「約束だよ」
「お姉さんちょっといいですか?」
背後から話しかけられて咄嗟に立ち止まった。
同世代くらいだろうか。私より少し高いくらいの男が自信ありげに笑った。
「お姉さん綺麗ですね!モデルさんとかですか?」
なに?ナンパ?私は眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな表情を作った。
こっちは仕事が早く終わって買い物できてルンルンなんだよ。水差すんじゃねえよ。
「ナンパじゃない!ナンパじゃない!キャバクラとかのスカウトでもない!」
男がこちらの心を読んだかのように慌てて行く手を遮った。
「おれ、地下アイドルなんすよ!よかったらお姉さんにライブ来てほしいなあって」
あーライブのビラ配りか。改めて見ると男は確かに整った顔立ちをしていた。多少メイクしているのが分かるが、パッチリとした目にスッとした鼻筋、上向きの唇など、女の子が欲しがるパーツを全て持っていた。
「ほら、ここで今週末デビューライブやるからさ見に来てよ」
そう言って男はビラを差し出した。
昔ビラ配りのバイトをしたことから、差し出したビラが無視される辛さはよく知っている。
つい受け取ってしまった。
「絶対来てね!約束だよ!」
子犬のような無邪気さで、潔く離れていった。
まあ悪い人ではなさそうだし暇だし、行ってみてもいいかな。
そこからライブハウスに通い出して1ヶ月になる。
彼の所属するアイドルグループ"Bad Bunny Boys"はこの春に結成したばかりの5人組で、そのセンターで踊っているのが、この前駅で声をかけてきた燈埜(とうや)だ。
名前の通り悪いウサギがコンセプトのようで、メンバー全員赤い首輪をして、観客に向かってワイルドに「俺をちゃんと飼い慣らしてくれよ」なんてセリフを吐く。
初めてライブに行った日は観客もたった数人で学校のレクリエーションみたいな規模感だったのに、今ではライブハウスを埋め尽くすほどの女の子がキンブレを振り回している。
やはりセンターの燈埜は人気のようで、ずっと燈埜の名前が叫ばれている。
その度に私の心は穏やかではない。
私は、駅で燈埜から直接声をかけられてたった数人しかいなかったデビューライブまで見たのだ。多少なりとも燈埜から認知されて、ここまで育てたのは私と言ってもいいくらいなのに、最近知ったポッと出の女が気安く名前呼ぶんじゃねえよ。
ライブの後は特典会がある。
メンバーとチェキを撮ったり制限時間付きでトークができるのだ。チェキ1枚1000円で1分間のトーク付き。私は毎回上限の1万円分のチェキを買う。つまり10分間燈埜と話ができるのだ。
「涼子〜!いつも来てくれてありがとう!」
ステージに行くとパイプ椅子に座った燈埜が手を広げ迎えてくれる。
私の名前はとうに教えており、燈埜は毎回特典会で呼んでくれる。ついつい笑顔になりそうになるが、少しだけ拗ねたような表情を作る。燈埜が心配してくれるからだ。
「どしたん?涼子?なんかあった?」
「今日、最前の子ばっかりファンサしてなかった?固定ファンサなかったんだけど」
「そんなことないよ!ちゃんと涼子に投げキッスしたよ」
「そんなの分かんない。最前の子には首輪触らせてたじゃん。そういうのやめてよね」
「ごめんね?涼子。機嫌直して」
燈埜が私の頬にキスをした。後列に並ぶ女の子から悲鳴が聞こえる。
「今日もグッズ買ってくれるんでしょ?100万ポイントまでもうすぐだもんね」
燈埜のグループはポイント制を導入していてチェキやグッズなど購入金額によってポイントが貯まる。100万ポイントに到達するとメンバーとデートができる特典があるのだ。
「もちろん。今日は10万しか手持ちないから次で達成する」
「やったー!デートどこに行く?」
まるで彼氏のようなセリフにとうとう口角が上がる。
「遊園地行きたいの」
「いいね!俺も行きたい!約束だよ!」
燈埜が顔を覗き込んで小指を差し出す。その骨ばった長い小指に私も小指を絡めた。
しかし次の日SNSで燈埜がグループを脱退することが知らされた。
未成年のファンへの不同意わいせつ罪で逮捕されたとのことだった。
ポイントカードが埋まるまであと5万ポイントだった。
「傘の中の秘密」
5時間目の授業で雨が降り出した。
予報だと降水確率40%って言ってたのに。
大きい傘持ってきてないな。折りたたみあったかな。
ぼんやりと窓を見ると自分と目が合った。
毎朝丁寧に巻いた前髪はペシャンコでバレないように引いたアイラインもにじんでいる。ニキビ隠しのコンシーラーもよれている気がする。
慌てて目をこする。いつからメイク崩れていたんだろう。こんな恥ずかしい顔見られたら恥ずかしくて死ねる。
もう一度そっと窓を見る。
すると今度は前の席に座っている友達と目が合った。
彼女は小さく笑うと先生にバレないようにそっとピースした。
私も静かに笑ってピースを返した。
彼女はこのクラスの学級委員で成績も優秀だ。真面目なイメージがあるのに授業中にそんなことをするなんて少し驚きだが、意外な一面を見れて嬉しい。
彼女を知ったのは高校1年の春。
入学式の新入生代表の挨拶で壇上に上がったので少しだけ話題になったのだ。県内でも指折りの進学校だったので負けず嫌いの同級生たちがこぞって彼女に注目した。
どうやら地元のマンモス中学校出身で、かねてから神童と噂されていたほどらしい。
そして知的でクールな見た目から男子からの人気もそこそこ高かったということまで明らかになった。
私もその噂は知っていたが2年で同じクラスになってからその噂は本当だったと確信した。
たまたま出席番号が近く隣の席だった彼女は臆することなく私に話しかけてきた。
「お隣じゃん!よろしくね」
大人しくてツンツンした子を想像していたもんだから少し驚いた。でも話していくうちにお笑いが好きなこと、めんどくさがり屋なこと、課題もギリギリまでやらないことなど私と変わらない普通の子だと分かった。
何より彼女は私にとことん優しかった。
私は彼女と違って運動も勉強もついていけない側の人間だったけれど、見捨てたりしなかった。体育では必ずペアになってくれるし、テストが近いと勉強を教えてくれたりした。
そして私が好きだと言ったキャラクターのキーホルダーやガチャガチャを翌日にくれたりした。
「なんか気になってガチャガチャ回したら当たったからさ」
なんて少し照れくさそうに言っていた。
私はそんな彼女が大好きだ。
クラスメイトから「カップルかよー」といじられるくらいずっと一緒で、持ち物もお揃いにした。
下校時間になり、入り口で鞄をあさる。
やはり折りたたみ傘がない。昨日まであった気がするんだけどな。
「傘ないの?入れてあげよっか?」
彼女がニコニコと覗き込む。
「なんであんたと相合傘しなくちゃいけないのよー」
「よーし、濡れて帰れ!」
彼女と私の笑い声が混じり合う。
「すみません!入れてください」
しゃーなしだからね?と笑いながら彼女が傘を広げる。途端に彼女のシャンプーの香りがフワッと香った。
傘に入ると彼女の長い髪が首をくすぐる。そしてわずかな空気を介して彼女の体温が伝わってくる。
二の腕と二の腕が触れる。ふにっとした柔らかな感触になぜか罪悪感が湧き起こる。
「なんか静かになったけどどうした?」
彼女はこちらを覗き込んだ。目尻が落ちている。
私は前髪を押さえて目元を隠した。
「なんでもないけど?」
次の日の放課後、机の中に折りたたみが入っているのを発見した。少しだけ彼女の匂いがした。
「雨上がり」
こんな地下でも風は吹く。蝋燭の火がふっと揺れた。
ツナ缶をつつきながら弟は船を漕いでいる。彼が勢いよく頭を落としたせいで風が発生したのだ。私はつい息を漏らして弟をゆっくりと横に寝かせた。
もうすぐ5歳なのに体は小さい。十分な栄養がないからというのは分かっているが、食べさせてやれるものがない。
ツナ缶があるだけまだマシな方なのだ。南の方は食糧が全くなくて、湧水で洗った雑草をぐちゃぐちゃにになるまで煮て食べているらしい。
どれもこれも急に降ってきた極度の酸性雨のせいだ。
建物は全て溶かされ、家畜や魚も死んでしまった。水も高濃度の酸性でまともに飲めず、人類は滅亡の危機に追いやられた。
人類は避難場所として地下にシェルターを作り生き残った人間が集まった。
世界各地でそのような動きがあり、地下シェルターは点在している。
それらをつなぐために地下通路をつなげる。それこそ私が今やらなければいけない仕事だ。
地下通路を通せば他のシェルターと交易ができる。
また、今世界がどうなっているか情報も手に入れられる。
地上にいた頃は建設業の駆け出しの現場監督をやっていた。今のチームは私を頼りにして結成されたものだからしっかりしないといけない。
幼い弟のそばにいてやれないのは辛いが今は頑張るしかない。
夕食は必ず弟と食べることにしている。
シェルター内はいくつかの個室に分かれていて、私たちはその一つを使っている。本当なら2,3の家族が一つの部屋を使うのだが地下通路チームのリーダーだからという理由で1つの部屋が与えられた。
「今日はまたうーちゃんのところに行ってたのか」
弟は眠そうな顔で頷いた。
うーちゃんとはシェルターの奥底でうずくまる男のことだ。いつシェルターに来たのか分からないが、ずっと動かず喋りもしないからだれも気味悪がって近づかない。しかし弟はなぜか彼に懐いている。
「今日はうーちゃんに算数と理科を教えてもらったよ。うーちゃんすごいんだよ。色んなこと知ってるの」
弟は夕食のたびにうーちゃんとの妄想話をしていた。同年代の遊び相手がいないからいい人形代わりなのだろう。弟はまだ目も半分しか開いていない赤ん坊の頃に私がおぶってこのシェルターにやってきたのだ。こんな閉鎖的で異常な環境で育てば、死体のような人間を遊び相手にするのもおかしくない。
危険な男ではないようだし、勉強のことはよく分からないが弟の言う数式もそれっぽい。当分は様子を見ておこう。
事件はある日の夜に起こった。
シェルターの中でずっとうずくまっていた一人の男、うーちゃんが地上に出て行ってしまったのだ。
「結局なんだったんでしょ、あの人」
「きっと頭がおかしかったのよ」
「気味が悪い奴だったぜ」
「この前無くした指輪もきっとあの人が盗んだのよ」
「あり得るわね。誰でも彼でも歓迎しちゃいけないのよ」
「それにしてもいなくなってくれて良かったわね」
地上に出ればどんな結末が待っているかなんて想像したらすぐに分かるだろう。しかし人々はそれには触れないで、うーちゃんがどれだけ気持ち悪かったか、どれだけ架空の迷惑をかけられたかを噂しあっていた。
弟は意外にも悲しまなかった。やはり人形代わりくらいにしか思ってなかったのだろう。
俺としては口が減って都合がいい。
きっとすぐに死んでしまっただろうが、最初からイカれたやつだったから、こんな状況じゃいずれすぐに死ぬ運命だっただろう。
次の日、永遠に振り続けていた酸性雨がピタリと止んだ。
シェルター内にあんだけ響いていた雨の音がしなくなってハッチを開けてみると何年振りかの青空が見えた。
「おい!みんな外に出られるぞ!」
足元はぬかるみ水たまりだらけで危険だったが、久しぶりの青空はとても高かった。
「それにしてもなんで急に…」
そもそも突然高濃度の酸性雨が降ってきたのも不思議だったが、あれだけ激しく降っていた雨が急に止んだのも不思議だ。
「うーちゃんだよ」
弟がつぶやいた。
「え?」
「なんかうーちゃんが作った機械が暴走しちゃって悪いガスをたくさん吹き出すようになっちゃったから、雨がいっぱい降るようになったってうーちゃん言ってたよ。昨日はそれを止めに行くって言ってた。もう会えないかもしれないけど、僕に空を知ってほしいって言ってた」
「は?」
兄ちゃん、こんなに高い天井初めて見たよ。
空って綺麗だね。
「勝ち負けなんて」
背中に冷たい汗が流れる。奥歯が砕けてしまいそうなほどギュッと噛み締めて、震えるのをなんとかこらえる。
目の前に座っている男が口を開く。
「こうやって遊ぶのも久しぶりだな。坊主。お前がまだ20代の若造だった頃ぶりか?あの頃は親父のためならなんだってやる!と意気込んでたのに」
男は目を細めて俺の視線をとらえる。
「あんなに可愛がってやったのに、恩を仇で返すとはこのことよ。なあ?」
情けないがまさに蛇に睨まれたカエル。このままぴょんっと飛び上がってしまいそうなくらい正座する足が震えている。
しかし逃げることはできない。
腕っぷしの強い組の男たちがぐるりと囲っているからだ。何十人と男がひしめいているのに物音一つ、声一つあげない。
ヤクザの鷲尾組はそうやってひっそりと忍び寄り、全てを闇に葬り去る。それがこの組のやり方だった。
まるで映画に出てくるスパイ組織のように、いろんな業界に出入りをして依頼があれば殺し、薬や女で儲ける。そのスパイたちを監督しているのが目の前に座っている親父だ。
半グレで金に困っていた10代のときに先輩からこの組の下請けの仕事を紹介してもらった。
その時の縁で親父に拾ってもらい、今に至る。当時はこの組の暗躍がとても洗練されていてかっこいいとまで思っていたから、親父に忠誠を誓い、この組で一番の出世頭になってやると意気込んでいた。それから幾歳が過ぎて、仕事にも慣れて来た頃だ。
「坊主、この間、新しく買い取ったキャバクラの店があるだろう。そこの徴収をやってくれ」
キャバクラのみかじめの徴収は先輩について行くだけだったが、とうとう一人前として店を任された。
嬉々として、しかし舐められないようにいつも以上に気合を入れて行ったが、そこで彼女と出会ったのだ。
「これ誰だ?」
オーナーがハゲ頭をペコペコして答える。
「最近入った新人でして、17歳になったばかりです。なかなかべっぴんでしょ?もう彼女だけが頼りでして、これから客も増やしていこうとしてるところなのでみかじめは当分待っていただけますか?」
ペラペラと喋るオーナーを半分無視して、俺は彼女に毎日会いに行った。
そしてとうとう彼女の妊娠が分かった。
「きちんと籍を入れよう。子供のためにも足は洗う」
彼女は嬉しさと不安が入り混じった目で俺を見た。
「親父さんが許してくれるわけがないよ。あんたがいなくなったら私どうしたらいいの」
しかし俺は親父への期待を捨てきれなかった。今考えたらそのまま夜逃げでもすりゃ良かったのだ。
話を聞いた親父はこう言った。
「俺に花札で勝ったら抜けることを許してやろう。負けたらお前ら丸ごと海だ。当たり前だろう?お前は店の商品に手をつけて、女も使い物にならないんだから。お前も女も負けたら用済みだ」
少しは親父に可愛がられているという自負があった。しかし、何百人といる組員なんて一人くらいいなくなっても痛くも痒くもないのだ。
そして俺は親父の前に座って花札を配られるのを待っている。
ルールはこいこいだ。
「ガキくせえお前にはこれがピッタリ」だそうだ。
すぐに勝負が決まってしまう他のルールとは違ってじわじわと苦しめる、親父の好きなやり方だ。
場に8枚、手札に8枚。1回勝負で点数の大きかった方の勝ち。
手札は菊が1枚の桜の光札が一枚あった。悪くない。
場にはカス札と菊の盃。頼む。親にしてくれ。
「おい、坊主。せめてものの餞だ。親はお前でいいぞ」
俺はパッと顔を上げた。ニヤニヤした親父の顔に向かって「ありがとうございます!」と勢いよく頭を下げる。
俺は菊の盃を取った。これで桜のカスでも短冊札でもいいから出てくれれば、花見で一杯ができあがる。
親父がすすきに月を取る。点数の大きな札に心がザワザワする。いやいや菊の盃はこちらのものなのだから三光でもやられない限り大丈夫だ。俺は桜さえ出れば勝てるのだから。
しかし待てど暮らせどカス札しか取れない。桜は場に一枚も出ない。
親父が桐に鳳凰を取る。まずい三光まであと1枚だ。
しかしこちらもカス札が9枚揃っている。俺がかすを10枚揃えるか親父が松に鶴を取るかどちらが先か。
そう思った時親父が牡丹に蝶を取り、審判が「猪鹿蝶!」と叫んだ。そして続いて「たね!」
絶望した。
光札しか見えていなかった。俺は手札をバラバラと取り落とした。
「おい坊主。桜が散ったぞ」
ハッハッハッと親父が腹を抱えて笑った。俺は組員に担がれて連れて行かれた。
「元々桜なんてなかったんだよ」組員が笑いながら言った。勝ち負けなんて最初から決まっていたのだ。
「まだ続く物語」
目を開ける。
午前8時。
いつもの家の天井だった。3年前新しく始まる生活に心を躍らせて、選んだ築20年のアパート。
当時はこの田舎の土地で築20年なんて綺麗な方なんていう不動産屋の言葉を信じていたけど、今見てみると天井には黒いシミがうっすら見えている。
カビ?もしかして虫の卵?いや考えないようにしよう。ますます気が滅入ってしまう。
枕元に置いたスマホにはおよそ10件ほどの通知。やっぱり職場の人にプライベートの連絡先教えなければよかった。
別にそれくらいどうでもいいと思っていたけど、お節介なおばさんとおじさんは頻繁に連絡してくる。
こうやって一人でいたい時も放っておいてくれない。
「風邪長引いてるの?何か必要なものはない?」
「明日には来れそう?」
「体調崩してる時に悪いんだけど、今仕事が立て込んでて来週には出社してもらいたいんだけど」
「心配だから返事ください」
お前は私のお母さんかよ。しかもどさくさに紛れて早く出社しろなんて圧かけてきてるし。
私はうんざりしてスマホの電源を切った。
就職氷河期で就活がうまくいかず、地方の機械メーカーに入社した。数百人規模の会社だが、温かそうな社風だと思えた。
とにかく新しい環境でキャリアを積んでバリバリ働きたいと意欲に溢れていた。
しかし田舎特有の距離の近さ、仕事から地続きのプライベート、社員の少なさが原因の膨大な残業時間。
きっとこれらが全て悪いわけではない。人によってはアットホームに感じる環境だろうし、仕事しかしたくない人にとってはうってつけの会社かもしれない。
しかし実際に働いてみると私は働くことよりも友達や家族と長く過ごしたいと思う人間だったし、仕事とプライベートはハッキリと分けないと切り替えができないタイプだった。
それでも自分が選んだ道だから、職場の人はみんないい人だから、と自分に言い聞かせて働いて来た。
結局そのせいでこうやって3日間ベッドから一歩も動けない廃人が出来上がったのだ。
仮病を使って会社を休んで1週間になる。さすがにこれ以上嘘もつけない。
今更戻ったところで前と同じようには働けない。もしかしたら仕事を押し付けられて恨んでいる人もいるかもしれない。リストラ要員のリストに名前が入っているかもしれない。
そしたら私のキャリアはどうなる?たくさんお金を稼いで旅行や買い物をたくさんしたかったのに。
心配かけてしまうから親にも言えない。うまくいっている友達にも相談できない。
暗い考えが沸騰した水の泡のようにボコボコと弾ける。
流石にお腹がなった。もう何日も何も食べていないから当たり前か。しかし冷蔵庫のものは全て賞味期限が切れているしスーパーにも行けない。
残された道は一つしか思いつかなかった。
ベランダの手すりはいつも以上にひんやりとしていた。足の裏で感じているからかもしれない。
パジャマは薄すぎて、直接裸に風を感じているようだ。
もう全部めんどくさい。お腹が減るのも悩むのも。
全ての人の記憶から私が消えて欲しい。
目を瞑る。
途端にバランスを崩してどちらが上か下か分からなくなる。
風が一層強くなった。
フカフカのクッションに包まれているようだ。
今度こそしっかりと眠れる。
目を開ける。
午前8時。
電源を切ったはずのスマホが震えた。
画面には「ママ」の文字。
私は初めて泣きながら電話に出た。
死んだはずなのに、続いてる。
物語はまだ続くようだ。