤされ、年を取れば価値がないように扱われる。
 他部署に残っている五十代の女性社員、柏谷さんは違う。彼女は上司のパワハラ気質に巧みに乗っかり、後輩を叱責する側に回ることで生き残った。
「女のくせに使えない」と平気で言う。
 私は、とてもそんな風にはなれなかった。

 地味に、黙々と仕事をした。マニュアルを作り、業務フローを整備し、私がいなくても回るように準備した。
 でも結局、些細なことで皆聞いてくる。マニュアルに書いてあることでも、「今泉さんに聞いた方が早いから」と。
 私が三か月かけて作った提案書は、望月くんの雑談力で取った契約の前では、誰も評価しない。

 それでもよかった。この会社で消耗するつもりはなかったからだ。

 考え方を変えたのは、八年前のことだ。
 婚約していた恋人が浮気をした。相手は大学の後輩だった。
 「ごめん、でも彼女の方が一緒にいて楽しいんだ」という彼の言葉に、何も言うことはできなかった。
 婚約破棄以降、結婚という制度に意味を見いだせなくなった。誰かに選ばれなくても、きっと私には私の価値がある。そう信じて、勉強を始めた。

 最初はITパスポートやMOSを取った。業務に活かせると思って報告したら、本郷さんに鼻で笑われた。「そんなの誰でも取れるでしょ」。
 次にFP2級、簿記2級を取得した。でも評価は変わらなかった。
 実績よりもコミュニケーションが評価される会社だ。人当たりが良く、飲み会で上司を盛り上げる望月くんは、成果が出なくても可愛がられる。

 だったら、どうせなら。
 そう思って、公認会計士を目指す。合格まで五年かかった。
 残業のない日は図書館へ通い、週末はカフェで参考書を開いた。誰にも言わず、黙々と。

 休憩室の一件以降、本格的に転職を考える。
 転職エージェントの山本さんに初めて会ったとき、驚かれた。

「何故これだけ資格があったのに、今まで転職しなかったんですか」

 私は答えた。
「勉強するためです」

 山本さんは首を傾げたが、私にとってはそれが答えだった。
 この会社にいれば、感情を使わなくていい。期待されていないから、失望されることもない。毎日感情を押し殺し、割り切って業務をこなす。
 その分のエネルギーを、全て勉強に注ぐことができた。

 スマホに通知が来る。山本さんからだ。

「面接の日程が決まりました。先方も実績と資格を高く評価されています。
 今お勤めのところよりかなり条件も良くなりますよ」

 画面越しの文字を、何度も読み返す。実績を、資格を、評価してくれる場所がある。

 窓の外を見ると、冬にしてはかなり暖かい日差しが差し込んでいた。十二月だというのに、気温は十五度を超えている。
 オフィスの外、ビルの谷間の植え込みには、先週降った雪がまだ残っていた。日陰の、灰色に煤けた雪の塊。

 今日は、その雪が溶け始めている。陽の光を受けて、少しずつ、確実に、水になって流れていく。

「すっきりさせないとね」

 私は小さく呟いた。

 面接の結果がどうであれ、退職願を書こう。引き継ぎのスケジュールを組もう。丁寧に、完璧に。私がいなくても困らないように。
 長年続けてきた、根雪のように私の中で確立されたやり方だ。

 確かに私は溶け残った雪だったのかもしれない。この会社の隅で、誰にも気づかれない存在だった。
 でも今、私は動き出そうとしている。新しい場所へ向かって。
 誰かに選ばれるためじゃなく、私が私を選んだ場所へ。

 私の人生が、ようやく動き出す。

 今日も給湯室から笑い声が聞こえる。もう、気にならなかった。


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登場人物の名前、考えるのがしんどくてですね。
今回は地名を使っています。
あらあらここなのね、とおわかりになられたら笑ってください……

1/8/2026, 9:09:20 AM