星空の見えない都会の夜の街並み。君は白いワンピースを着て、僕の前を歩く。田舎から上京したばかりの彼女は、その目をキラキラと輝かせていた。
「ねえ、あれ見て!東京タワーかなぁ」
そう言って君は、東京スカイツリーを指差す。タワーとスカイツリーは全くの別物だが、彼女にはどちらも、美しいものに見えた。「それはスカイツリーだよ」と教えてやると、少し顔を赤くして頬を膨らませた。しかしすぐに、花のように笑うのだ。
僕にはその姿が、星空の下に咲く白いユリのように見えた。とても美しく、たくましい。
僕はそんな君が、大好きだ。
それでいいって言われたい。私に期待を抱かず、仕方ないって妥協して欲しい気が楽になれば、私は私でいることができる。
でも、満足感からのそれでいいは、嫌だ。あんたが良くても、私は良くない。
私は、ここまでしかできない。それでいい?
ああ。もういい。それでいい。
諦めることは、相手を、私を、救うことになるかもしれない。
1つだけ、ちょうだい。
僕の前に座った猫が、そんな目で見てくる。僕が手に持っているのは、小魚の煮干し。猫ってやっぱり、こういうの食べるんだ。
「いいよ。1つだけやる」
その猫は差し出した煮干しを僕の掌の上で食べた。時々あたるざらざらな舌がくすぐったい。
「んにゃ〜」
やっぱりもう1つだけ、ちょうだい。
多分その声には、そういう意味があった。
僕はもう1つ、煮干しをやる。
「1つだけ」という言葉は、とても不透明だ。最初は本当に1つだけの願いだったとしても、一度体験してしまえばさらにねだるようになる。1つだけとは、結果的に一つ以上の要求なのだろう。
そうするのは、人間だけだと思っていた。人間だけが、厚かましくもそんな欲望を持っていると思っていたから。でも、猫もそうなのか。生物は生きている限り、必ずその胸に欲を秘めている。
その欲を、お互いに突き放したりしないようにすることが、平安をもたらす1つだけの方法なのだろうか。
あなたの夢は、なに?
俺の夢は、名も知らぬ君の大切なものになることだ。
彼女とはそれ以来、会っていない。元々身分の差が大きかった。高貴な人だ。下男である俺は、本来会うことすらできなかった。
雪が降っていた。初めて会ったのは、まだ俺たちが、九つの時だった。美しい衣を見に纏って、彼女は椿の花を眺めていた。
「どうしてここに?」
「あ、えと、椿の花が元気か、見に来ただけで…」
「あなたがこの花のお世話をしてくれていたの?」
「…は、はい。姫君」
「そう」
掴みどころのない人だった。笑顔は滅多に見せず、今ここに降り続ける雪のような儚げのある人。同じ九つとは思えぬほど、美しい。
「あなた、名前は?」
「あ、ありませぬ…そのようなもの、俺のような卑しい身分の者には…」
「そう。では、椿と名乗りなさい。椿、これからもこの花々のお世話をして頂戴」
彼女は俺に、椿という名を与えた。
それからというもの、俺は暇さえあれば椿の花の世話をし、その度にその様子を見ていた彼女と言葉を交わした。次第に、彼女も笑顔を見せるようにもなった。
十二になった頃、彼女が他貴族の家へ嫁ぐことが決まった。その日もいつものように、俺たちは椿の花を眺めていた。
「…嫁がれると聞きました」
「……ええ。この花とも、もうお別れでしょう。明日には、この屋敷を発つ」
「またいつでも、見にいらしてください」
「これから行く場所は、滅多に外へ出られない牢獄のような場所。椿、あなたとももう会えない」
「高貴な姫君が、俺如きの存在を気に掛けてはなりません。俺はこの家の下男。ただ姫君のそばで、この花の世話をしていたに過ぎませぬ故」
どんな顔もできなかった。ただ彼女に背を向けて、ひたすら椿の花の世話をする。そうすることで、密かに思いを寄せていた彼女が嫁ぐことを、忘れられると思った。
「……私の夢は」
突然、彼女が声を出した。
「私の夢は、椿になることなの。屋敷に閉じこもっていないで、外に出て自由に、この世界のどこかで美しく咲くことのできる椿に」
彼女は俺の隣に来た。この三年間で初めてのことだった。
「あなたの夢は、なに?」
椿の花にそっと手を触れ、彼女はこちらに顔も向けず言った。
「俺の夢は、名も知らぬ君の大切なものになることだ」
それ以来、彼女とは会っていない。会うことができなかった。自分の想いを伝えても、彼女がこの想いに応え、一緒にどこかへ行ってくれることなどなかった。婚姻が、なくなるわけでもない。
それでも俺は、自分のこの名に、椿に恥じぬよう、誓おう。君の大切なものだったこの椿の花を、俺の大切なものとして、これからも永久に、守り続けよう。
「俺さー、彼女できたんだよね」
「へー、よかったね」
「……嘘ですっ!!」
4月2日11:55。今日は、エイプリルフールの翌日だ。午前中ならまだ許されると聞いたことがあり、幼馴染に嘘をついた。
「午前中ならって言っても、もう少しで正午じゃん。しかもそんなしょーもない嘘って、私のこと舐めてる?」
「しょーもないとは何だ!お前こそその反応!ガキの頃から一緒にいた愛しの俺に彼女ができたってのによぉ、『へー、よかったね』って何だよしょーもねえ!」
11:57。俺とそいつは、家が近所で幼稚園に入る前から親が仲良しだった。そっから小中高とぜーんぶ同じわけで、それなりに信頼を寄せ合ってたりもする。そんで、まあ恥ずかしい話、好きな奴だ。
「ちぇー、ちょっとは動揺してくれると思ったのによー」
「動揺するわけないじゃん」
11:59。顔色ひとつ変えずに淡々と述べる。いつもそうだが、あいつは俺より、一枚上手。
「知ってる?男女間の友情ってね、成り立つんだよ」
12:00。正午になった。もう、嘘をついてはいけない。
「私、あんたのこと好きなんだよね」
12:01。俺はあいつの言葉を理解するのに、時間がかかった。