「雨上がり」
こんな地下でも風は吹く。蝋燭の火がふっと揺れた。
ツナ缶をつつきながら弟は船を漕いでいる。彼が勢いよく頭を落としたせいで風が発生したのだ。私はつい息を漏らして弟をゆっくりと横に寝かせた。
もうすぐ5歳なのに体は小さい。十分な栄養がないからというのは分かっているが、食べさせてやれるものがない。
ツナ缶があるだけまだマシな方なのだ。南の方は食糧が全くなくて、湧水で洗った雑草をぐちゃぐちゃにになるまで煮て食べているらしい。
どれもこれも急に降ってきた極度の酸性雨のせいだ。
建物は全て溶かされ、家畜や魚も死んでしまった。水も高濃度の酸性でまともに飲めず、人類は滅亡の危機に追いやられた。
人類は避難場所として地下にシェルターを作り生き残った人間が集まった。
世界各地でそのような動きがあり、地下シェルターは点在している。
それらをつなぐために地下通路をつなげる。それこそ私が今やらなければいけない仕事だ。
地下通路を通せば他のシェルターと交易ができる。
また、今世界がどうなっているか情報も手に入れられる。
地上にいた頃は建設業の駆け出しの現場監督をやっていた。今のチームは私を頼りにして結成されたものだからしっかりしないといけない。
幼い弟のそばにいてやれないのは辛いが今は頑張るしかない。
夕食は必ず弟と食べることにしている。
シェルター内はいくつかの個室に分かれていて、私たちはその一つを使っている。本当なら2,3の家族が一つの部屋を使うのだが地下通路チームのリーダーだからという理由で1つの部屋が与えられた。
「今日はまたうーちゃんのところに行ってたのか」
弟は眠そうな顔で頷いた。
うーちゃんとはシェルターの奥底でうずくまる男のことだ。いつシェルターに来たのか分からないが、ずっと動かず喋りもしないからだれも気味悪がって近づかない。しかし弟はなぜか彼に懐いている。
「今日はうーちゃんに算数と理科を教えてもらったよ。うーちゃんすごいんだよ。色んなこと知ってるの」
弟は夕食のたびにうーちゃんとの妄想話をしていた。同年代の遊び相手がいないからいい人形代わりなのだろう。弟はまだ目も半分しか開いていない赤ん坊の頃に私がおぶってこのシェルターにやってきたのだ。こんな閉鎖的で異常な環境で育てば、死体のような人間を遊び相手にするのもおかしくない。
危険な男ではないようだし、勉強のことはよく分からないが弟の言う数式もそれっぽい。当分は様子を見ておこう。
事件はある日の夜に起こった。
シェルターの中でずっとうずくまっていた一人の男、うーちゃんが地上に出て行ってしまったのだ。
「結局なんだったんでしょ、あの人」
「きっと頭がおかしかったのよ」
「気味が悪い奴だったぜ」
「この前無くした指輪もきっとあの人が盗んだのよ」
「あり得るわね。誰でも彼でも歓迎しちゃいけないのよ」
「それにしてもいなくなってくれて良かったわね」
地上に出ればどんな結末が待っているかなんて想像したらすぐに分かるだろう。しかし人々はそれには触れないで、うーちゃんがどれだけ気持ち悪かったか、どれだけ架空の迷惑をかけられたかを噂しあっていた。
弟は意外にも悲しまなかった。やはり人形代わりくらいにしか思ってなかったのだろう。
俺としては口が減って都合がいい。
きっとすぐに死んでしまっただろうが、最初からイカれたやつだったから、こんな状況じゃいずれすぐに死ぬ運命だっただろう。
次の日、永遠に振り続けていた酸性雨がピタリと止んだ。
シェルター内にあんだけ響いていた雨の音がしなくなってハッチを開けてみると何年振りかの青空が見えた。
「おい!みんな外に出られるぞ!」
足元はぬかるみ水たまりだらけで危険だったが、久しぶりの青空はとても高かった。
「それにしてもなんで急に…」
そもそも突然高濃度の酸性雨が降ってきたのも不思議だったが、あれだけ激しく降っていた雨が急に止んだのも不思議だ。
「うーちゃんだよ」
弟がつぶやいた。
「え?」
「なんかうーちゃんが作った機械が暴走しちゃって悪いガスをたくさん吹き出すようになっちゃったから、雨がいっぱい降るようになったってうーちゃん言ってたよ。昨日はそれを止めに行くって言ってた。もう会えないかもしれないけど、僕に空を知ってほしいって言ってた」
「は?」
兄ちゃん、こんなに高い天井初めて見たよ。
空って綺麗だね。
6/2/2025, 11:06:34 AM