「雪」
新しく異動してきた上司は瀬戸内で生まれ東京で育ち九州支社で鍛えられたらしい。
「すごいっすね。じゃあこの東北支社で日本制覇ですか」
僕は特大の唐揚げに潤わされた唇を拭いて言った。
4月から始まったプロジェクトの1ターム目が終わったのでその祝賀会と少し早めの忘年会である。
いつもなら飲み会なんて参加せずに帰るのだが、2タイトルが掲げられている飲み会は断りにくいし、何より4月から異動してきた上司が初めて参加する飲み会なので来てしまった。
いつも無口で無愛想。仕事はできるが主役である歓迎会すらも断った男だ。プライベートを覗き見たい気持ちが勝った。
「北海道を除けばそうだね」
無口な上司は酒が入ってもにこりともしない。
「いいなー、俺なんて東北から出たことないっすよ」
同僚や先輩たちがそうだそうだ、いや俺は東京の大学で、と騒ぎ出す。
会がお開きになり、店の外に出ると雨が降りそうなしっとりとした空気と冷たい風が吹いてきた。
「今夜雪になりそうっすね」
上司はメガネをくいっと上げてこちらを見た。
「…積もるかね」
「まあいつも積もりますね。明日運転気をつけたほうがいいっすよ」
「そうか、ありがとう」
そう言って上司は一人駅の方への消えていった。
翌朝、出勤すると上司はまだ来ていなかった。
二日酔いか?いつもなら始業時間の1時間前に来ているのに。もしかして事故ったか?
予想通り起きると一面銀世界ですでに膝の高さまで積もっていた。
慎重に走る車が多く、自身も渋滞に巻き込まれた。
「すまん。遅くなった」
オフィスのドアが開いて上司が姿を現した。
「おはようございます。渋滞ヤバかったですよね」
「…ああ」
やはり無愛想に返す上司。しかし俺は見逃さなかった。
びしょびしょのコート、手袋をしていたのに真っ赤な手。雪遊びをした証拠だ。
「雪…初めてっすか?」
上司は少し顔を赤らめて頷いた。
「殺意」
穏やかな春の月曜日。
柔らかい朝の日差しが大きな窓いっぱいに刺しこみ、オフィスを明るく照らしている。いい天気だ。
仕事は辛い。こんな素晴らしい天気の日は公園でピクニックでもしてゆっくり過ごすべきだ。
まあそれでも社会人というもの、労働の責務は果たさないといけない。
私はゆっくりコーヒーを飲みながらパソコンを開いた。メールに30通。うんざりする量だ。
昔も今も春の陽射しが素晴らしいのと同じで、日本人は昔から働いて働いて働く生き物なのだ。
それを示すように「死ぬ気で頑張る」という言葉がある。仕事に限らず勉強とか険しい芸事の道などでもよく聞かれる言葉だ。
頑張ることに価値があり、その努力によって結果は必ず変えられるという信念を表しているのかもしれない。
しかし現実は考えているよりも非情なものだ。置かれている環境や自身が生まれつき持っている特性、その他諸々の要因が努力を上回ることがある。
自分ではコントロールできない周囲の人間が道を遮ったり尊厳を踏み躙ってくるときがある。
「パーン!」
オフィスに響き渡る銃声。皆が一斉に振り返った。一瞬空気が止まりまたすぐに動き出す。
「誰?」
「あー営業部の部長ね」
「そういえばパワハラの噂があったね」
「昔はセクハラもしてたって噂よ」
「まあいずれこうなると思ってたよ」
誰かが通報したのかすぐに救急隊員が来て冷静に処置を始める。
オフィスは少しざわめきつつもいつも通りの日常に戻った。撃たれた営業部長を除いて。
発砲した社員も何もなかったかのような顔でパソコンを叩いている。
私はグッとコーヒーを飲み干した。砂糖が溜まっていたのかどろりとしたものが喉を通っていく。
メール1通1通目を通して丁寧に返信していく。
ここは「死ぬ気で頑張る」日本。「努力の価値が高い」日本。極限の死ぬ気は殺意に転じることだってあるだろう。
穏やかな春の陽射しが殺伐としたオフィスに降り注いでいた。
「幸せとは」
「幸せは怖いものだ」
しかめ面をして彼が言った。また始まったか。
私は新聞を読みながら「そう」と適当に返事をした。
「俺は幸せなんぞ知らずに生きてきた。それでも特に不満はなかったし、今更後悔することもない」
「そう」
今度は英語のso sweetのsoのつもりで言ってみた。
あいにく気づかれなかったらしい。
「幸せになったやつを見てみろ。進歩や成長への野心を忘れて脳みそが固まってしまっている」
「そう?」
少しだけ語尾を上げて疑問形にしたけれど彼はお構いなしだ。
「だから俺は幸せにならなくていい」
そう言って彼はスプーンいっぱいにカレーを掬って口の中に入れた。しばらく目を閉じて味わった末に目をカッと開いて叫んだ。
「美味い!俺は今初めて幸せを知った!」
「そう」
今度は安堵と堪えきれなくなった笑いを含ませて。
大好物のカレーを食卓に出すたびに夫はこの茶番をするのだ。厳しい顔をしているのを自覚しているのか、自らそれをネタにして美味いと言うことを伝えてくる。
幸せそうで何よりだ。
「日の出」
あー、無理なんですけど。
カーテンの隙間から青白い光が漏れ出して見事にブルーな気持ちになった。
隣の部屋から妹の目覚まし時計の音が聞こえてすぐに止んだ。
パタパタとにわかに騒がしくなり空気が動き出すのをまるでアニメの世界のように感じながら、目を閉じた。
夜には訪れなかった心地よいまどろみがすぐに襲ってきてやっと俺は安心した。まだ眠れる。まだ大丈夫。
いつからか日が出ている時しか眠れなくなっていた。精神的な問題が原因なのかもしれない。だけどそんなことはどうでもよくて夜眠れないことに罪悪感を感じていた。人間じゃなくなっていくような気がして恐ろしい。
いつから太陽を見ていないのだろう。このままおじさんになってもこうやって生きていくのかな。
俺の人生で日の出を気持ちよく見られる日は来るのだろうか。
不安な気持ちをうとうととまどろみが押し流していった。
「手袋」
5本指をそれぞれの穴に入れてグッパッと動かした。
一回り手が大きく無骨になったような感じがして少し嫌だ。グッと握りしめるとコートのポッケに入れる。
「準備できたよ」
妻が頬を両手で挟みながら小走りで玄関までやってきた。指が分かれていない、まあるい手袋だ。
萌葱色の手袋は妻の明るい笑顔によく似合っているし、小動物のような手が何かのゆるいキャラクターのように見えて可愛らしかった。
でもそれを直接言うのもなんだか気恥ずかしくて僕は「行こうか」とだけ呟いてドアを開けた。
慌てて靴をつっかけて僕の腕に手を回す。
少女のような手が必死に僕の腕を掴んでいるのを見ると胸の奥がキュンとなった。だがそれを悟られないように僕はポケットの中でぎゅっと拳を握りしめた。
妻はおもむろに僕のポケットに手を突っ込んだ。僕の手を無理やり開かせてふと言った。
「あ、これじゃ手繋げないね」
そして何の躊躇もなく可愛い手袋を脱いだ。少しぽったりした妻の指が姿を現す。
そしてまたポケットに突っ込むと指を絡めた。
僕は少し冷めてしまった彼女の手をすべて包み込めるようにぎゅっと指を伸ばした。