「勘違いされることはあるが、邪眼というのは目が合わなければよいというものではないんだ。
メドゥーサなんかと混同されているんだろうけど、邪眼は邪眼の持ち主がじっと見つめるだけでいい。視線には力が宿っていて、見るだけで呪う。
魔女狩りの時は、この邪眼というのがけっこう曲者だった。
共同体の鼻つまみ者である子供のいない寡婦なんかが、ご近所付き合いに失敗してかっとなり、思わず罵るとするだろう。お前の家が呪われればいい、とかって。
すると、不幸が起こった時に、その女が呪ったからだということになる。
ただまあ……凝視されると、むずむずして嫌な気分になったりするだろう。目が合ったあとすぐに逸らしても、気のせいでもなぜかずっとその視線を感じている……」
先輩は言いながらコーヒーを飲み、こちらをじっと見つめる。
俺はその目を見返した。先輩は顔に対して少し目が大きくて、その一方で黒目は小さく、なんというか目力がすごい。
「だから、その視線に悪い力が込められていると考えるのは自然なことだったのかもしれない。
差別と排除の始まりは、自然で素朴な嫌悪感、それから無知だ」
こういう話をする時の先輩は、実に楽しそうに笑うけれど、実際は遠い昔に遡及してまで、ふつふつと怒りに燃えていることを俺は知っている。
視線には力がこもり、俺は居心地が悪くなる。自分が責められているような気がするのだ。その正しさに。
もしかしたら俺は、先輩に火をかけていたかもしれない。そんなふうにさえ思う。
だから俺は言う。
「現代に生まれてよかったです」
「仮にも歴史を学ぶものが、そんな単純な言葉を吐くなよ」
先輩はそう言って、呆れたように視線を緩める。
俺はいささかほっとして笑った。
#君の目を見つめると
なにもかもだめで失敗ばかりで
自分をどうにかしたくて飛び込んだ最後の賭けすら
他人を巻き込んでどうしようもない終わりへと向かっている
命を尽くしても、人生をなげうってさえ、
なにも成すことはできなくて
ダメであることは変えられない
でも、それでもひとつだけ
さいごにひとつだけ
でもきっと、あなたは怒るんだろうなあ
#1つだけ
嘘。嘘。嘘。
この日は、世界が嘘に溢れている。
嘘をついても良い、いたずらめいた日であったはずのエイプリルフールは、インターネットの隆盛の歴史とともにその様相を変えて、いつのまにか企業や個人が予算をかけて偽の企画を発表したり、嘘のような本当のプロダクトを作る日になっていた。
恋人たちが愛を確かめ合う日であったはずのバレンタインデーが、職場で義務的にチョコレートを配る日になったのと似たようなものだ。
ほかの国のことは知らないけれど、日本というのはそうして遊びに本気になっている人々に前ならえして、いつの間にか楽しくない仕事にしてしまうのが得意なのだろう。
「主語巨大罪。居住国憂慮罪」
「うわっ、何だよ。横から見るなよ」
スマートフォンを同居人から隠して身をくねらせる。
片手に野菜ジュースのパックを持った同居人は、肩を揺すって笑った。不正アクセス禁止法だ、なんて言って。……それはほんとにある罪だ。
「エイプリルプールで許されるのは、嘘をつくことだけだったな」
「まさか、楽しんだもん勝ちなんだから寒いこと言うな、なんて常套句言わないよな」
「それは真実の一端ではある。だが、俺ならもっと賢く歴史から言葉を引ける」
同居人は胸を張り、芝居がかって腕を広げた。
「つまり──『書を捨てよ、街へ出よう』だ」
「『顔真っ赤にしてないで、回線切ってクソして寝ろ』だろ」
言い返し、けれど同居人の言うことは至極もっともである気がしたので、俺は書きかけだった記事を破棄すると、かれと一緒に散歩にでも出かけることにした。真の要求はそれだからだ。
嘘つきよりももっと回りくどく、本音を伏せて俺を誘う同居人のことを、俺は今日の日よりもずっと気に入っている。
#エイプリルフール
「どうして? なぜ?」
問いかける表情は、もはや怯えるようだった。
信じられないというように、青醒めて、震えて、後退りをして、拳を握りしめていた。
「いまお前は、何をしたのか分かっているのか。
最大で唯一の機会をふいにしたんだぞ、幸福になる機会を!」
そうかもしれなかった。
たぶん幻ではなかった。
失ったものがそこにあって、愛していたものたちが笑っていて、豊かで苦しみはなく、なにひとつ欠けているものはなく、希求していたもの全てがそこにあった。
きっとそのまま死んでいれば、おれは誰よりもしあわせな男であったに違いない。
壊れてゆく、毀れてゆく。
失われてゆく、還ってこない。
けれど、それでよかった。
何度でも、きっとこの決断をする。
幸せに背を向けて、おれは一歩足を踏み出した。
#幸せに
「もしかして、帰りたい?」
気の進まない飲み会でそう声をかけられた時、咄嗟に首を横に振ったけれど、具合が悪そうだからなんて言って先に帰してくれた。それが最初だった。
あなたはよくよく気のつく人だった。
疲れていたり、怒っていたり、我慢していたり、隠そうとしても気遣ってくれる。
言いたいことがあるのを黙っていると、さりげなく促してくれる。
夕食のあとにデカフェのコーヒーを一杯飲むのが、このところのあなたの習慣だった。
私が持ってきたコーヒーカップを、タブレットに視線を向けたままあなたは飲んだ。
私は、いつも通りできていたろうか?
それとも、青褪めて、手は震えていたろうか?
あなたが私のことを見なくなって、何も気がつかなくなったから、自分では分からない。
喉元を押さえ、苦しげにして、驚いた顔であなたは私の方を見た。
見開かれた目に、ずいぶん久しぶりに私の顔が鮮明に映し出されている気がした。
その顔は、
#何気ないふり