香草

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8/9/2025, 11:55:15 AM

「夢じゃない」

あ、これは夢だなと気づく瞬間はたくさんある。
家の中にいたと思えば全く見知らぬ部屋に足を踏み入れていたり、ここにいるはずがない人と話していたり、現実的にありえないことがたくさん起こるとかね。
特に夏なんて暑いから眠りが浅くなるわけで夢を頻繁に見たりなんかする。
俺なんてここ数年夢なんて見ていなかったけれど、今夏は記録的猛暑だからか全然寝付けず夢を見てしまった。
もちろん、俺は夢だって最初から分かってたから何とも思わなかったけれど、友人に話すとその夢がえらく不思議なものみたいだったから話そうと思う。

俺は家の中にいた。
俺の家はかなり古いが立派な屋敷だ。俺の婆さんが若い頃建てたものだから明治後期のもの?古いことはよく分からない。
婆さんはその頃女性にしては珍しい医者だったけれど、そこに当時付き合っていた爺さんを住まわせて主夫をさせていたらしい。現代では珍しくもないけれど当時にしてみれば爺さんも婆さんも肩身が狭かったろうと思う。まあ豪快な母さんを見てれば婆さんも無敵で豪快な人だったんだろうと思う。
実際当時を知る近所の人は婆さんの豪快伝説をよく聞かせてくれる。
とにかく俺の家はかなり古いがしっかりしている。
部屋数はそこまで多くはない。
母さんの代で内装はかなり現代風に改築しているから、外側だけ遊園地とかにある古めの建物、中は普通みたいな感じだった。
俺は2階の角部屋を自室としていて部屋続きでドアがある。その先は魔界と呼ばれる物置だ。
呼び名の理由については今回説明を省くが、単純に幼い子供にとって薄暗く怪しい物置なんて魔界にしか見えない、そういう理由だ。

魔界には婆さんの遺品やら医者時代の古めかしい道具やらが残っていて滅多に入ることはない。
なのにその日俺は魔界にいた。
しかし子供の頃間違って迷い込んだ魔界はダンボールやら本やらが並んでいるだけだったのに、今回は手術室みたいだった。
手術用のベットが置かれていてあのクソ眩しい照明までバッチリ準備されていた。
この時点であ、これは夢だと気づいた。
この家で大きな手術用具なんて見たことないし、そんなものあったら俺がとっくに売っぱらってる。
もちろん誰もいないし、外からは俺がさっきまで見ていたテレビの音がする。
別に怖くない。だって夢だし。
だからパッと照明がついて手術用ベッドがゆっくりと背もたれを倒した時も全然怖くなかった。
どこからか婆さんの声がした。
ちなみに婆さんは俺が生まれる前に死んでいる。なんで婆さんか分かったかと言われると、勘だ。
あー帰ってきたのかな、なんて呑気に考えていたら「こいつは助けない」という婆さんの冷たい声がした。
いやもしかしたら少し若い感じがしたからそのせいかもしれない。
とにかく少しだけ背筋がゾッとするような声だった。

そこで目が覚めた。
テレビはいつのまにか消えていて魔界のドアが少しだけ開いてた。
まあ古い家だから建て付けが悪くてドアが勝手に開くこともないこともない。
俺は力いっぱいにドアを閉めて汗で濡れたTシャツを脱いだ。
婆さんの冷たい声が耳から離れない。
近所の人の話を聞く限りかなり豪快だったらしいけれど一つだけある噂があった。
婆さんは腕の立つ医者だったけれど私怨をかなり持ち込む人で、誰を助けるか助けないかを決めてまさに神のような人だったと。
狭い田舎だ。
婆さんを恨む人がそんな噂を流したのだろう。
でも不思議だ。その噂を聞いたのは俺が5歳くらいの頃だ。
今さらそんな夢を見るだろうか。
不思議な話だ。


8/8/2025, 12:45:09 PM

「心の羅針盤」

海を見ると人間は人生を見つめ直すらしい。
どこまでも広大だからだろうか、さざなみの音がアルファ波を発生させるからだろうか、人間の営みとはかけ離れて太古から存在している様子がまるで母親のように感じられるからだろうか。
理由は分からないけれど、なぜか人は海を見てノスタルジーに耽ったり、青春を描こうとしたり、涙を流すらしい。
それだけではない。
海は人生そのものに喩えられたりする。
波が高く荒れているときはシケというが、まさに踏んだり蹴ったりの日やツイてない日はシケた日と呼ぶことがある。
逆に穏やかな海は凪というがそれもそのまま何も起こらない日を凪といったりすることもある。

そんなことを考えながら俺は海を見つめた。
哲学的なことをうらうらと考えたけれどおそらくみんな考えてることは同じだ。
こうやって海見ながらボーッとしてる人多いなあ。海見ながら人生語ったり本音を言うことが多いよなあ。
確かにシケとかナギとか言うもんなあ。人生って海みてえだなあ。
誰でも思いつくことをうだうだうだうだと頭の中でそれっぽく語り散らかして、自己陶酔する。
そして何も解決していないのになんかすっきりして帰ってしまうのだ。
それじゃつまらん。

どうせなら海に出ようじゃないか。
某少年漫画の主人公みたいに心の赴くままに旅をするならどうする?
でも浜辺に座って海を見つめてる時点で座礁してるようなもんだ。
俺はこのままでいいのか?どこに向かってるんだ?正解の道を辿っていけているのか。
分からないから海に来て現実逃避をしているのだ。
たまに人生は山登りに例えられることもある。
みんな頂上を目指してひたすら登り続ける。
しかしそこには道に迷うという概念はないし、みんな頂上を目指すべきという揺るがない前提がある。
じゃあ遭難した人は?頂上からの景色に興味がない人は?
山はそんな人たちを受け入れてくれるほど懐が広くない。
コンパスは頂上を目指すものでしかない。

それに比べると海のなんと懐の深いことか。
そうか、羅針盤。羅針盤もコンパスみたいなものだが、海には頂上のようなゴールはない。強いて言うなら島がゴールにあたるけれど人それぞれの島に辿り着ける。
羅針盤を無視して漂っても必ずどこかに辿り着く。
俺は何か答えを見つけた気がして立ち上がった。
くるくると回っていた羅針盤の針がまっすぐ前を向いた。

8/6/2025, 8:32:52 AM

「泡になりたい」

タバコと酒が入り乱れる赤提灯の居酒屋にはまったく似つかわしくない輝きが彼の左手薬指に宿っている。
彼の頬が紅潮しているのはお酒の力だけではないだろう。
「それで?馴れ初めは?」
「そーだ!そーだ!早く聞かせろよ!」
うへへえ、と目尻を垂らして笑うばかりで本人は何も答えない。
痺れを切らした友人がこちらにターゲットを定めてきた。
「お前は知ってんじゃないの?幼馴染だろ?」
いつも通りクールに流そうとカシオレを一口飲む。
「知らないよ。なんも聞いてなかったし」
まじかよー!ガチじゃーん!
一段と盛り上がる回答をしてしまったようだ。
ガチってなんだよ。
幼馴染に言わないほどガチの恋愛だったって意味か?
それともぽっと出の女との関係がガチでこちらの幼馴染との関係はガチじゃなかったって暗に言いたいのか?

「で、式はいつなんだ?」
「俺らも呼んでくれるんだろうな?」
「それがさあ…」
彼は少し気まずそうに頭をかいた。
「彼女が身内で式を挙げたいらしくて、お前ら呼べなかったんだよ」
「おーい!!!」「まじかよ!」
「それでも友達かー!」
まあ珍しくもない。最近は結婚式と言っても昔のように派手にやる人は減ったと聞く。
節約にもなるし変な気遣いとかからも解放されるし賢明な判断だろう。
「ただ、どうしてもお前だけには来て欲しくて…」
彼の瞳がこちらをじっと見つめる。
「「えー!いいなー!」」
選ばれなかった友人が肩を組んでくる。
まじか…。
動揺が顔に出ないようクールにカシオレを飲み干す。
好きな人の結婚式に呼ばれる。
こんなにありがた迷惑なことはないだろう。

自覚したのは高校生の頃だったか。
急な腹痛で入院したとき毎日見舞いに来てくれたのが彼だけだった。
幼馴染だから、家が近いから、親とも仲がいいから。そんな理由だと分かっていたけれど、彼に惹かれるのは止められなかった。
もちろんそんなこと態度に出してしまえば、積み重ねてきた友情は壊れる。
気まずくなりたくなかったしどうせ実るはずもない想いだと知っていたから、ここまで隠し通してきた。
もちろん彼に、彼女ができた、別れたという情報が更新されていくたびに心の奥で感情が激しく揺れ動いたけれどどこかで、幼馴染なんだから友達なんだからずっと一緒だと思っていた。
でもちゃんと考えればそんなことはなくて。
彼がいつか結婚して家庭を持てば、そこにこちらの入り込む隙間がないのは当たり前のことで。
ただ現実から目を逸らしていただけだった。

赤い照明が彼の顔を照らす。
先ほどよりも赤く目尻が垂れている。
なんて幸せそうな顔をしているんだろう。
「すみませーん!注文いいすかー?えーとビール…あ、お前も頼めば?カシオレでいい?」
「いや、俺もビール」
「おお!とうとうカシオレ卒業か?ビールが飲める男になったか!」
「うるせえよ」
20歳になったばかりの頃、お前はカシオレってイメージだわ、なんてお前が意味の分からないことを言ったばかりにずっとカシオレを飲んでいるなんて忘れきってるんだろうな。
注文し終えた彼はもうほとんど泡が残っていないグラスを傾けた。
泡が消えて喉仏が滑らかに上下する。
恋が叶わなかった人魚姫は泡になったんだっけ?
じゃあ俺はビールの泡にでもなって彼の喉元を通り過ぎたい。

8/4/2025, 2:36:17 PM

「ただいま、夏」

あの日そういえば忘れ物があった。
上履きに絵の具セットに教科書。終業式に大量に持って帰ったはずなのに学校に忘れ物をするなんて私ったらおっちょこちょいだなあ。
でも何を忘れたのか忘れてしまった。
すごく大事なものだった気がするけどどうしても思い出せない。
私ったらおっちょこちょいだなあ。
まあなんとかなるでしょ。
それより夏休みを楽しまなきゃ。
部活があるけど友達とたくさん遊べるし、ヒトナツの恋とかも経験しちゃえるかもしれないし!
私はイケてるんだから!

イケてる服で陰気臭い家を飛び出して、駅へ向かう。
今日は友達と隣駅の映画館に行くのだ。
踏切を渡った向こうの改札口までおよそ5分。
ノンストップで飛び交うチャットに笑いながら遅れないように文字を打つ。

カーンカーンカーンカーン…
ふと誰かの声がした気がして顔を上げる。
目の前を電車が猛スピードで目の前を通り過ぎた。
蝉の声と聞き慣れた踏切の音しか聞こえない。
気のせいだったか。
またスマホに視線を落とした。
暗くなった液晶画面に私と向かい合って覗き込んでいる影を見た。
びっくりして飛び退く。
誰も立っていない。踏切のバーが下がって騒がしい音が聞こえるだけで何もない。
幽霊…?まさか…

電車が通り過ぎたのに踏切のバーはまだ上がらない。
何かがおかしい。
規則正しく騒がしい警告音が繰り返されている。
冷たい汗がイケてる服をぐっしょりと濡らしていく。
蝉の声が一段とうるさくなった。
「ごめんなさい…」
恐怖のあまり謝罪の言葉が漏れる。
人間は理解のできないことが起こると謝罪するらしい。多分命乞いと意味合いは似ているだろう。
よく分からない悟りを頭の中で展開しながら「ごめんなさい…ごめんなさい…」と繰り返す。
すると警告音が止み、バーがゆっくりと上がった。

あの日忘れていたのは約束だった。
「夏になったら海に行こう」
中学生になる前、去年の冬にそう言って約束した彼女のことだ。
お揃いのキーホルダーを持っていつも放課後一緒に帰っていた小学校からの友達。
大人しくて可愛くて儚い女の子だった。
彼女はよその小学校からやってきた気の強いイケてる女の子たちの格好の餌食だった。
どうして彼女の味方をしてあげなかったのだろう。
どうしてイケてるグループに入りたいって思ったんだろう。
どうしてあの時背中を押してしまったんだろう。
線路に躓いた彼女をどうして私は見捨てたんだろう。
輝くばかりの白い腕で彼女は私に抱きついた。
「これでずっと友達」
私は踏切の中から空を見上げた。

8/3/2025, 12:20:20 PM

「ぬるい炭酸と無口な君」

喫茶店がキンキンに冷たいのは単に冷房のせいだけではないだろう。
昼と呼ぶにはまだ早い時間で店内は、スーツを着た殺し屋のようなサラリーマンやスマホばかり見て一切口を聞かない女の子たちがいる。
シンとしていて静かなクラシックのBGMが聞こえてくる。
これはショパンだったか、バッハだったかモーツァルトか…
いつも彼女が聞いている曲だと思うけれど俺は全く知らない。
「クリームソーダとアイスコーヒーです」
ショートカットのおとなしそうな店員がアイスコーヒーを彼女の前にアイスコーヒーを俺の前に置いた。

「この曲なんだっけ?」
真正面に座る彼女にこそこそと聞いてみる。
なんかいつもより可愛い気がする。
なんでだろう?メイク?服装?もしかして髪切ったのかな?
最近デートしていなかったから余計に可愛く見えるのかもしれない。
「今日かわいいね」
顔を赤らめるなり落ち着かないそぶりをするなり、ちょっといいリアクションが返ってくることを期待しなかったわけでもない。
けれどこんなに冷房の風が吹いているのに髪の毛一つ揺らさない。

俺と違って元々そんなに喋るタイプではない。
大人しくて育ちが良くて頭もいい。むしろ俺と付き合っているのが不思議に思われるほど不釣り合いだ。
けれど、俺の冗談が好きだと言ってくれた。
俺の仕事しているときの顔が好きだと言ってくれた。
ずっとにこにこしてそばにいてくれた。
付き合って1年以上経つと俺の前ではべらべらと喋ってくれるようにもなった。
しかしいつからか俺は彼女の存在を当たり前にしてしまっていた。
恋人ではなく家族になったのだと一人で納得して。
家を出て行って今日で1ヶ月。
もう喫茶店に入ったとき、彼女の後ろ姿を見た時から分かっていた。
俺がどれだけ彼女を見ていなかったということ。
彼女の心はもう帰ってこないということも。
水が溶けたアイスコーヒーはまだコーヒーだけれど、クリームが溶けたソーダはもう違う飲み物だ。
彼女の中でもう俺への愛は溶けて無くなってしまったのだろう。

いつのまにかサラリーマンも仲の悪そうな女の子たちもいなくなった。
代わりにおしゃべりしながら主婦らしき集団と仲の良さそうなカップルが入店してきた。
もう昼時だ。家族連れも目立ってきた。
「ショパン」
彼女がボソリとつぶやいた。
え?と聞き返す前に彼女が続ける。
「約束あるからもう行くね。さよなら」
700円をテーブルに置いて彼女は喫茶店を出て行った。
俺は辛い沈黙から解放されてフーッとため息をついた。同時に甘く刺激的な日々が終わってしまったことを改めて実感した。
彼女が一切手をつけなかったクリームソーダ。実は彼女がアイスコーヒーで俺がクリームソーダを頼んでいたのだ。
俺はアイスコーヒーは飲めないから。
飲むと舌にまとわりつくような甘いクリームばかりで炭酸は消えてしまっていた。流石の甘党の俺でもこれはきつい。
口直しとしてコーヒーに挑戦してみる。
「にげー…」
テーブルに置かれた俺のクリームソーダ代がぼやけてしまった。

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