「ぬるい炭酸と無口な君」
喫茶店がキンキンに冷たいのは単に冷房のせいだけではないだろう。
昼と呼ぶにはまだ早い時間で店内は、スーツを着た殺し屋のようなサラリーマンやスマホばかり見て一切口を聞かない女の子たちがいる。
シンとしていて静かなクラシックのBGMが聞こえてくる。
これはショパンだったか、バッハだったかモーツァルトか…
いつも彼女が聞いている曲だと思うけれど俺は全く知らない。
「クリームソーダとアイスコーヒーです」
ショートカットのおとなしそうな店員がアイスコーヒーを彼女の前にアイスコーヒーを俺の前に置いた。
「この曲なんだっけ?」
真正面に座る彼女にこそこそと聞いてみる。
なんかいつもより可愛い気がする。
なんでだろう?メイク?服装?もしかして髪切ったのかな?
最近デートしていなかったから余計に可愛く見えるのかもしれない。
「今日かわいいね」
顔を赤らめるなり落ち着かないそぶりをするなり、ちょっといいリアクションが返ってくることを期待しなかったわけでもない。
けれどこんなに冷房の風が吹いているのに髪の毛一つ揺らさない。
俺と違って元々そんなに喋るタイプではない。
大人しくて育ちが良くて頭もいい。むしろ俺と付き合っているのが不思議に思われるほど不釣り合いだ。
けれど、俺の冗談が好きだと言ってくれた。
俺の仕事しているときの顔が好きだと言ってくれた。
ずっとにこにこしてそばにいてくれた。
付き合って1年以上経つと俺の前ではべらべらと喋ってくれるようにもなった。
しかしいつからか俺は彼女の存在を当たり前にしてしまっていた。
恋人ではなく家族になったのだと一人で納得して。
家を出て行って今日で1ヶ月。
もう喫茶店に入ったとき、彼女の後ろ姿を見た時から分かっていた。
俺がどれだけ彼女を見ていなかったということ。
彼女の心はもう帰ってこないということも。
水が溶けたアイスコーヒーはまだコーヒーだけれど、クリームが溶けたソーダはもう違う飲み物だ。
彼女の中でもう俺への愛は溶けて無くなってしまったのだろう。
いつのまにかサラリーマンも仲の悪そうな女の子たちもいなくなった。
代わりにおしゃべりしながら主婦らしき集団と仲の良さそうなカップルが入店してきた。
もう昼時だ。家族連れも目立ってきた。
「ショパン」
彼女がボソリとつぶやいた。
え?と聞き返す前に彼女が続ける。
「約束あるからもう行くね。さよなら」
700円をテーブルに置いて彼女は喫茶店を出て行った。
俺は辛い沈黙から解放されてフーッとため息をついた。同時に甘く刺激的な日々が終わってしまったことを改めて実感した。
彼女が一切手をつけなかったクリームソーダ。実は彼女がアイスコーヒーで俺がクリームソーダを頼んでいたのだ。
俺はアイスコーヒーは飲めないから。
飲むと舌にまとわりつくような甘いクリームばかりで炭酸は消えてしまっていた。流石の甘党の俺でもこれはきつい。
口直しとしてコーヒーに挑戦してみる。
「にげー…」
テーブルに置かれた俺のクリームソーダ代がぼやけてしまった。
8/3/2025, 12:20:20 PM