香草

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「ただいま、夏」

あの日そういえば忘れ物があった。
上履きに絵の具セットに教科書。終業式に大量に持って帰ったはずなのに学校に忘れ物をするなんて私ったらおっちょこちょいだなあ。
でも何を忘れたのか忘れてしまった。
すごく大事なものだった気がするけどどうしても思い出せない。
私ったらおっちょこちょいだなあ。
まあなんとかなるでしょ。
それより夏休みを楽しまなきゃ。
部活があるけど友達とたくさん遊べるし、ヒトナツの恋とかも経験しちゃえるかもしれないし!
私はイケてるんだから!

イケてる服で陰気臭い家を飛び出して、駅へ向かう。
今日は友達と隣駅の映画館に行くのだ。
踏切を渡った向こうの改札口までおよそ5分。
ノンストップで飛び交うチャットに笑いながら遅れないように文字を打つ。

カーンカーンカーンカーン…
ふと誰かの声がした気がして顔を上げる。
目の前を電車が猛スピードで目の前を通り過ぎた。
蝉の声と聞き慣れた踏切の音しか聞こえない。
気のせいだったか。
またスマホに視線を落とした。
暗くなった液晶画面に私と向かい合って覗き込んでいる影を見た。
びっくりして飛び退く。
誰も立っていない。踏切のバーが下がって騒がしい音が聞こえるだけで何もない。
幽霊…?まさか…

電車が通り過ぎたのに踏切のバーはまだ上がらない。
何かがおかしい。
規則正しく騒がしい警告音が繰り返されている。
冷たい汗がイケてる服をぐっしょりと濡らしていく。
蝉の声が一段とうるさくなった。
「ごめんなさい…」
恐怖のあまり謝罪の言葉が漏れる。
人間は理解のできないことが起こると謝罪するらしい。多分命乞いと意味合いは似ているだろう。
よく分からない悟りを頭の中で展開しながら「ごめんなさい…ごめんなさい…」と繰り返す。
すると警告音が止み、バーがゆっくりと上がった。

あの日忘れていたのは約束だった。
「夏になったら海に行こう」
中学生になる前、去年の冬にそう言って約束した彼女のことだ。
お揃いのキーホルダーを持っていつも放課後一緒に帰っていた小学校からの友達。
大人しくて可愛くて儚い女の子だった。
彼女はよその小学校からやってきた気の強いイケてる女の子たちの格好の餌食だった。
どうして彼女の味方をしてあげなかったのだろう。
どうしてイケてるグループに入りたいって思ったんだろう。
どうしてあの時背中を押してしまったんだろう。
線路に躓いた彼女をどうして私は見捨てたんだろう。
輝くばかりの白い腕で彼女は私に抱きついた。
「これでずっと友達」
私は踏切の中から空を見上げた。

8/4/2025, 2:36:17 PM