香草

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11/28/2024, 4:06:13 PM

拍手が鳴り止み静寂が訪れる。
指の重さをできる限り0にして鍵盤に触れる。
重い空気が腕にまとわりついて筋肉が震えそうだ。
深呼吸をして身体中の神経を指に集中させる。その瞬間、思い切り力を込めた。
ピアノが悲鳴を上げる。
動き出した指はもう止まらない。
この数分のために何ヶ月も練習してきた。
毎日毎日何時間も同じ曲を弾いて自分のミスに向き合ってきた。間違えた、もっと優しく、もっと力をこめて、もっと流れるように、もっとアクセントを…
楽譜を破り捨てようかと本気で思ったこともあった。
ピアノをぶっ壊してやろうとハンマーを手に取ったこともあった。そんな心の底に隠れていた自分の加害性にショックを受けて自己嫌悪に陥り一晩中泣いた。
でも一粒の理性と彼女への憧れを捨て切れなかった。
指は躾けられたサーカスの動物のように鍵盤の上を踊る。最後の20小節にさしかかる。
このコンクールが終わったら俺には何が残るんだろう。ふと、頭に浮かんだ。
次の目標?またあの辛い日々を過ごすのか。自分のドス黒い感情を見つめてわざわざ絶望に浸らないといけないのか。
いっそ辞めてしまおうか?第二の人生を歩むのも悪くはない。でも俺には何もない。ピアノ以外に何もできない。結局俺は彼女に生かされているのだ。
彼女は美しい歌を歌う。全ての演奏者を自分に集中させて何も考えないようにさせる。それでいて一筋縄でいかず、いつも不満気に俺を責める。
なあ、まだ終わらないでくれ。何ヶ月もお前を満足させるために頑張ってきたんだ。
最後の音を鳴らす。彼女はニヤリと笑って俺の指と別れを告げた。

11/27/2024, 11:34:24 AM

初めてのクリスマスプレゼントでもらった着せ替え人形。大きな目、外国のお姫様みたいな髪の毛。私の母性が芽生えた瞬間だった。
毎日ご飯を作って、服を着替えさせて、寝かしつけた。私の子供は天才で可愛くて、なんでも素直に言うことを聞く良い子だった。
「この家にはまるでママが2人いるみたいだなあ」
「ママがもう一人いて助かるわあ」
両親はそんな私を見て微笑む。私も本物に認められるほどの一人前のママなのだと誇らしくなった。

それから20年後、私は本物のママになった。待ちに待った赤ちゃん。
人形とは似ても似つかない皺だらけの生物。だけど可愛かった。クリクリした目もブロンドヘアーも持ってないけど。
本物の赤ちゃん大切に育てていこう。

机から水がしたたる。その様子が初めて水泳教室に行った娘の涙を思い起こさせた。
割れたガラス。小学生の娘が買って来てくれた修学旅行のガラス細工のお土産を思い出させる。どこにおいたっけ。
隣の家の電気がつく。深夜の塾の前で佇む娘も光に照らされていた。表情はいつも見えなかった。
ピコン、とスマホにニュースの通知。勉強に集中させたくて取り上げた時に見てしまった「母親クソだね 毒親じゃん」の文字。
ずっと娘のことを考えて生きてきた。私に似て取り柄もなくて不器用な娘に、私みたいな人生を歩ませないように大切に育ててきたつもりだった。
「私はママの人形じゃないの!」
耳の奥でこだまする。たくさんの愛情を注いでいたつもりだったのに。
そんなこと言うなんて私の子供じゃない。

11/26/2024, 12:04:45 PM

暖房のせいなのか、ふわふわする。頭がぼうっとして身体中の液体がふつふつし始める。
部長がシャツの袖を捲る。やっぱり暑いよね?
しかし驚くことに暖房は入っていない。
会議室の空調は建物全体で管理されていて、温度はいじれない。会議の時は暑がりの部長のために暖房は入れない暗黙のルールなのだ。
いつもは震えながら会議に参加して部長を呪っているのだが、今日はやたらと体温が高い。
理由はなんとなく分かっている。目の前の男だ。
爽やかな笑顔で話す営業部のエース、の隣に座っている冴えない眼鏡の男。去年一緒に入社した同期だ。
目が合った。何もなかったかのように手元の資料に目を落とす。
『新規ターゲット獲得のための商品開発・・・』
『若い顧客層を見据えた・・・和菓子のイメージを一新する・・・甘さにこだわった・・・』
甘い。甘い。甘い。のどが渇くほど甘かった。夜空がぐるぐる回って星が降ってくるんじゃないかと思ったあの夜。

「普段お酒飲まないならそう言ってくれればよかったのに。」
自販機にお金を入れながら言った。研修終わりの飲み会で彼はハイボールを7杯飲んだ。
「いやみんな飲むの早すぎ…」
キャップを開けて水を差し出す。なんで私があんたの面倒見ないといけないの、と思いながらこのまま見捨てるのも嫌なので隣に座った。
あーあ、本当なら家に帰って推しのライブを見てたのにな。
そんなことを思いながらスマホを取り出す。21:17。終電まであと3時間もある。あーあ本当ならあの気になってたバーに寄って帰ったのになあ。
「ねえ、」焦点の定まらない目でこちらを見た。
「饅頭食べない?」
「は?」
酔っ払いすぎだろ。何言ってるの。こんな時間にやってる和菓子屋なんてないでしょ。
早く帰らせよう。
立ちあがろうとした私の腕を掴む。
「行こう!」
足早にかけ出す。こっちヒールなんですけど。

彼が連れて来たのは和菓子バー。メニュー表には饅頭や練り切りなど、お酒とは不釣り合いな名前が載っている。
「ねえ、大丈夫なの?日本酒だよ?やめといた方がいいんじゃないの」
店内は日本歌謡が流れていてなんだか居心地が悪い。酔っ払いを連れていたら尚更だ。
「覚めた覚めた。大丈夫。」そう言うと慣れたように日本酒の名前を注文する。
まあいっか、潰れたら今度こそ置いて帰ろう。ちょうど飲みたかったし。
日本酒と食べる和菓子は意外な相性で美味しかった。餡子のむせかえるような甘味と冷たい日本酒の切れ味で舌が風邪を引きそうだ。下戸だと思っていた彼は、浴びるように注文している。それに負けじと和菓子を頬張る。甘い甘い。指が絡む。回る回る。薄暗闇で彼の顔が浮かんで消える。

「おい、大丈夫か?」
部長が顔を覗き込む。
「顔が赤いぞ。熱があるんじゃないのか。医務室に行って来なさい。」
部長命令なら仕方ない。すみません、と呟いて逃げるように会議室から出た。
甘いのは餡子だったのか、彼だったのか。

11/25/2024, 11:21:26 AM

光が差し込む。窓辺に一通の手紙。

初めまして。いきなりですが、今夜貴方を奪いに行きます。

突然のお話でびっくりさせてしまったことでしょう。
私は怪盗M。闇夜にまぎれるただのしがない怪盗です。
貴方を初めて見た時、明るく眩しい笑顔に目が吸い込まれました。風に吹かれてゆらゆらと金色に輝く貴方の髪。恥ずかしそうなえくぼ。ピンとはった背中からはどんな逆境にも負けないほどのエネルギーを感じました。貴方に一目惚れをしたのです。

ただ次に会った時の貴方は、まるでこの世の全てに絶望しているかのようでした。金色の髪はくすみ、まるで幽霊のようにうなだれていた。
私は心配で心配でたまらなかった。何があったのかと優しく包んであげたい衝動に駆られました。
風の噂によると婚約者のせいだそうですね。
貴方に熱烈な愛を語っていながら、異国の女性にも愛を囁いていた。それを知ってしまったのですね。でも貴方は健気にも婚約者が自分のもとへ帰って来た時は素晴らしい笑顔を見せる。さぞ苦しいでしょう。

最近の貴方はずっと下を向いています。私にはあの笑顔を向けてくれない。私ならそんな顔をさせません。
悲しい思いはさせない。
今夜貴方を奪いに行きます。

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台本から顔を上げる。眩しいスポットライトが彼女らを照らす。舞台袖と舞台の上は明確な線が引かれている。明かりの下を歩けない僕らはただ成り行きを眺めることしかできない。
クライマックスだ。主役が彼女を抱きしめる。彼女は幸せそうな表情で腕を回す。全て僕の書いた台本通り。美しいヒロインに一目惚れした怪盗から彼女を救い出すお話。主役俳優に恋する彼女のために書いたお話。
観客が割れるような拍手を送る。僕も暗闇から拍手を送る。影に生きるしがない脚本作家と華やかで煌びやからな光に照らされる彼女。住む世界が違う。
彼女は気付いただろうか。僕からのラブレターに。

11/24/2024, 2:38:28 PM

木枯らしが吹き始めたので、タンスの底からセーターを引っ張り出す。去年買った白いセーター。広げてみると毛玉だらけだった。
そりゃそうだよね。あなたが可愛いって言ってくれたからずっと着ていたんだもの。

去年の冬は、数年に一度の積雪で過去最低気温も記録していたらしいけど、あの人の体温しか覚えていない。寝る前のココアのように、頭がとろけるほど温かさに包まれて、目に見えるものはキラキラした景色ばかり。クリスマスのイルミネーション、年末カウントダウンのネオン、初詣でお揃いで買ったお守り。なんて素晴らしい季節なんだろう。過去一番の寒さなんて感じないほど幸せだった。

日が沈んで暗くなった。だんだんと部屋の気温が下がっていくのが分かる。
毛玉を切らないと。
ハサミでチョキンチョキンと毛玉を取り除く。
あなたとの思い出も全部消えろと願いながら。

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