「夢見る少女のように」
クッキーかパンケーキか甘い匂いがして、ファンファーレのような音楽が頭上で鳴り続けている。
そして歩を進めば立ちはだかる人混みの波。
照りつける太陽をつむじに感じながら、こんなところに来たことを少し後悔した。
始まりは母の日に「何が欲しい?」と聞いたことだった。
母は少し悩んで「家族でテーマパークに行きたい」と言った。昔からキャラクターのグッズやぬいぐるみを集めるほど大好きだった。僕が幼い頃はよく家族で夢の国に遊びに行っていた。大きくなってからはそもそも家族で出かけることもなくなったが、夢の国への愛は健在のようだ。
正直人混みが苦手な僕は気が乗らなかったけれど、社会人になってからは母に何かしてあげることもなかったし、父親から「たまには家族で行こう」と念を押されたこともあって行くことにした。
僕は幼い頃から夢の国に触れてきた割に、かなりさっぱりとした人間に育った。
小学生の頃からサンタクロースは信じていなかったし、将来の夢は公務員といった現実的かつ現実的な少年だった。無事グレることもなく変に捻くれることもなく、夢を叶えたけれど現実的なところは変わらない。
夢の国に入園してリスみたいなキャラクターの着ぐるみが出迎えてくれた時も、中で汗をかいている労働者のことを思いやらずにはいられない。
「ほら写真撮ってあげるから!」
母が僕の背中を押してリスの隣に並ばせたけれど、テンションが追いつかない。
そんな飛び跳ねて大丈夫っすか…なんて自分でも無粋と分かっているけれど、うまく笑顔を作れなかった。
アトラクションもそうだ。スピードのある箱に乗って浮遊感を楽しむものか、箱に乗ってキャラクターのストーリーを楽しむものしかない。
母のように世界観に浸るよりも世界観を作り出す技術力に感嘆してしまう。
食べ物は割高だけど美味い。母が中身がなくなったポップコーンの入れ物を大事そうに抱えているのには驚いた。持って帰ってコレクションするらしい。
母は終始ご機嫌だった。
好きなキャラクターを見つけては愛おしそうに写真を撮り、カチューシャを頭につけてルンルンで歩いている。アトラクションも思いっきり叫んで楽しんだ。
「母さんすごい楽しんでるね。こんなに楽しんでくれるならもっと早くに来れば良かった」
こっそり父親に伝えると、父は同じくこっそり教えてくれた。
「お前が小さい頃はお前を楽しませるのに必死で、あんなにはしゃいだことはなかったんだよ。お前はあまり興味示してなかったけどな」
「そうだったの?ちょっと申し訳ないなあ」
夜になってパレードを見た。
電飾で縁取られた大きな山車が爆音とともに練り歩く。まるで太陽が出ているかのように明るくて対岸の人の顔がはっきり見える。
一日中歩き回って足がビキビキと痛い。
母もさぞかし疲れ切っているだろうと隣を見た。
母はまるで夢見る少女のような瞳をしていた。イルミネーションの光が反射して虹色にキラキラと輝いていた。
なるほど、確かに子供がこんな瞳をしていたらこちらも幸せな気持ちになるだろう。
母が幼い僕を楽しませようと頑張っていたことにも合点がいった。
僕は夢を見ることはないけれど、こうやって誰かに夢を見させるのは悪くない。
いつか結婚して子供が生まれたらサンタクロースになりきってやろう。
夢の国にもたくさん連れてきてやろう。
僕はそう決意した。
「さあ行こう」
時計は9時を回ろうかというところ。
俺はリビングの鏡で最終チェックを済ました。
リネンの白シャツに紺のスラックス。シンプルながらもインスタで見たオシャレ男子の特徴を押さえたコーディネート。彼女の好みにもバッチリ合うだろう。
隣の部屋にいる彼女に声をかけた。
「準備できたよー」
「はーい。ちょっと待って」
同棲して初めてのデートだ。
出発前のこのやりとりですら少しくすぐったい。
いくらでも待ちますよ、と俺はソファに座った。
女性に外出前の準備を急かすのは御法度やで。姉から聞いた鉄則だ。関西に嫁いだ姉は、すっかり関西弁に染まっていた。
女性は男性よりも準備に時間がかかるもんや。余裕のある男は女性を待つもんや、と説教くさく言われたものだ。
「ねえ、これどう?」
顔を上げると、彼女はベージュのふんわりとしたワンピースを着て戸口に立っていた。
「いいんじゃない?」
「本当に?汚れそうじゃない?」
確かに今日のデート先は遊園地だ。水系のアトラクションや食べ歩きなどしていたら汚れてしまうかもしれない。
「そうだね。じゃあ色の濃いものにしたら?」
「うん!そうする!」
そう言って部屋に引っ込んだ。
服なら昨日のうちに決められたんじゃないかというツッコミが沸き起こるが、脳内の姉が絶対に言うたあかんでと釘を刺した。
「ねえ、これ手伝って」
次に彼女は背中をこちらに向けて戸口に姿を現した。
紺色のピタッとしたワンピースで背中のチャックが上げられないようだ。
すでに9時5分。おそらくメイクは終わっていない。
俺は少し急いでチャックを上げた。
「痛っ!」
どうやら髪の毛を挟んでしまったようだ。
「ご、ごめん!」
慌てて謝るが少し機嫌を損ねてしまった。
彼女は少し睨むと部屋に引っ込んだ。
いや、少し急げよ、と不満が沸き起こるが、まあまあ落ちきなはれと脳内の姉に宥められた。
次に彼女が姿を現したのはメイクが終わった後だ。
「ねえねえ!どう?良い感じ?」
いつもの可愛い顔が少し大人っぽくなって美しい。
「いいね!」
メイクのことはよく分からないけど、なんかいい感じなのは分かる。
よしもうそろそろ出発できるだろう。
「行こっか!」
彼女が元気よく玄関の扉を開ける。
アパートの階段を降りて、道路に出ると彼女が「あ!」と大きな声を出した。
「どうしたの?」
「ペアリング付けてくるの忘れた!取ってくる!」
さすがに戻っていたら電車の時間に間に合わない。
しかしそんなものいらないと言えば、彼女の機嫌を今度こそ損ねてしまうかもしれない。
脳内の姉に相談する。
彼女のコーデは白と紺のワンピース。閃いた。
「ペアリングなんかいらないよ」
「…は?なんでそんなこと言うの?」
彼女がムスッとした表情で詰め寄る。
「だって今日のコーデがペアリングじゃん?」
彼女は僕と自分の服を交互に見て、口角を上げた。
「ほんとじゃん!さすがうちの彼氏!」
「さあ行こう!」
なんとか危機は免れたようだ。
「水たまりに映る空」
午前中の雨が嘘かのように午後はカラッと晴れた。
なんとも都合の悪いことに5時間目に体育がある。
雨上がりの炎天下で体育なんてしたらぶっ倒れてしまうだろう。俺は今日が命日と悟った。すると横から暑苦しい太陽のような奴が一人、ヌッと現れた。
「いやあ!晴れた晴れた!よかったなあ若人よ!」
「全然嬉しくないけどね」
若人に突っ込むべきか、嬉しくない天気を讃えてることに突っ込むべきか迷って後者を選んだ。しかし前者の方が良かったかもしれない。なぜならそいつは俺が指導するべき学生だからだ。
教育実習の一環でこの学校に赴任してきておよそ半年。元来運動が得意でプロを目指していたこともあり、大学ではスポーツ推薦で入学した。学士課程の単位取得の一つに教員免許の課程があったから、せっかくだし教員免許もついでに取っておこうとプログラムに参加したのが運の尽き。
教育実習は想像していたよりもハードで、高校生の頃と比べるとやはり体力は落ちていた。
あんなに好きだった体育の授業が段々憂鬱になっていった。
「先生がそんなんでどうする。俺は全部の授業が体育でもいいくらいだ」
こんな舐めた態度を取っているのは最近やたら絡んでくる男子生徒だ。一応担任業務も見学できるので、それでチラッと覗いたクラスの一人。
俺の何が気に入ったのか分からないが、こうやって昼休みでも体育教官室に遊びにくる。
なかなかの脳筋野郎で最近では珍しい熱血タイプだから先生からの人気は高い。しかし本人は生きづらいだろうなあ。Z世代前半の俺ですら、ウザいと思うのだから、同年代のクラスメイトたちはこいつを受け入れきれないだろう。
「お前は体育よりももっと国語とか勉強して情緒を学んだ方がいいぞ」
「ん?情緒はあるぞ。こうやって晴れた空を見ると清々しい気分になってなんとも言えない。」
「じゃあ敬語を学び直せ」
俺は少しうんざりして授業の準備を始めた。
「先生はなんで体育教師になろうと思ったんだ?」
ふと脳筋野郎が真面目な質問をした。
「なんでって」
咄嗟に都合のいい理由が出てこない自分が情けないが、単純なことだ。単位と教員免許が欲しかったからだ。別に学生たちの体躯発達に貢献したいとか、身体能力向上に貢献したいとか、高尚な動機はさらさらない。
「先生はなんかのプロだったのか?」
脳筋野郎は痛い質問をしてきた。
「まあ…。プロになろうとしたんだよ。でも怪我をしたから諦めた」
「へえ!なんの競技だ?」
「器械体操だな」
「ほーん」
脳筋野郎は急に興味を失ったようだ。まあこいつのことだから、スポーツと言えば野球かサッカーしか分からないんだろう。
プロになる気満々で入学したのに俺は苦手な炎天下の下で学生に体育を指導している。人生というのはどうなるか分からないもんだ。
「なあ先生、俺も体育教師になりたいんだよ」
珍しく真面目なトーンだった。
「プロはどうせ無理だから運動を仕事にできるなら体育教師かなって」
脳筋の割にしっかりと将来のことを考えているようだ。しかし気に食わない。
「なんでプロは無理なんだ。知ってるぞ、お前野球がなかなかうまいこと。有名な高校からスカウトも来てたくらいなのに断ってここに入学したんだろ?」
教師の間では有名な話だった。なんならこいつが入学したことで予選止まりだったこの高校が甲子園に行けるかもしれないと噂されているのだ。
「やってみなくちゃ分からん。そうやって決めつけてたらできるものもできない」
珍しく熱い俺の言葉に脳筋は驚いているようだった。
「そうだな!先生!そうするよ!俺ガチで目指してみる!」
「今からでも遅くない。がんばれ!」
「おう!まずは次の体育から気合い入れて体作るぜ!」
「あ、そうだった…次体育…」
俺は教官室から見える水たまりをみてため息をついた。水たまりはスコンと明るい青空を映していた。
「恋か、愛か、それとも」
ふと鳥の声が気になって目が覚めた。時計を見ると5時になろうかというところだ。
隣に寝ている妻はまだ寝息を立てている。俺は勢いよく起きると布団をバタバタと片付けた。
キッチンへ行って朝ごはんを作る。ほかほかの米を茶碗によそってインスタントの味噌汁を作る。
本当は出汁から作った味噌汁だと尚良いのだが、妻がめんどくさがって作らないのだ。
そしてこれも本当は自家製のものがいいのだが、スーパーで買ってきた柴漬けを手に取って食卓に座る。
新聞を開くと若者の精神障害を特集する記事が載っていた。およそ今の若者の30%が鬱やら適応障害やらなんやらで働かないそうだ。
「まったく嘆かわしい」
精神障害なんてそんなものないに決まってる。自分たちが都合のいいように作り出した病気で働かない言い訳にしているだけなのだ。
気分が落ちたり、面倒だと思うことは誰にでもある。しかしそれは根性と気の持ちようの問題であって、病気なんぞではない。
自分はなかなか昭和な男だと自負している。最近は頭が固いだの、時代遅れだの揶揄されることが多くなってきたが、自分は胸を張って昭和の男だと言える。
昭和の男はかっこいいのだ。仕事一筋、言い訳や弱音なんて吐かずひたすら汗水垂らして家族のために働く。強い信念を持って生きる様はまさに男らしいだろう。
「最近の日本は弱くなるばかりだ」
新聞を読めば読むほどイライラして机に茶碗を叩きつけた。
今日は休日だ。こんなイライラした気持ちで過ごすのはもったいない。せっかくだからランニングでもして気分転換をしよう。
昔買ったウェアがあるはずだが、どこにしまったのか。タンスの中を調べても見つからない。
妻がまたどこかへやったのだろう。まったく。
「なあ、俺の昔買ったランニングウェアってどこにあるんだ?」
足元で寝ている妻に声をかける。
妻は冬眠明けの芋虫のようにくねくねと伸びをした。
寝ぼけているのかなかなか答えない。
その様子がじれったくて声を荒らげる。
「おい!起きろって!どうせお前が引っ掻き回したんだろ?」
妻はうるさそうに布団を被り直した。
また始まったよ…と小声でぶつぶつ言っているのが聞こえる。
「ウェア?そんなもんとっくに捨てましたよ。20年以上前に一回着てそのまま着なかったから捨てました」
俺はカッとなった。勝手に人のものを捨てるなんて言語道断だ。ものを大切にしないのも気に入らない。
怒鳴り散らしたくなったが、朝から喧嘩などしたくない。俺は諦めてTシャツを来て外に出た。
妻とは見合い結婚だった。それほど美人というわけではなかったが大人しくて、俺より5歳若く家事もできるとのことだったので結婚した。
子供も作ったが、いつのまにか学校を卒業して、いつのまにか独り立ちして家を出ていった。子供とはいい思い出があまりない。いつもうるさそうに馬鹿にしたような顔で俺を見ていた気がする。
「お母さんよくあんなのと結婚したね」と密かに言っていたのも知っている。だからあまり子供が好きではないのだ。
妻も歳を重ねるにつれ俺に歯向かうことが多くなった。これまで散々我慢してたんです、なんて言っていたけれど、妻は夫を黙って支えるもんだろうが。
それでも俺は家族を大切にしていると胸を張って言える。一軒家を買ってやったし不自由のない暮らしを与えてやった。妻も恋愛結婚ではないものの、愛しているし一般的で幸せな夫婦だろう。最近喧嘩は多いが怒鳴ればすぐに終わる。至って普通だ。
しかし20年着なかったからといって人のウェアを捨てる奴がいるか。やはりイライラするから帰ったら叱ろう。
そして俺は誰もいない家に帰宅することになった。
テーブルには離婚届が置かれていた。
「約束だよ」
「お姉さんちょっといいですか?」
背後から話しかけられて咄嗟に立ち止まった。
同世代くらいだろうか。私より少し高いくらいの男が自信ありげに笑った。
「お姉さん綺麗ですね!モデルさんとかですか?」
なに?ナンパ?私は眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな表情を作った。
こっちは仕事が早く終わって買い物できてルンルンなんだよ。水差すんじゃねえよ。
「ナンパじゃない!ナンパじゃない!キャバクラとかのスカウトでもない!」
男がこちらの心を読んだかのように慌てて行く手を遮った。
「おれ、地下アイドルなんすよ!よかったらお姉さんにライブ来てほしいなあって」
あーライブのビラ配りか。改めて見ると男は確かに整った顔立ちをしていた。多少メイクしているのが分かるが、パッチリとした目にスッとした鼻筋、上向きの唇など、女の子が欲しがるパーツを全て持っていた。
「ほら、ここで今週末デビューライブやるからさ見に来てよ」
そう言って男はビラを差し出した。
昔ビラ配りのバイトをしたことから、差し出したビラが無視される辛さはよく知っている。
つい受け取ってしまった。
「絶対来てね!約束だよ!」
子犬のような無邪気さで、潔く離れていった。
まあ悪い人ではなさそうだし暇だし、行ってみてもいいかな。
そこからライブハウスに通い出して1ヶ月になる。
彼の所属するアイドルグループ"Bad Bunny Boys"はこの春に結成したばかりの5人組で、そのセンターで踊っているのが、この前駅で声をかけてきた燈埜(とうや)だ。
名前の通り悪いウサギがコンセプトのようで、メンバー全員赤い首輪をして、観客に向かってワイルドに「俺をちゃんと飼い慣らしてくれよ」なんてセリフを吐く。
初めてライブに行った日は観客もたった数人で学校のレクリエーションみたいな規模感だったのに、今ではライブハウスを埋め尽くすほどの女の子がキンブレを振り回している。
やはりセンターの燈埜は人気のようで、ずっと燈埜の名前が叫ばれている。
その度に私の心は穏やかではない。
私は、駅で燈埜から直接声をかけられてたった数人しかいなかったデビューライブまで見たのだ。多少なりとも燈埜から認知されて、ここまで育てたのは私と言ってもいいくらいなのに、最近知ったポッと出の女が気安く名前呼ぶんじゃねえよ。
ライブの後は特典会がある。
メンバーとチェキを撮ったり制限時間付きでトークができるのだ。チェキ1枚1000円で1分間のトーク付き。私は毎回上限の1万円分のチェキを買う。つまり10分間燈埜と話ができるのだ。
「涼子〜!いつも来てくれてありがとう!」
ステージに行くとパイプ椅子に座った燈埜が手を広げ迎えてくれる。
私の名前はとうに教えており、燈埜は毎回特典会で呼んでくれる。ついつい笑顔になりそうになるが、少しだけ拗ねたような表情を作る。燈埜が心配してくれるからだ。
「どしたん?涼子?なんかあった?」
「今日、最前の子ばっかりファンサしてなかった?固定ファンサなかったんだけど」
「そんなことないよ!ちゃんと涼子に投げキッスしたよ」
「そんなの分かんない。最前の子には首輪触らせてたじゃん。そういうのやめてよね」
「ごめんね?涼子。機嫌直して」
燈埜が私の頬にキスをした。後列に並ぶ女の子から悲鳴が聞こえる。
「今日もグッズ買ってくれるんでしょ?100万ポイントまでもうすぐだもんね」
燈埜のグループはポイント制を導入していてチェキやグッズなど購入金額によってポイントが貯まる。100万ポイントに到達するとメンバーとデートができる特典があるのだ。
「もちろん。今日は10万しか手持ちないから次で達成する」
「やったー!デートどこに行く?」
まるで彼氏のようなセリフにとうとう口角が上がる。
「遊園地行きたいの」
「いいね!俺も行きたい!約束だよ!」
燈埜が顔を覗き込んで小指を差し出す。その骨ばった長い小指に私も小指を絡めた。
しかし次の日SNSで燈埜がグループを脱退することが知らされた。
未成年のファンへの不同意わいせつ罪で逮捕されたとのことだった。
ポイントカードが埋まるまであと5万ポイントだった。