香草

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「勝ち負けなんて」

背中に冷たい汗が流れる。奥歯が砕けてしまいそうなほどギュッと噛み締めて、震えるのをなんとかこらえる。
目の前に座っている男が口を開く。
「こうやって遊ぶのも久しぶりだな。坊主。お前がまだ20代の若造だった頃ぶりか?あの頃は親父のためならなんだってやる!と意気込んでたのに」
男は目を細めて俺の視線をとらえる。
「あんなに可愛がってやったのに、恩を仇で返すとはこのことよ。なあ?」
情けないがまさに蛇に睨まれたカエル。このままぴょんっと飛び上がってしまいそうなくらい正座する足が震えている。
しかし逃げることはできない。
腕っぷしの強い組の男たちがぐるりと囲っているからだ。何十人と男がひしめいているのに物音一つ、声一つあげない。
ヤクザの鷲尾組はそうやってひっそりと忍び寄り、全てを闇に葬り去る。それがこの組のやり方だった。
まるで映画に出てくるスパイ組織のように、いろんな業界に出入りをして依頼があれば殺し、薬や女で儲ける。そのスパイたちを監督しているのが目の前に座っている親父だ。

半グレで金に困っていた10代のときに先輩からこの組の下請けの仕事を紹介してもらった。
その時の縁で親父に拾ってもらい、今に至る。当時はこの組の暗躍がとても洗練されていてかっこいいとまで思っていたから、親父に忠誠を誓い、この組で一番の出世頭になってやると意気込んでいた。それから幾歳が過ぎて、仕事にも慣れて来た頃だ。
「坊主、この間、新しく買い取ったキャバクラの店があるだろう。そこの徴収をやってくれ」
キャバクラのみかじめの徴収は先輩について行くだけだったが、とうとう一人前として店を任された。
嬉々として、しかし舐められないようにいつも以上に気合を入れて行ったが、そこで彼女と出会ったのだ。
「これ誰だ?」
オーナーがハゲ頭をペコペコして答える。
「最近入った新人でして、17歳になったばかりです。なかなかべっぴんでしょ?もう彼女だけが頼りでして、これから客も増やしていこうとしてるところなのでみかじめは当分待っていただけますか?」
ペラペラと喋るオーナーを半分無視して、俺は彼女に毎日会いに行った。

そしてとうとう彼女の妊娠が分かった。
「きちんと籍を入れよう。子供のためにも足は洗う」
彼女は嬉しさと不安が入り混じった目で俺を見た。
「親父さんが許してくれるわけがないよ。あんたがいなくなったら私どうしたらいいの」
しかし俺は親父への期待を捨てきれなかった。今考えたらそのまま夜逃げでもすりゃ良かったのだ。
話を聞いた親父はこう言った。
「俺に花札で勝ったら抜けることを許してやろう。負けたらお前ら丸ごと海だ。当たり前だろう?お前は店の商品に手をつけて、女も使い物にならないんだから。お前も女も負けたら用済みだ」
少しは親父に可愛がられているという自負があった。しかし、何百人といる組員なんて一人くらいいなくなっても痛くも痒くもないのだ。
そして俺は親父の前に座って花札を配られるのを待っている。
ルールはこいこいだ。
「ガキくせえお前にはこれがピッタリ」だそうだ。
すぐに勝負が決まってしまう他のルールとは違ってじわじわと苦しめる、親父の好きなやり方だ。
場に8枚、手札に8枚。1回勝負で点数の大きかった方の勝ち。

手札は菊が1枚の桜の光札が一枚あった。悪くない。
場にはカス札と菊の盃。頼む。親にしてくれ。
「おい、坊主。せめてものの餞だ。親はお前でいいぞ」
俺はパッと顔を上げた。ニヤニヤした親父の顔に向かって「ありがとうございます!」と勢いよく頭を下げる。
俺は菊の盃を取った。これで桜のカスでも短冊札でもいいから出てくれれば、花見で一杯ができあがる。
親父がすすきに月を取る。点数の大きな札に心がザワザワする。いやいや菊の盃はこちらのものなのだから三光でもやられない限り大丈夫だ。俺は桜さえ出れば勝てるのだから。
しかし待てど暮らせどカス札しか取れない。桜は場に一枚も出ない。
親父が桐に鳳凰を取る。まずい三光まであと1枚だ。
しかしこちらもカス札が9枚揃っている。俺がかすを10枚揃えるか親父が松に鶴を取るかどちらが先か。
そう思った時親父が牡丹に蝶を取り、審判が「猪鹿蝶!」と叫んだ。そして続いて「たね!」
絶望した。
光札しか見えていなかった。俺は手札をバラバラと取り落とした。
「おい坊主。桜が散ったぞ」
ハッハッハッと親父が腹を抱えて笑った。俺は組員に担がれて連れて行かれた。
「元々桜なんてなかったんだよ」組員が笑いながら言った。勝ち負けなんて最初から決まっていたのだ。

6/1/2025, 11:06:34 AM