香草

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「波にさらわれた手紙」

「いつか私が死んだら灰は海に撒いて欲しい」
母の言いつけ通り秋の裏寂しい夕暮れに私と父はたった一握りしか残らなかった母の遺灰を海の風に乗せた。
それからだろうか海に行くとなんだか母の温もりを感じるようになったのは。
嫌なことがあれば海で泣き、嬉しいことがあれば海に報告に行った。温かく抱きしめてくれる手もないし一緒に喜んでくれる笑い声も聞こえない。波の打ち返す激しい響きと湿った潮の香りしかしないけれど、字も書けないほど幼い私にとっては母なる海がまさに母であった。
そして少し成長すると私は海に手紙を流すようになったのだ。月に一度、羊皮紙を広げ拙い文字で母への愛と強く生きている理想の私の日常を書き、たくさんの小石とともに瓶に入れる。
母の遺灰を撒いたときのように、波はそっと受けれいてくれて、瓶はゆっくりと沈んでいった。

もちろん返事なんてあるわけがない。
母がいないことはすでに分かっているし、ただの自己満足であることは理解しきっている。
だからある朝いつものように浜辺に行き、私が沈めた瓶が流れ着いていた時は驚いたのだ。
最初は私が書いた手紙が戻ってきたのかと思ったけれど、小石を入れた瓶はかなり重たい。そうプカプカと戻ってくるわけがない。
訝しみながら拾い中身を確認する。
やはり私と同じような羊皮紙が丸めて入っている。
そっと開く。
「愛しい娘へ。字が書けるようになったんですね。あなたの成長を誇らしく思います。あなたが悲しんだり、クスクスと思い出し笑いしている様子をずっと見ていました。強がらずにあなたのままでいてください。母より」
奇跡だと思った。
母から返事が返ってくるなんて。
不思議だとか考える前に涙が溢れ出す。
ずっと求めていた温かな声がはっきりと蘇ったからだ。

母は大きなお屋敷の召使として働いていた。毎晩遅く帰ってきてそっと子供部屋をのぞいてはもう寝ている私の髪をそっと梳かしながら小さく子守唄を歌ってくれるのだ。
お屋敷の火事に巻き込まれ、死んでしまった。
下半身を倒れた太い柱に挟まれながら焼け死んでしまったらしい。だから遺灰は少ししか残らなかった。
大人になってから聞いた話だ。
私は故郷の海辺の街を離れ、婚約者とともに山間の村に嫁いだ。
海が恋しくて夜にそっと山を降りて浜辺で眠るといった奇行を繰り返すうちに、困った婚約者が現実を突きつけるつもりで父から聞いた話を私に聞かせたのだ。
海は母ではない、母はもういない。
何度も言っているように、私はそんなの理解している。
それでも幼い頃から私の悲しさや喜びや怒りを包み込んできてくれたのは海なのだ。
私の手紙にいつも返事をくれるのは母の遺灰を撒いた海なのだ。
しかし真実はある夜に知った。

いつものように山から長い時間をかけて海へ降りたときのことだ。
月が眩しくて薄暗い昼かと思うほど明るかった。
波の打ち返しを聞きながら目を瞑ろうとしたとき、波の間で煌めくものが見えた。
月の光が波に反射しているのだろうか。いやあんなに強く光るものはない。
よく目を凝らすと。イルカのようなクジラのような尾びれに鱗が輝いている。
少し恐ろしくなって岩陰に身を隠した私は次の瞬間ハッとした。
美しい真珠色の髪を持った綺麗な女性が私の瓶を持って浜辺に向かって泳いでいた。
浅瀬の岩に登ると瓶を砂浜の柔らかいところに投げ落とし、すぐに波の間に姿を消してしまった。
慌てて瓶を拾い上げてみると、昨日私が沈めた手紙の返事だった。
確かに私に母はいない。
あの人魚はどう見ても思い出の中の母とは一致しない。
しかし母の代わりに言葉を届け、私を励まし温かな愛で包んでくれていたのは海の幻だったのだ。
その日から私が海で眠ることはなくなった。

8/2/2025, 11:04:47 AM