「物語の始まり」
俺は台所で牛乳を飲んだところだった。
寝起きでカーテンも開けずにキッチンへ向かい、牛乳を飲んだ。しかし次に何をすればいいのか分からない。
なぜなら俺を作った小説家がその先を書いてくれないからだ。あ、ほら頭を抱えてる。おそらくこのキッチンから何か事件に繋げたいんだろうが、どうやって繋げたらいいのか分からないのだろう。
俺としては寝起きから牛乳を飲まされたもんだから、腹がぎゅるぎゅる鳴っている。事件より何よりも早くトイレに行くシーンを書いて欲しい。
どうやら俺は34歳の男で普段は広告代理店の営業マンらしい。ただし、それは表向きの顔で本当は裏社会の殺し屋として生きているらしい。これから俺は広告を巡って腹黒い陰謀に巻き込まれるようだが、なんせこの首謀者が頭を抱えてしまってるもんだから、もしかしたらこのまま牛乳を飲んで俺の人生は終わるのかもしれない。
こいつは小説をまともに完結させられたことがない。
いつも書き出し5行くらいで俺たちの人生を終わらせる。これまでもたくさんの犠牲者を出してきた。
車から降りただけのやつ。顔も知らないやつに話しかけられただけのやつ。電車の吊り革に捕まったまま恋に落ちただけのやつ。自分の生まれを説明されただけで何も身動きを取れないやつもいた。記憶も意識もはっきりしてるのに何もできないのはまさに生き地獄だろう。
俺より一つ前に生まれた兄弟なんて死体のまま生まれて、それっきりだ。
本当はそいつは生きていて物語の最後にひょっこり正体を現すという設定だったらしいが、結局生き返ることはなかった。
俺が本当に殺し屋なら真っ先にこいつを殺してる。
こいつの書斎は本棚に囲まれてカーテンも窓も開けていないので埃っぽい。日光に当たっていないのだろう。無精髭に囲まれた青白い顔が天井を向いている。俺が生まれてから2時間はこの様子だ。
時々、「うーん」とか「あー」とか呻いてるが面白い独り言ひとつも呟かない。
俺の腹だけが活発に動いているが、こいつはそれにも気付かない。
あ、ガムを噛み始めた。一応ガムを噛んで脳を活性化させようとしているようだ。クッチャクッチャと静かな書斎に水っぽい音が響いている。
俺が思うに殺し屋のイメージがないから筆が進まないんだろう。殺し屋が起きてから何をしてどうやって日常生活を送っているのか分からないのだ。
まあ確かに殺し屋がYouTubeでモーニングルーティンを公開してない限りは、知る由もないだろう。
でも少なくとも寝起きで牛乳は飲まないはずだぞ。そこは普通の人と同じだと思うぞ。
「あ!」
急に小説家が叫ぶと、窓ガラスが割れて目の前のコップが割れた。
誰かが俺を殺そうと銃弾を送り込んできたのだ。俺は思わずため息をつきそうになった。
まずカーテン開けてねえよ。心の中で小説家に突っ込む。閉まった窓からどうやって狙えるんだよ。赤◯秀一でも無理だぞ。
そしてまた俺は身動きが取れなくなった。
また頭を抱えてしまったのだ。
頼む。いい加減トイレに行かせてくれ。
「静かな情熱」
「あそこのでかいスタジアムがあるところだけど、昔はでけえ公園と一人の老人が住んでた家があったんだ。
当時は何もないただの原っぱだったんだんだけど、俺たちがサッカーとか野球とか遊んでたら裏の家のじいさんが、窓開けて「ガキども!うるせえぞ!」って言ってお菓子をばら撒くんだよ。これで静かにしてくれって。俺たちはそのお菓子を目当てにわざと騒がしくしたりしてた。
なんだかんだ面倒見が良くて、じいさんの機嫌がいいときは窓のそばで花見とかしてた。あの地域の子供ならあのじいさんのことを知らない奴はいないほどだった。
ただ不思議なことにだれもじいさんが誰で何をしてる人なのか知ってる奴はいなかった。大人たちはあのじいさんに近づこうとはせず、親もできるだけあのじいさんとは関わるなって嫌な顔をした。
だけど子供ってのは誰であろうと自分に構ってくれる大人が好きなもんだ。結局毎日じいさんの窓のそばでみんなお喋りしてたんだ。
それから何年かしてからあのスタジアムが建設されるっていう話になって工事が始まった。俺たちはじいさんがどこに行ってしまったのか、大人たちに聞いたけど誰も分からずじまいだった。
後から聞いた話だけどスタジアム建設の話はずっと昔からあったんだが、あのじいさんがなぜかずっと立ち退きを拒否していたらしい。
それでスタジアム建設に賛成しまくってた大人たちは頑固なじいさんのことを孤立化させようとしてたらしい。
結局じいさんは負けちまってどっかに逃げちまったみたいだけど。
今でも元気にしてるといいけどな」
そう言って従姉妹の兄ちゃんはいくらの寿司を頬張った。
正月の親戚の集まりは、大人たちの酒臭いどんちゃん騒ぎの横で子供だけの集会が行われる。子供だけと言っても兄ちゃんはすでに二十歳を超えてるけど。
兄ちゃんの昔話とか恋愛の話はやたらと面白くて聞き入ってしまう。
「そのお爺さんの名前も知らないの?」
僕は唐揚げを食べながら聞いた。名前を検索したら出てくる可能性があるんじゃないかと思ったからだ。
「知らねえなー。てか今はもう死んでるかも…」
兄ちゃんの目がまんまるく開いた。
そして次の瞬間、「あーーーー!!!」と大声を出してテレビを指さした。
「日本の魅力発掘の旅!」「世界的人気陶芸家」というテロップでにこやかに笑う老人が映し出されていた。
「こちらは先生のアトリエですか?」
レポーターらしき女性が感嘆した様子で辺りを見回す。日本らしい色彩の器や湯呑み。日本らしさを感じるものだけでなく、バラやチューリップなどを生けている洋風の花瓶なども一緒に並べられている。
「はい。本当はもっと大きなアトリエを持っていたのですが、立ち退きを余儀なくされてしまって。その時はよく近くの公園から子供たちの声が聞こえてきてそれをインスピレーションに作品を作っていました。たまにうるさいときもありましたがね」
ハハっ笑う老人。渋い男性の声でナレーションが入る。「子供たちの遊び場を守るために、アトリエを手放さなかったという。その優しさと静かな情熱が今の作品を形作っているのかもしれない。」
僕はチラリと兄ちゃんの顔を見やった。
兄ちゃんは静かに泣いていた。
「遠くの声」
仲間の最後の一人が膝をついた瞬間、おれは絶望した。寄った町や村でで一番の腕っぷしと言われる奴らを勧誘してこのダンジョンまで辿り着いた。
どんなに強い敵でも協力してなんなく倒してきた。魔王を倒すのは俺らのパーティーだ、と自信を持って立ち向かった。故郷に帰ったときの凱旋の様子まで想像していた。しかし決して慢心していたわけではない。日々鍛錬は怠らなかったし、魔王を倒すために綿密な計画まで立てていた。冒険を続ける中でパーティの絆も深まり連携も取れていた。
しかし魔王の部屋に入った瞬間に仲間がバタバタと倒れていった。あっという間の出来事だった。まるで赤子の手を捻るように魔王は攻撃を躱し、目にも止まらない速さで反撃を繰り出す。
防御する暇もなくモロにダメージをくらう。
こんなの勝てるわけない…。
魔王は仲間がいなくなった俺を静かにじっと見つめている。フードを目深にかぶっていて顔がよく見えない。
足が逃げ出したいと言わんばかりに震える。
「久しぶりだね」
腹の奥に響くような声がした。目の前の魔王から発された声ということは理解するが、真後ろや真横から聞こえてくるような感覚だ。
そしてその声には聞き覚えがあった。
「え…」
幼い頃、村の道場で一緒に練習していた幼馴染の一人。実力は互角で将来村のエースとなるのは俺かそいつかと噂されていたほどのライバル。確かにそいつの声だった。
いつか勇者として一緒にパーティを組んで魔王を討伐する、道場からの帰り道、高らかに約束し合った時のあの声。
しかしそいつの家は火事になって一家全員死んだのだ。骨も残らないほど酷い火事で、俺は親友を亡くした喪失感で道場をやめたのだ。
「お前死んだんじゃ…」
「死んでないよ。助けてもらったんだよ。当時の魔王にね。あの日、誰かが俺の家に火をつけて両親が死んだ。俺の両親はあの国ではなかなか有名な医者だったから財産目当ての強盗だったんだろう。俺はちょうど遠くの井戸に水を汲みにいっていたから火事は免れた。だけど家は炎に包まれていて帰るべき場所を失った。俺は絶望したよ。どうしたらいいか分からなかった。だけど、その時魔王に助けてもらった。ちょうど俺のように腕が立つ人間を探していたらしい。俺は魔王の下で鍛錬を積み、いつか両親を殺したやつに復讐できる日を待っていた。そんな俺に魔王が力をくれたんだ。全ての人間を殺せばいつか両親を殺した奴にも復讐ができると。」
魔王がフードを外した。記憶の中の笑顔とは程遠い血走った目が俺を見つめている。
「お前も俺を助けてくれよ。俺と村のエースの座を競い合ったお前なら百人力だよ」
声色が優しくなり、目を細める魔王。
妖しさが一層増し、恐怖で崩れ落ちてしまいそうなほど膝が震えている。
「なあ、あの時おれら約束したの覚えてないのか…?」
意図せず声が震える。
「約束?」
「ああ。いつか俺たちパーティを組んで魔王を倒そうって」
腹に力を入れて叫ぶと多少震えはおさまった。
魔王はああ、と思い出したかのように笑った。
「そんな約束忘れてたよ」
シンと手足が冷えるような感覚がした。
俺は剣を抜き魔王に向かって走り出した。
しかし魔王が纏わせている青白い光にガチッと跳ね返される。
記憶の中の遠くの声が消えていく。
「未来図」
春といっても教室はまだ寒く、窓際の席はクラスのマドンナの隣よりも人気だった。
運良くくじ引きで勝ち取った俺と親友は、さらに運良く前後の席となり毎日最高な休み時間を過ごしている。晴れの日の昼休みなんて温かい日差しも相まって意識が飛びそうになる。
その日も晴れた春の日だった。
「なあ、進路表提出した?」
親友が前の椅子に座ったままくるりとこちらに顔を向けた。1週間前担任から進路について考えるようにと用紙を配られた。
「当たり前にまだだけど?」
俺は机に突っ伏して手放しそうな意識を集中させて答えた。昨日は夜遅くまでゲームをやってたから授業中からずっと眠い。
「だよなー。期限いつまでだ?」
「今週の金曜じゃね?てか未来のこととか分かんねえし考えても無駄だよな。俺は適当に近くの大学書いとくわ」
俺は大あくびしながら言った。いくらやりたいことがあったとしても社会が変化するうちにやりたいことも変わるだろう。俺はそういう人間だ。
親友は少し黙り込むと、
「お前いつもそんな感じじゃん。もし未来が分かったらどうすんの?」と聞いた。
「そりゃ、大儲けよ。宝くじとか株とかで。で、一生働かずに過ごす」
「それいいな」
親友が笑った。「まあ、教えねえけどな」
俺は親友がボソッと言った言葉を聞き逃さなかった。
「何?お前未来わかんの?」
冗談のつもりで、そんなわけねーじゃんとツッコミが来ると思っていたが親友の目は笑っていなかった。
「お前誰にも言わないって誓える?」
ああ、ノってくる感じね。コイツ未来人になりきってるわ。
「言わねー!言わねー!教えろよ!」
こちらも負けじとはしゃぎ立てる。
親友は机の横に掛けているカバンからガラス板を取り出した。よく見ると薄く電子基盤が透けているような気がする。こんなインテリアあったよな…。分厚いガラスの中に立体的な彫刻が刻まれているやつ。
親友がガラス板に手をかざすと、ぼわんと映像が頭に流れ込んできた。
夢を見ている感覚で意図しない景色が次から次へと流れ込み脳の理解が追いつかない。
電車からの走る景色を全て目で追おうとしている時と同じように目が回る感覚。
そして見える景色がまるで地獄のようで俺はひどい目眩がした。
気付いたら昼休みは終わっていて5時間目の授業中だった。
寝てた?いつのまに?
あんなに晴れていたのにいつのまにか雨が降り出しそうなほど分厚い雲に覆われている。
昼休みの目眩がまだ残っている気がする。なんなら吐き気もする気がする。
けれどなんで目眩がしたのか、何が起こったのか、モヤがかかったように思い出せない。
ぼんやりしていると5時間目終了のチャイムが鳴った。
「そういえば進路表の提出、金曜日までだからな。早く出せよ」
担任がでかい声で言うと、教室を出て行った。
「なあ、進路表提出した?」
親友が前の椅子に座ったままくるりとこちらに顔を向けた。
「え?」
俺は既視感を感じて聞き直す。
「進路表だよ。お前どうせ近くの大学とか書くんだろ」
親友が笑って言った。あまりにもいつも通りの日常すぎて何もかもが気のせいだったと気づいた。
おれ昼休み寝てたんだわ。変な夢見て気分悪くなっただろ。
「どうせってなんだよ。その通りだよ」
俺も笑って親友の肩を小突いた。
未来なんて分からないんだから、無難に生きていけばいいんだよ。俺はそういう人間だ。
しかしひどい夢だった。
戦争とか大地震とかやけに生々しい光景で、まだ背中の脂汗が引いていない。
もしあんなのが未来だとしたら俺はどう生きていくんだろう。
「君と僕」
鴨居に吊りげられた2つの制服が春風を受けてゆらゆらと不安定に揺れた。
ボタンが全て無くなり裾や袖がほつれている制服とまるでアイロンをかけたばかりのようにシワ一つない制服。対照的な様相のくせに仲良くゆらゆらと揺れている。
縁側から春風が吹き込む和室は静かで心地よく読書にはピッタリだったが、青年は揺れている制服をちらりと見ると自部屋に引き篭もった。
恐らく母親が並べて干したのだろう。余計なお世話だ。俺がアイツのことどう思ってるか知ってるくせに。やっとアイツとの生活からおさらばできるのだ。なのにどうしてこんなにもイライラするのだろう。
乱暴に椅子を引くと本で溢れかえった机から卒業アルバムが落ちた。
高校はそこそこ楽しかった。友達は少なかったが趣味や目標を同じとする同士に出会えて切磋琢磨しながら健全な友人関係を築いた。
成績優秀者に選ばれて表彰もされた。
教師の期待が重く窮屈な思いをしたこともあったが、なんとか膝をつくことなく走ってこれた。
点数をつけるなら…90点といったところか?
満点に満たぬ理由のあとの10点は、認めたくないがアイツへの嫉妬だ。
青年は卒業アルバムを開いた。クラス写真のページには全く瓜二つの顔が並んでいる。切れ長のフレーム眼鏡をかけた真顔と金髪でやんちゃそうに笑っている顔。
全く同じ顔のくせしてまるで別人だ。
寄せ書きのページを開くとたった数個のメッセージと残り空白の2ページ。
青年はハア、とため息をついた。あいつのアルバムはきっと隙間がないほどのメッセージで埋められているんだろう。
優等生ではなかったものの学校中の人気者で、サッカーで全国大会に出場した双子の兄弟。
小さい頃は仲が良く、二人で一つを体現したような相棒で、全く正反対の性格ではあったがお互いの弱みを補い合い、互いの理解者だった。
しかし高校に入るといつのまにか疎遠になってしまい、なぜかアイツの友達の機嫌を損ねたことがきっかけで話すこともなくなってしまった。
正直、たくさんの人に囲まれて親や教師からの期待に束縛されずに自由に生きているアイツに憧れる気持ちはあった。また顔を突き合わせて笑い合いたいとも思っていた。
しかしもう、遅いのだ。
今さらアイツがこちらをどう思っているか分からないしそれを知ろうとするには時間が経ちすぎた。
考え込んでいると小腹が空いた。
冷蔵庫を物色しようとキッチンに行くと、ダイニングテーブルに卒業アルバムが置いてあった。アイツのだ。
今日もらったばかりなのにもうすでに背表紙の角が潰れている。
ふとどんなメッセージが寄せられているか気になりページをめくった。
予想通り色とりどりのペンでびっしりと書き込まれた3ページ。それだけに収まらず体育祭や文化祭などの写真が並んだところにまで書き込まれている。
どのメッセージもまた遊ぼう、忘れるなよ、といった言葉が並び持ち主がどれほど愛されていたかがすぐに分かる。なんだか悔しい。
『相棒』
黒のサインペン。小さな文字。ページの一番隅に書いたのにカラフルなページの中で一際浮いて見える。
あいつは細かい所までよく見ない性格だから気付かないかもしれないが、いつか昔のようにあいつと話をするきっかけになればいい。
そう思いながら青年はアルバムを閉じた。