「七色」
彼女は嬉しそうに言った。
「新しい靴を買ったの。春になったからね。ちょっとヒールもあっていい音するのよ」
固い金属の音がリズミカルに鳴る。
「いいね。よく似合ってる。」
僕は彼女に微笑んだ。
春の大学の中庭はワイワイと賑やかで、お弁当の冷えたおかずの匂いが漂ってくる。
新入生が気合を入れて弁当を作り、登校しているのだろう。
春しか感じられない緊張感と期待感が肌を震わす。
「今日はサークル来るの?」
彼女が聞いた。その声色はそっけなく、心配と期待が感じられた。
「うーん、どうしようかな。」
「最近は新歓もあって新入生がいっぱい入ったのよ。」
彼女は変わらずそっけない調子だったが、ずっとこちらの返答に集中していた。
「まあ顔出すだけなら。」
彼女の押し寄せる期待を裏切れず、そう答えた。
「よし!じゃあ先輩達に言っておくね。」
彼女のヒールがリズミカルに鳴った。
僕は白杖を手に取り、立ち上がった。
彼女が慣れた様子で腕を組む。
「ここ、最近工事したから段差ないからね。」
白杖で地面が繋がっていることを確認する。
「オッケー。ありがとう。」
よく聞かれるのが、
「目が見えないってどういう感じ?」
誰だって想像するだろう。僕の「見えている」風景を。
ただ僕もなんと言えばいいのかわからない。
あえて答えるとするなら、光がない。
ついでに人生にも。
想像力の無い連中の格好の的としてあらゆる矢を受け止めなければならない。
「光がないってどういうこと?真っ暗ってこと?」
「色とか分からんの?」
「まじかー!りんごが赤っていうのは知ってる?」
「虹って知ってる?」
「光ってね、無色なんですよ。」
サークルの飲み会で無粋で不躾な質問をされている真横で大きな声が聞こえた。
どうやら真横に座っている女の子が先輩と話し込んでいるらしい。
「私たちが見てる色なんて電磁波の濃淡でしかないですよ。虹が七色っていうのはただの決めつけです。
まあ光がなかったら色もないですけど、だとしたら真っ暗闇でも虹がそこになかったことにはならないですよね!」
声の方向的に僕たちに言っているわけではなさそうだったが、無礼な奴らはすっかり黙り込んだ。
それから彼女はいつからか僕のそばをうろちょろとするようになった。
まるで自分も用があるから存在してるだけであなたのことなんて道路脇の店くらいにしか気にしてないですよ、というような口ぶりで話しかけてくる。
そのわざとらしさは相変わらずで、何度も助けられてきた。
僕の人生は光こそないが、彼女のおかげで少しだけ色づいたのかもしれない。
「星」
幼い頃の記憶だろうか。
父親に手を引かれて真夜中に家を抜け出した。
寝ないといけない時間をとうに過ぎているのに靴を履いて外に出た時の背徳感。
当時の家は田舎で家々がまばらな場所にあった。
すぐ隣にある闇が怖くてギュッと父親の手を握っていた気がする。
父親に名前を呼ばれ顔を上げた時、頭上には昼かと見間違うほどの明るい星々が煌めいていた。
あれから20年。
目覚まし時計が鳴る5分前に目を覚まし、簡単な朝食を済まして満員電車に乗り込む。
ボディブローをスローモーションで受け止めているかのような地獄を抜けると、上司と顧客からのプレッシャーを全身で受け止める。
やっとの思いで仕事を終えると、擦り切れた脳みそで帰宅する。
それだけを繰り返す毎日。
いつからか心を無理に動かされるような体験や経験を避け、他人の不運を嬉々として書き綴ったゴシップや1秒後には忘れているような動画で安心と癒しを求めるようになった。
こんな生活をあと何十年も…
まだ人生が地獄の淵にとどまっているなら、落っこちてしまう前に死んでしまった方がいいのではないかと考えてしまう。
叫んで泣いて全てを破壊したくなる。賃貸アパートだからできないけど。
「今日は20年に一度の流星群が見られます。大切な人と一緒に夜空を眺めるのも素敵ですね。」
テレビのキャスターが嬉しそうに言っていた。
なんとなく見逃すのが惜しい気がして安直にも外に出た。できるだけ人気のない公園に行った。
幸い自分以外誰もおらず、子供のいない公園はどこか不気味だった。スマホのライトを頼りに電灯の少ない暗がりを進み空を見上げた。
弱々しい星が一つ二つ。
念のため記録としてスマホを構える。すると、ひゅんっと3本線が光った。
え、とスマホを構えなおすともう一度流れた。
お!来たか!と期待したがよく見るとスマホの動きに合わせてチラチラと流れる。
ただの電線にスマホのライトが反射しているだけのようだった。
結局流星群は見れず、徒労に終わった。
電線にライトを照らして流星群と見間違えるなんて、もはやネタでしかない。
自分が情けなくて仕方ないのと同時にポンコツ過ぎて愛おしく感じる。
疲れてんだよな自分。
幼い頃見た夜空は壮大で輝いて見えたが、大人になって見た夜空は闇だった。
だけどスマホのライト一つで光は灯せた。
まだ、大丈夫。
大丈夫。
「秘密の場所」
息苦しい。
入社して5年。やっと仕事の要領が掴めてきた、と自信を持つ暇もなく積み重なる仕事の山。
期待してるよ、という言葉の重圧で肺が潰れそうだ。
毎日遅くまで残業をして寝るだけの生活。逃げ出したいのに世間の視線が気になるし、期待してるよという言葉の温かさにまだすがっている。
今日は久しぶりに定時で帰れたが、頭はドーパミンが出切った後で放心状態。
もうダメかもしれない。うごかないあたまがつぶやく。赤信号が見えているのに足が動いた。
ふとスパイスの良い香りが鼻をくすぐった。
カレーとはまた違う、ニンニクやジンジャーの香りがする。なんともいえないエキゾチックな香りで脳が起き上がる。
香りに誘われて路地裏を右へ左へ。気がつくと、木製のドアと白い壁のシンプルな店へ辿り着いた。
ドアには“Herva”という文字をくり抜いた看板が吊り下がっている。
少し入りづらい雰囲気があるが、香りに負けてドアを開けた。
中はほんのり薄暗いオレンジ色の光で満たされていて、外に漏れ出ている香りが一層濃くなって充満していた。
奥にはカウンターがあり、バーテンダーのような佇まいの店員がこちらを見ている。
「いらっしゃいませ。」
他に客はいないようだ。心地よい香りと微かに聞こえるピアノの音色が緊張をほぐす。
なんとなくカウンターの一番端の席に座る。
「本日のメニューです。」
慣れた手つきでメニューが差し出される。
これは、隠れ家的店を見つけたぞ、こう言う店ほど美味しいんだよ!というワクワクを抑えながらメニューを開いた。
・ヒーローの話
・光に憧れる人魚の話
・草に触れた赤子の話
・人生の暗闇に迷い込んだ人の話
・光ある夢を追いかけた少女の話
料理名とは思えないような文字がずらりと並んでいる。
「あの、これ…」
困惑してバーテンダーを見つめる。
よく見るとバーテンダーの後ろの酒棚にはワインなどの酒ではなく本が並んでいた。さながら大きく古い図書館のように。
「当店は言葉というハーブを扱っております。もちろんお客様が選んだお話に合わせたお料理も提供させていただきます。」
本は苦手だ。
文字の羅列を見ると頭が痛くなる。想像力が乏しくて読書の何が楽しいのかさっぱり分からず生きてきた。
そんな私の心を見透かしたように店員が話す。
「孤独な状況で挫折したとき、立ち上がれないほど膝をついてしまったとき、どうやって立ち上がりますか?そういう時、言葉が希望となります。
何か漫画のセリフだったり、ネットで見かけた偉人の名言などがきっかけのこともあります。そういう風に誰かを支える言葉を提供したい、それがここの店主の思いです。本は読まなくても大丈夫ですよ。」
そう言ってバーテンダーは笑った。
温かなハーブの香りが目に染みる。
メニューがぼやける。
「ここは秘密の場所です。息抜きが欲しい時、孤独で寂しくてどうしようもない時、いつでもいらしてください。」
ピアノの優しい旋律が静かに流れていた。
「あの日の温もり」
高層ビルの社長室から街を見下ろす。
ドアを叩く音がして秘書が入ってきた。
「社長、本日のご予定です。13時から国際技術展覧会、19時からグローバルスタジオ主催のパーティーになります。」
「グローバルスタジオ?そことは取引をやめたはずだろう。断らなかったのか。」
秘書が慌てて資料をめくる。
「申し訳ございません。契約終了前に招待が来ておりましたので…」
「言い訳は結構。君の仕事は予定を管理することだ。そのくらいできると思ってたんだがな。」
秘書は顔をこわばらせて固まってしまった。
「もういいよ、時間になったら呼びに来なさい。」
秘書を退出させてタバコに火をつけた。
くだらない接待、薄っぺらい褒め言葉に笑顔を振り撒く毎日。
心から信頼できる人間なんて一人もいない。
窓から下界を見下ろした。
蟻のようにたくさんの人間が動いている。
ふとボロボロの家が目についた。
今にも崩れてしまいそうな家だ。
貧しくても真面目さと素直さが大切だと言って育てられた家を思い出す。
高校時代、クラスからはじきものにされていじめられていた奴がいた。
それを見て見ぬふりができず、いじめのリーダーと殴り合いの喧嘩をした。
いじめは終わったが、暴力事件として警察や学校から呼び出され、退学になってしまった。
助けたはず奴からも恐れられ、警察も教師も誰も味方になってくれなかった。
それでも両親は何一つ疑わず私を支えてくれた。
昼にバイトをして夜間学校に通う生活になったが、少しでも良い大学に行けるようにとずっと支えてくれた。
あの純粋な温もりは今はもうない。
両親の支援の甲斐あって海外の大学に進学し、大手企業に入社。優秀な同僚達がいる中で少しでも這いあがろうともがいてきた。
時には他人を蹴落とし、足を引っ張っているうちに、いつのまにか真面目さと素直さなんて忘れてしまった。
今の自分を見たら両親はなんと言うだろうか。
もうここ何年も連絡を取っていないが、この週末実家に帰ろう。
私はそう心に決めて、秘書に謝ろうと社長室を出た。
「君と見た虹」
雨上がり子どもたちが楽しそうにはしゃいでる。
その声が聞こえないようにそっとイヤホンをつけた。
ノイズキャンセリングに感謝しながら帰路に着く。
ふと懐かしい音楽が流れてきて、あの頃の情景が目に浮かんだ。
「早くかえろー」
「ちょっと待って!」
僕はランドセルを背負って彼女に駆け寄った。
3軒隣に住んでいる幼なじみ。
その日は雨が降って水たまりがたくさんできていた。
「ねえねえ!水たまりに虹が出てるよ!」
お昼過ぎまで降っていた雨で興奮した様子の君に手を引かれ、水たまりを覗き込む。
そこには虹に包まれた僕たちが映っていた。
時折風に吹かれて虹が回る。
彼女は不思議そうにつま先をちょんとつけた。
はしゃいだ様子でこちらを見る。
水面に映る君の顔が見えなくなって、ふと横を見ると、その笑顔はあまりに眩しく僕はそっと視線を逸らした。
今では見ることができないその笑顔をもっと見ていれば、と音楽を聴きながら少し後悔した。
思えばあの頃からずっと目を逸らしてきたのかもしれない。
君を好きになっていた僕にずっとあの笑顔を見せてくれる君を意識すればするほど話せなくなった。
成人式で再会した彼女はすっかり大人っぽくなっていた。途中でやめた日記を今更埋めていくように、僕は彼女に話しかけた。
「久しぶりー!」
「久しぶり!元気にしてた?」
「なんとかやってるよ。そっちは?」
「絶好調!仕事も楽しいし彼氏もできたんだよね!」
「そっか!おめでとう!」
つい反射で言ってしまった。
今でもあの頃のように話しかけてくれる君に、僕ははじめて君の笑顔を真似して嘘をつくしかなかった。
その帰り道、あの時と同じ水たまりが目の前にあった。
覗き込んでも彼女は見えなくて、彼女の真似をして作った笑顔は僕の気持ちを映すように笑ってくれない。
正直な水たまりの僕を、嘘つきの僕はただ踏みつけるしかなかった。