「泡になりたい」
タバコと酒が入り乱れる赤提灯の居酒屋にはまったく似つかわしくない輝きが彼の左手薬指に宿っている。
彼の頬が紅潮しているのはお酒の力だけではないだろう。
「それで?馴れ初めは?」
「そーだ!そーだ!早く聞かせろよ!」
うへへえ、と目尻を垂らして笑うばかりで本人は何も答えない。
痺れを切らした友人がこちらにターゲットを定めてきた。
「お前は知ってんじゃないの?幼馴染だろ?」
いつも通りクールに流そうとカシオレを一口飲む。
「知らないよ。なんも聞いてなかったし」
まじかよー!ガチじゃーん!
一段と盛り上がる回答をしてしまったようだ。
ガチってなんだよ。
幼馴染に言わないほどガチの恋愛だったって意味か?
それともぽっと出の女との関係がガチでこちらの幼馴染との関係はガチじゃなかったって暗に言いたいのか?
「で、式はいつなんだ?」
「俺らも呼んでくれるんだろうな?」
「それがさあ…」
彼は少し気まずそうに頭をかいた。
「彼女が身内で式を挙げたいらしくて、お前ら呼べなかったんだよ」
「おーい!!!」「まじかよ!」
「それでも友達かー!」
まあ珍しくもない。最近は結婚式と言っても昔のように派手にやる人は減ったと聞く。
節約にもなるし変な気遣いとかからも解放されるし賢明な判断だろう。
「ただ、どうしてもお前だけには来て欲しくて…」
彼の瞳がこちらをじっと見つめる。
「「えー!いいなー!」」
選ばれなかった友人が肩を組んでくる。
まじか…。
動揺が顔に出ないようクールにカシオレを飲み干す。
好きな人の結婚式に呼ばれる。
こんなにありがた迷惑なことはないだろう。
自覚したのは高校生の頃だったか。
急な腹痛で入院したとき毎日見舞いに来てくれたのが彼だけだった。
幼馴染だから、家が近いから、親とも仲がいいから。そんな理由だと分かっていたけれど、彼に惹かれるのは止められなかった。
もちろんそんなこと態度に出してしまえば、積み重ねてきた友情は壊れる。
気まずくなりたくなかったしどうせ実るはずもない想いだと知っていたから、ここまで隠し通してきた。
もちろん彼に、彼女ができた、別れたという情報が更新されていくたびに心の奥で感情が激しく揺れ動いたけれどどこかで、幼馴染なんだから友達なんだからずっと一緒だと思っていた。
でもちゃんと考えればそんなことはなくて。
彼がいつか結婚して家庭を持てば、そこにこちらの入り込む隙間がないのは当たり前のことで。
ただ現実から目を逸らしていただけだった。
赤い照明が彼の顔を照らす。
先ほどよりも赤く目尻が垂れている。
なんて幸せそうな顔をしているんだろう。
「すみませーん!注文いいすかー?えーとビール…あ、お前も頼めば?カシオレでいい?」
「いや、俺もビール」
「おお!とうとうカシオレ卒業か?ビールが飲める男になったか!」
「うるせえよ」
20歳になったばかりの頃、お前はカシオレってイメージだわ、なんてお前が意味の分からないことを言ったばかりにずっとカシオレを飲んでいるなんて忘れきってるんだろうな。
注文し終えた彼はもうほとんど泡が残っていないグラスを傾けた。
泡が消えて喉仏が滑らかに上下する。
恋が叶わなかった人魚姫は泡になったんだっけ?
じゃあ俺はビールの泡にでもなって彼の喉元を通り過ぎたい。
「ただいま、夏」
あの日そういえば忘れ物があった。
上履きに絵の具セットに教科書。終業式に大量に持って帰ったはずなのに学校に忘れ物をするなんて私ったらおっちょこちょいだなあ。
でも何を忘れたのか忘れてしまった。
すごく大事なものだった気がするけどどうしても思い出せない。
私ったらおっちょこちょいだなあ。
まあなんとかなるでしょ。
それより夏休みを楽しまなきゃ。
部活があるけど友達とたくさん遊べるし、ヒトナツの恋とかも経験しちゃえるかもしれないし!
私はイケてるんだから!
イケてる服で陰気臭い家を飛び出して、駅へ向かう。
今日は友達と隣駅の映画館に行くのだ。
踏切を渡った向こうの改札口までおよそ5分。
ノンストップで飛び交うチャットに笑いながら遅れないように文字を打つ。
カーンカーンカーンカーン…
ふと誰かの声がした気がして顔を上げる。
目の前を電車が猛スピードで目の前を通り過ぎた。
蝉の声と聞き慣れた踏切の音しか聞こえない。
気のせいだったか。
またスマホに視線を落とした。
暗くなった液晶画面に私と向かい合って覗き込んでいる影を見た。
びっくりして飛び退く。
誰も立っていない。踏切のバーが下がって騒がしい音が聞こえるだけで何もない。
幽霊…?まさか…
電車が通り過ぎたのに踏切のバーはまだ上がらない。
何かがおかしい。
規則正しく騒がしい警告音が繰り返されている。
冷たい汗がイケてる服をぐっしょりと濡らしていく。
蝉の声が一段とうるさくなった。
「ごめんなさい…」
恐怖のあまり謝罪の言葉が漏れる。
人間は理解のできないことが起こると謝罪するらしい。多分命乞いと意味合いは似ているだろう。
よく分からない悟りを頭の中で展開しながら「ごめんなさい…ごめんなさい…」と繰り返す。
すると警告音が止み、バーがゆっくりと上がった。
あの日忘れていたのは約束だった。
「夏になったら海に行こう」
中学生になる前、去年の冬にそう言って約束した彼女のことだ。
お揃いのキーホルダーを持っていつも放課後一緒に帰っていた小学校からの友達。
大人しくて可愛くて儚い女の子だった。
彼女はよその小学校からやってきた気の強いイケてる女の子たちの格好の餌食だった。
どうして彼女の味方をしてあげなかったのだろう。
どうしてイケてるグループに入りたいって思ったんだろう。
どうしてあの時背中を押してしまったんだろう。
線路に躓いた彼女をどうして私は見捨てたんだろう。
輝くばかりの白い腕で彼女は私に抱きついた。
「これでずっと友達」
私は踏切の中から空を見上げた。
「ぬるい炭酸と無口な君」
喫茶店がキンキンに冷たいのは単に冷房のせいだけではないだろう。
昼と呼ぶにはまだ早い時間で店内は、スーツを着た殺し屋のようなサラリーマンやスマホばかり見て一切口を聞かない女の子たちがいる。
シンとしていて静かなクラシックのBGMが聞こえてくる。
これはショパンだったか、バッハだったかモーツァルトか…
いつも彼女が聞いている曲だと思うけれど俺は全く知らない。
「クリームソーダとアイスコーヒーです」
ショートカットのおとなしそうな店員がアイスコーヒーを彼女の前にアイスコーヒーを俺の前に置いた。
「この曲なんだっけ?」
真正面に座る彼女にこそこそと聞いてみる。
なんかいつもより可愛い気がする。
なんでだろう?メイク?服装?もしかして髪切ったのかな?
最近デートしていなかったから余計に可愛く見えるのかもしれない。
「今日かわいいね」
顔を赤らめるなり落ち着かないそぶりをするなり、ちょっといいリアクションが返ってくることを期待しなかったわけでもない。
けれどこんなに冷房の風が吹いているのに髪の毛一つ揺らさない。
俺と違って元々そんなに喋るタイプではない。
大人しくて育ちが良くて頭もいい。むしろ俺と付き合っているのが不思議に思われるほど不釣り合いだ。
けれど、俺の冗談が好きだと言ってくれた。
俺の仕事しているときの顔が好きだと言ってくれた。
ずっとにこにこしてそばにいてくれた。
付き合って1年以上経つと俺の前ではべらべらと喋ってくれるようにもなった。
しかしいつからか俺は彼女の存在を当たり前にしてしまっていた。
恋人ではなく家族になったのだと一人で納得して。
家を出て行って今日で1ヶ月。
もう喫茶店に入ったとき、彼女の後ろ姿を見た時から分かっていた。
俺がどれだけ彼女を見ていなかったということ。
彼女の心はもう帰ってこないということも。
水が溶けたアイスコーヒーはまだコーヒーだけれど、クリームが溶けたソーダはもう違う飲み物だ。
彼女の中でもう俺への愛は溶けて無くなってしまったのだろう。
いつのまにかサラリーマンも仲の悪そうな女の子たちもいなくなった。
代わりにおしゃべりしながら主婦らしき集団と仲の良さそうなカップルが入店してきた。
もう昼時だ。家族連れも目立ってきた。
「ショパン」
彼女がボソリとつぶやいた。
え?と聞き返す前に彼女が続ける。
「約束あるからもう行くね。さよなら」
700円をテーブルに置いて彼女は喫茶店を出て行った。
俺は辛い沈黙から解放されてフーッとため息をついた。同時に甘く刺激的な日々が終わってしまったことを改めて実感した。
彼女が一切手をつけなかったクリームソーダ。実は彼女がアイスコーヒーで俺がクリームソーダを頼んでいたのだ。
俺はアイスコーヒーは飲めないから。
飲むと舌にまとわりつくような甘いクリームばかりで炭酸は消えてしまっていた。流石の甘党の俺でもこれはきつい。
口直しとしてコーヒーに挑戦してみる。
「にげー…」
テーブルに置かれた俺のクリームソーダ代がぼやけてしまった。
「波にさらわれた手紙」
「いつか私が死んだら灰は海に撒いて欲しい」
母の言いつけ通り秋の裏寂しい夕暮れに私と父はたった一握りしか残らなかった母の遺灰を海の風に乗せた。
それからだろうか海に行くとなんだか母の温もりを感じるようになったのは。
嫌なことがあれば海で泣き、嬉しいことがあれば海に報告に行った。温かく抱きしめてくれる手もないし一緒に喜んでくれる笑い声も聞こえない。波の打ち返す激しい響きと湿った潮の香りしかしないけれど、字も書けないほど幼い私にとっては母なる海がまさに母であった。
そして少し成長すると私は海に手紙を流すようになったのだ。月に一度、羊皮紙を広げ拙い文字で母への愛と強く生きている理想の私の日常を書き、たくさんの小石とともに瓶に入れる。
母の遺灰を撒いたときのように、波はそっと受けれいてくれて、瓶はゆっくりと沈んでいった。
もちろん返事なんてあるわけがない。
母がいないことはすでに分かっているし、ただの自己満足であることは理解しきっている。
だからある朝いつものように浜辺に行き、私が沈めた瓶が流れ着いていた時は驚いたのだ。
最初は私が書いた手紙が戻ってきたのかと思ったけれど、小石を入れた瓶はかなり重たい。そうプカプカと戻ってくるわけがない。
訝しみながら拾い中身を確認する。
やはり私と同じような羊皮紙が丸めて入っている。
そっと開く。
「愛しい娘へ。字が書けるようになったんですね。あなたの成長を誇らしく思います。あなたが悲しんだり、クスクスと思い出し笑いしている様子をずっと見ていました。強がらずにあなたのままでいてください。母より」
奇跡だと思った。
母から返事が返ってくるなんて。
不思議だとか考える前に涙が溢れ出す。
ずっと求めていた温かな声がはっきりと蘇ったからだ。
母は大きなお屋敷の召使として働いていた。毎晩遅く帰ってきてそっと子供部屋をのぞいてはもう寝ている私の髪をそっと梳かしながら小さく子守唄を歌ってくれるのだ。
お屋敷の火事に巻き込まれ、死んでしまった。
下半身を倒れた太い柱に挟まれながら焼け死んでしまったらしい。だから遺灰は少ししか残らなかった。
大人になってから聞いた話だ。
私は故郷の海辺の街を離れ、婚約者とともに山間の村に嫁いだ。
海が恋しくて夜にそっと山を降りて浜辺で眠るといった奇行を繰り返すうちに、困った婚約者が現実を突きつけるつもりで父から聞いた話を私に聞かせたのだ。
海は母ではない、母はもういない。
何度も言っているように、私はそんなの理解している。
それでも幼い頃から私の悲しさや喜びや怒りを包み込んできてくれたのは海なのだ。
私の手紙にいつも返事をくれるのは母の遺灰を撒いた海なのだ。
しかし真実はある夜に知った。
いつものように山から長い時間をかけて海へ降りたときのことだ。
月が眩しくて薄暗い昼かと思うほど明るかった。
波の打ち返しを聞きながら目を瞑ろうとしたとき、波の間で煌めくものが見えた。
月の光が波に反射しているのだろうか。いやあんなに強く光るものはない。
よく目を凝らすと。イルカのようなクジラのような尾びれに鱗が輝いている。
少し恐ろしくなって岩陰に身を隠した私は次の瞬間ハッとした。
美しい真珠色の髪を持った綺麗な女性が私の瓶を持って浜辺に向かって泳いでいた。
浅瀬の岩に登ると瓶を砂浜の柔らかいところに投げ落とし、すぐに波の間に姿を消してしまった。
慌てて瓶を拾い上げてみると、昨日私が沈めた手紙の返事だった。
確かに私に母はいない。
あの人魚はどう見ても思い出の中の母とは一致しない。
しかし母の代わりに言葉を届け、私を励まし温かな愛で包んでくれていたのは海の幻だったのだ。
その日から私が海で眠ることはなくなった。
「熱い鼓動」
夏休みは学生の特権!と死んだ大人たちから羨ましがられる声を仄聞するが、果たしてこの暑い暑い日本で暑い暑い灼熱の体育館で汗を流すことを考えたらその声も聞こえなくなるんではないかと、私は思っている。
日陰に逃げてもまとわりついてくる暑さを耐えながら私は心臓破りの坂をヒイヒイと自転車のペダルを踏んでいた。
まだ午前中、朝の気温が上がりきっていない時間だからといっても暑い、暑すぎる!
すでに背中には汗が流れ血管がブチ切れそうになっているけれど、これから体育館でひたすらボールと向き合って汗を流すことを考えると、めまいまでしてくる。
途中で水分補給をしながら坂道を登り切り、クーラーのかかった部室で張り付いたTシャツから新しいTシャツに着替える。
ずっと涼んでいたい気持ちがあるが、今日は私がボールやらネットを準備する当番が回ってきている。他の部員よりも早起きした意味がなくなってしまうので、重い腰を上げた。
今は朝8時。9時から我らバレーボール部の練習が始まるので、それまでにネットやボール、得点板の準備をしておかなければならない。
朝の体育館は涼しい、そんなバカみたいなイメージを持つのは文化部か学生時代の辛い経緯をまるっと忘れた大人だけだろう。
実際の体育館は締め切られているからむわっと重く蒸し暑い空気が充満しているのだ。
身構えながら扉を開けると、
「あれ?」
思いがけず若干涼しい風が吹いてきた。
原因はすぐに分かった。
強くボールを叩きつけキュッとリズムよく音を立てる一人の男子。
蝉がうるさくてまったく扉を開けるまで誰かいるなんて気づかなかった。
今日はバレーボール部もバスケットボール部で練習が被っていてコートを半分に分ける日だ。いつもより準備する面積が少ないので私自身ラッキーと思っていたのだ。
どうやらバスケ部の一人が早めに来て自主練しているらしかった。
男子はイマジナリーの敵を生み出して練習しているようで、何にもない空間を右へ左へとくるくる回転しながらゴールに向かっていた。
バスケットボールにはあまり詳しくないけれど、彼のプレイはとても上手い方なんじゃないだろうか。
ボールが彼の手に吸い付くように収まるし、まるで踊っているかのような綺麗な足捌きだ。
そうっと横をすり抜け奥のバレー部のコートへ行こうとしたとき、すぐそばの窓からシャンプーの香りがした。
え?私も彼も汗くさいはずなのにシャンプー?
不思議に思って恐る恐る窓の外を覗き込むと、真っ黒な頭がうずくまっているのが見えた。
夏休みなのに制服を着てぼーっと、体育館前にある蛇口を見つめている。
ギョッとして思わず後ずさったけれど、もし熱中症とかで座り込んでいるならほっとくのはまずい。
「大丈夫ですか?」
なんせ窓の真下にいるから驚かせないようにと思って小声で声をかけた。
それでも少しギョッとされてしまったようだ。
彼女は少し慌ててシー!と白く細い指を口に当てた。
「大丈夫です…お構いなく…」
まるで両親がたまに招き入れる客人のような口ぶりで彼女は気まずそうに答えた。風鈴のような涼やかな声だ。合唱部かな。
バスケットボールを操る彼はゴールしか見えていないようでこちらのやりとりには全く気づいていない。おそらく私が来たことにも気付いていない。
彼女は窓のへり越しに体育館の中を覗き込んだ。途端に顔を赤らめ、また元の体勢に戻ってしまう。
はっはーん?
甘酸っぱい空気が流れ始めて私は奥のコートへそっと退場した。
倉庫からボールのカゴを出してくるとボールを彼女がいた方向へ転がした。
「ごめんなさーい!そこのボール取ってくれませんかー!?」
ようやく私の存在に気付いた彼と困ったようにボールを抱えた彼女がこちらを見て、お互いを見た。
彼は恥ずかしそうにダムダムとボールをつき、彼女は恥ずかしそうにこちらにボールを転がした。
お互いのボールのバウンドがシンクロしたとき、私は思わず熱い鼓動を感じずにはいられなかった。