「秘密の場所」
息苦しい。
入社して5年。やっと仕事の要領が掴めてきた、と自信を持つ暇もなく積み重なる仕事の山。
期待してるよ、という言葉の重圧で肺が潰れそうだ。
毎日遅くまで残業をして寝るだけの生活。逃げ出したいのに世間の視線が気になるし、期待してるよという言葉の温かさにまだすがっている。
今日は久しぶりに定時で帰れたが、頭はドーパミンが出切った後で放心状態。
もうダメかもしれない。うごかないあたまがつぶやく。赤信号が見えているのに足が動いた。
ふとスパイスの良い香りが鼻をくすぐった。
カレーとはまた違う、ニンニクやジンジャーの香りがする。なんともいえないエキゾチックな香りで脳が起き上がる。
香りに誘われて路地裏を右へ左へ。気がつくと、木製のドアと白い壁のシンプルな店へ辿り着いた。
ドアには“Herva”という文字をくり抜いた看板が吊り下がっている。
少し入りづらい雰囲気があるが、香りに負けてドアを開けた。
中はほんのり薄暗いオレンジ色の光で満たされていて、外に漏れ出ている香りが一層濃くなって充満していた。
奥にはカウンターがあり、バーテンダーのような佇まいの店員がこちらを見ている。
「いらっしゃいませ。」
他に客はいないようだ。心地よい香りと微かに聞こえるピアノの音色が緊張をほぐす。
なんとなくカウンターの一番端の席に座る。
「本日のメニューです。」
慣れた手つきでメニューが差し出される。
これは、隠れ家的店を見つけたぞ、こう言う店ほど美味しいんだよ!というワクワクを抑えながらメニューを開いた。
・ヒーローの話
・光に憧れる人魚の話
・草に触れた赤子の話
・人生の暗闇に迷い込んだ人の話
・光ある夢を追いかけた少女の話
料理名とは思えないような文字がずらりと並んでいる。
「あの、これ…」
困惑してバーテンダーを見つめる。
よく見るとバーテンダーの後ろの酒棚にはワインなどの酒ではなく本が並んでいた。さながら大きく古い図書館のように。
「当店は言葉というハーブを扱っております。もちろんお客様が選んだお話に合わせたお料理も提供させていただきます。」
本は苦手だ。
文字の羅列を見ると頭が痛くなる。想像力が乏しくて読書の何が楽しいのかさっぱり分からず生きてきた。
そんな私の心を見透かしたように店員が話す。
「孤独な状況で挫折したとき、立ち上がれないほど膝をついてしまったとき、どうやって立ち上がりますか?そういう時、言葉が希望となります。
何か漫画のセリフだったり、ネットで見かけた偉人の名言などがきっかけのこともあります。そういう風に誰かを支える言葉を提供したい、それがここの店主の思いです。本は読まなくても大丈夫ですよ。」
そう言ってバーテンダーは笑った。
温かなハーブの香りが目に染みる。
メニューがぼやける。
「ここは秘密の場所です。息抜きが欲しい時、孤独で寂しくてどうしようもない時、いつでもいらしてください。」
ピアノの優しい旋律が静かに流れていた。
3/8/2025, 8:21:50 PM