「やさしさなんて」
近くの公園から猫の鳴き声がする。
気になって見てみるとベンチの下にダンボールが捨てられており、中に数匹の子猫が入っていた。
「拾ってください」ダンボールの外に張り紙がされていた。
ふと野良猫とヤンキーの理論を思い出した。
ヤンキーが野良猫を保護すれば、いつも優しい人が保護するよりも周囲からの評価が高いというものだ。
あの理論を見るたび理不尽を頭から浴びせられた気持ちになる。
俺はダンボールを無視して帰宅した。
やさしさなんて薄っぺらいものだ。
人に優しくしたからと言ってそれが返ってくるわけでもない。目に見えるポイント制ならともかく、誰が誰に対してどれほどの優しさを使ったかなんて分からない。
合理的じゃない。
素行が悪い奴が一回の優しさや善行でチャラになるというのも非理論的だ。
「やっぱり根はいい人なのね」なんて。
それ以上に迷惑をかけられた奴がいるのに。
もしかしたら気まぐれで猫を殺したり保護したりする奴だっているだろう。
たった一つの優しさだけを見てその人を分かった気でいるのはなんと傲慢で薄っぺらいことか。
優しさなんてなくてもいいのだ。
次の日あのベンチを覗いてみるとダンボールは空だった。
誰かが保護したのか、それともイタズラで殺されているかもしれないな。
「拾ってください」なんて、誰かの優しさをあてにして放置するのは馬鹿としか言いようがない。
そんな不明確なもの…どうして人は優しさを忘れられないのだろう。
俺は人に優しくされた経験がない。
親には怒鳴られたり殴られたりしていたし、学校ではいじめられていた。誰にも心を許さず淡々と生きてきたから今がある。
人が生きていくのに優しさなんて本当はいらないのだ。
俺はため息をついてベンチに座った。
朝露が残っていたのかスウェットを通してじんわりとパンツが湿っていく。
ふとニャーンと猫の鳴き声がした。
慌ててベンチの下を見るがやはりダンボールは空で猫の姿は見当たらない。
気のせいか、と前を見ると向こうから数匹の子猫がヨタヨタと走ってきた。
虫を咥えているやつもいる。
こいつら…。俺はフッと笑って猫たちを拾い上げた。
そうだよな。
人の優しさなんてなくたって生きていける。
食べ物と水と住むところさえあれば優しさなんてなくても生きていけるのだ。
それでも優しさを忘れられないのは生きているからだ。
守ってやりたい、理解してやりたい、何かしてあげたい。そんな感情が優しい行動に繋がるだけ。
「お前らうちに来るか?」
にゃーんと猫たちが鳴いた。
「風を感じて」
散々である。
ただでさえつまらない毎日がこれほどまでに散々であると死にたくなる。
まず起きると出勤時間を過ぎていた。寝坊。遅刻。最悪。
上司のネチネチ説教が脳内再生される。
慌てて家を出ようと支度しているとダンスの角に足の小指を思い切りぶつけた。痛い。クソが。
骨折したんじゃないのかというほど赤く腫れるなんなてこともなくただただ痛みと怒りをグッと堪えて、家を出た。
しかしバス停まで全力ダッシュしていると小学生ぶりに頭から転けた。歳か。悲しい。
幸い怪我はなかったが、バスは乗り損なった。はい遅刻確定。絶望。
もうここまで来たら開き直るのが一番いい。
毎日一生懸命働いているんだからたまの遅刻くらい許されるべきでしょ。
というかもう帰って仮病でも使おうかしら。実際不調だし。小指が。
ミンミンと蝉がうるさい。
目の前を小学生たちがお行儀よく列に並んで通り過ぎた。色とりどりのランドセルと向日葵のように黄色い帽子。鮮やかで若さが眩しい。
まだ夏休みではないのだろうか。
こんなに小さな子供たちが学校に行っているのに私がサボるわけにはいかん。
私は汗をふいて次のバスを待った。
会社では散々を超える散々だった。
ネチネチ上司にネチネチされたのは予想通りだけれど、後輩がトラブルを起こして教育担当として一緒に大目玉を喰らってしまった。くそう…。
あれほど気をつけろと言ったのに…。
というか教育係も元々嫌だと言っていたのに。
後輩は嫌いではないが、自分一人の仕事だけでなく後輩の仕事も私の責任になるのはやはり何度考えても解せない。
そしてその後輩のフォローもしなければならない。
私の仕事に何のメリットがあるのだ。
給料2倍にしてくれるなら納得するのに。
落ち込んだ後輩を励ますつもりで一緒にランチを食べに行くと、財布を忘れた。
先輩らしく奢る予定だったのに後輩に頭を下げることになってしまった。ダサい。
散々後輩をこき下ろしたけれど借りを作ってしまった。まあお互い様。持ちつ持たれつってことか。
しかしトラブルの影響は大きく深夜まで残業する羽目になってしまった。
22時以降は残業禁止という社内ルールがあるから強制的にシャットダウンされてしまったが、明日も残業決定だろう。つらい。明日は推しアイドルの配信があったのに。
会社を出ると涼しい風が吹いていた。
最近ずっと猛暑続きだったから薄い生地のノースリーブの服を着ている。寒い。
先ほどまでデスクで冷房に当たっていたから余計だ。
鳥肌が止まらない。
あったかいラーメンでも食べて帰ろうと思ったけれど、行きつけの店が臨時休業だった。
まったく散々だ。本当に散々だ。
明日も散々だ。きっと明後日も明々後日も。
それでも毎日を止めるわけにはいかない。
こんな小さな散々くらいで死んでいられない。
希望を持たずにはいられない。
明日は明日の風が吹く。
私はコンビニで買った熱燗を片手に、夜風を切って家路についた。
「夢じゃない」
あ、これは夢だなと気づく瞬間はたくさんある。
家の中にいたと思えば全く見知らぬ部屋に足を踏み入れていたり、ここにいるはずがない人と話していたり、現実的にありえないことがたくさん起こるとかね。
特に夏なんて暑いから眠りが浅くなるわけで夢を頻繁に見たりなんかする。
俺なんてここ数年夢なんて見ていなかったけれど、今夏は記録的猛暑だからか全然寝付けず夢を見てしまった。
もちろん、俺は夢だって最初から分かってたから何とも思わなかったけれど、友人に話すとその夢がえらく不思議なものみたいだったから話そうと思う。
俺は家の中にいた。
俺の家はかなり古いが立派な屋敷だ。俺の婆さんが若い頃建てたものだから明治後期のもの?古いことはよく分からない。
婆さんはその頃女性にしては珍しい医者だったけれど、そこに当時付き合っていた爺さんを住まわせて主夫をさせていたらしい。現代では珍しくもないけれど当時にしてみれば爺さんも婆さんも肩身が狭かったろうと思う。まあ豪快な母さんを見てれば婆さんも無敵で豪快な人だったんだろうと思う。
実際当時を知る近所の人は婆さんの豪快伝説をよく聞かせてくれる。
とにかく俺の家はかなり古いがしっかりしている。
部屋数はそこまで多くはない。
母さんの代で内装はかなり現代風に改築しているから、外側だけ遊園地とかにある古めの建物、中は普通みたいな感じだった。
俺は2階の角部屋を自室としていて部屋続きでドアがある。その先は魔界と呼ばれる物置だ。
呼び名の理由については今回説明を省くが、単純に幼い子供にとって薄暗く怪しい物置なんて魔界にしか見えない、そういう理由だ。
魔界には婆さんの遺品やら医者時代の古めかしい道具やらが残っていて滅多に入ることはない。
なのにその日俺は魔界にいた。
しかし子供の頃間違って迷い込んだ魔界はダンボールやら本やらが並んでいるだけだったのに、今回は手術室みたいだった。
手術用のベットが置かれていてあのクソ眩しい照明までバッチリ準備されていた。
この時点であ、これは夢だと気づいた。
この家で大きな手術用具なんて見たことないし、そんなものあったら俺がとっくに売っぱらってる。
もちろん誰もいないし、外からは俺がさっきまで見ていたテレビの音がする。
別に怖くない。だって夢だし。
だからパッと照明がついて手術用ベッドがゆっくりと背もたれを倒した時も全然怖くなかった。
どこからか婆さんの声がした。
ちなみに婆さんは俺が生まれる前に死んでいる。なんで婆さんか分かったかと言われると、勘だ。
あー帰ってきたのかな、なんて呑気に考えていたら「こいつは助けない」という婆さんの冷たい声がした。
いやもしかしたら少し若い感じがしたからそのせいかもしれない。
とにかく少しだけ背筋がゾッとするような声だった。
そこで目が覚めた。
テレビはいつのまにか消えていて魔界のドアが少しだけ開いてた。
まあ古い家だから建て付けが悪くてドアが勝手に開くこともないこともない。
俺は力いっぱいにドアを閉めて汗で濡れたTシャツを脱いだ。
婆さんの冷たい声が耳から離れない。
近所の人の話を聞く限りかなり豪快だったらしいけれど一つだけある噂があった。
婆さんは腕の立つ医者だったけれど私怨をかなり持ち込む人で、誰を助けるか助けないかを決めてまさに神のような人だったと。
狭い田舎だ。
婆さんを恨む人がそんな噂を流したのだろう。
でも不思議だ。その噂を聞いたのは俺が5歳くらいの頃だ。
今さらそんな夢を見るだろうか。
不思議な話だ。
「心の羅針盤」
海を見ると人間は人生を見つめ直すらしい。
どこまでも広大だからだろうか、さざなみの音がアルファ波を発生させるからだろうか、人間の営みとはかけ離れて太古から存在している様子がまるで母親のように感じられるからだろうか。
理由は分からないけれど、なぜか人は海を見てノスタルジーに耽ったり、青春を描こうとしたり、涙を流すらしい。
それだけではない。
海は人生そのものに喩えられたりする。
波が高く荒れているときはシケというが、まさに踏んだり蹴ったりの日やツイてない日はシケた日と呼ぶことがある。
逆に穏やかな海は凪というがそれもそのまま何も起こらない日を凪といったりすることもある。
そんなことを考えながら俺は海を見つめた。
哲学的なことをうらうらと考えたけれどおそらくみんな考えてることは同じだ。
こうやって海見ながらボーッとしてる人多いなあ。海見ながら人生語ったり本音を言うことが多いよなあ。
確かにシケとかナギとか言うもんなあ。人生って海みてえだなあ。
誰でも思いつくことをうだうだうだうだと頭の中でそれっぽく語り散らかして、自己陶酔する。
そして何も解決していないのになんかすっきりして帰ってしまうのだ。
それじゃつまらん。
どうせなら海に出ようじゃないか。
某少年漫画の主人公みたいに心の赴くままに旅をするならどうする?
でも浜辺に座って海を見つめてる時点で座礁してるようなもんだ。
俺はこのままでいいのか?どこに向かってるんだ?正解の道を辿っていけているのか。
分からないから海に来て現実逃避をしているのだ。
たまに人生は山登りに例えられることもある。
みんな頂上を目指してひたすら登り続ける。
しかしそこには道に迷うという概念はないし、みんな頂上を目指すべきという揺るがない前提がある。
じゃあ遭難した人は?頂上からの景色に興味がない人は?
山はそんな人たちを受け入れてくれるほど懐が広くない。
コンパスは頂上を目指すものでしかない。
それに比べると海のなんと懐の深いことか。
そうか、羅針盤。羅針盤もコンパスみたいなものだが、海には頂上のようなゴールはない。強いて言うなら島がゴールにあたるけれど人それぞれの島に辿り着ける。
羅針盤を無視して漂っても必ずどこかに辿り着く。
俺は何か答えを見つけた気がして立ち上がった。
くるくると回っていた羅針盤の針がまっすぐ前を向いた。
「泡になりたい」
タバコと酒が入り乱れる赤提灯の居酒屋にはまったく似つかわしくない輝きが彼の左手薬指に宿っている。
彼の頬が紅潮しているのはお酒の力だけではないだろう。
「それで?馴れ初めは?」
「そーだ!そーだ!早く聞かせろよ!」
うへへえ、と目尻を垂らして笑うばかりで本人は何も答えない。
痺れを切らした友人がこちらにターゲットを定めてきた。
「お前は知ってんじゃないの?幼馴染だろ?」
いつも通りクールに流そうとカシオレを一口飲む。
「知らないよ。なんも聞いてなかったし」
まじかよー!ガチじゃーん!
一段と盛り上がる回答をしてしまったようだ。
ガチってなんだよ。
幼馴染に言わないほどガチの恋愛だったって意味か?
それともぽっと出の女との関係がガチでこちらの幼馴染との関係はガチじゃなかったって暗に言いたいのか?
「で、式はいつなんだ?」
「俺らも呼んでくれるんだろうな?」
「それがさあ…」
彼は少し気まずそうに頭をかいた。
「彼女が身内で式を挙げたいらしくて、お前ら呼べなかったんだよ」
「おーい!!!」「まじかよ!」
「それでも友達かー!」
まあ珍しくもない。最近は結婚式と言っても昔のように派手にやる人は減ったと聞く。
節約にもなるし変な気遣いとかからも解放されるし賢明な判断だろう。
「ただ、どうしてもお前だけには来て欲しくて…」
彼の瞳がこちらをじっと見つめる。
「「えー!いいなー!」」
選ばれなかった友人が肩を組んでくる。
まじか…。
動揺が顔に出ないようクールにカシオレを飲み干す。
好きな人の結婚式に呼ばれる。
こんなにありがた迷惑なことはないだろう。
自覚したのは高校生の頃だったか。
急な腹痛で入院したとき毎日見舞いに来てくれたのが彼だけだった。
幼馴染だから、家が近いから、親とも仲がいいから。そんな理由だと分かっていたけれど、彼に惹かれるのは止められなかった。
もちろんそんなこと態度に出してしまえば、積み重ねてきた友情は壊れる。
気まずくなりたくなかったしどうせ実るはずもない想いだと知っていたから、ここまで隠し通してきた。
もちろん彼に、彼女ができた、別れたという情報が更新されていくたびに心の奥で感情が激しく揺れ動いたけれどどこかで、幼馴染なんだから友達なんだからずっと一緒だと思っていた。
でもちゃんと考えればそんなことはなくて。
彼がいつか結婚して家庭を持てば、そこにこちらの入り込む隙間がないのは当たり前のことで。
ただ現実から目を逸らしていただけだった。
赤い照明が彼の顔を照らす。
先ほどよりも赤く目尻が垂れている。
なんて幸せそうな顔をしているんだろう。
「すみませーん!注文いいすかー?えーとビール…あ、お前も頼めば?カシオレでいい?」
「いや、俺もビール」
「おお!とうとうカシオレ卒業か?ビールが飲める男になったか!」
「うるせえよ」
20歳になったばかりの頃、お前はカシオレってイメージだわ、なんてお前が意味の分からないことを言ったばかりにずっとカシオレを飲んでいるなんて忘れきってるんだろうな。
注文し終えた彼はもうほとんど泡が残っていないグラスを傾けた。
泡が消えて喉仏が滑らかに上下する。
恋が叶わなかった人魚姫は泡になったんだっけ?
じゃあ俺はビールの泡にでもなって彼の喉元を通り過ぎたい。