昨年末、義父が緊急入院して手術後、緩和病棟へ移って1ヶ月とちょっとで亡くなった。完治の見込みはなかったため延命の治療はせず、点滴と少しのビタミン剤で様子見状態だった。
普通は、長くても2週間ぐらいで、そんなに長くはもたないそうだけど、義父は手術も大病もしたことがないため、身体が丈夫で、弱るスピードが遅かった、とのこと。
その入院中、喋ることはできなくても筆談で意思を伝え、看護師さんに何かしてもらうと頭を下げ、人としての礼儀だけは最期まで失くさなかった、と義母から聴いた。
死ぬのを待たれる状態で、1ヶ月以上飲まず食わずでも義父は自分を貫いた。
『そうしきするなすぐもやせ』それが遺言だった。遺言どおりの直葬で、わたしたち夫婦はご遺体には会えず、。
…
わたしたちの結納の時、
実家に来てくれた義父母を、駅まで送った時に、「貴女は苦労したね…」と、義父は声をかけてくれた。
子供の頃からそれまで、周りの大人は母に対しては、『女手一つで娘さんを育てて苦労したね』と言い、その次にわたしに、『お母さんは苦労したんだからお母さんを大切にね』…と。
…お義父さんだけだった、最初からわたしの方を見てくれたのは。うれしかった。
そのことを夫に話したら、すぐお義父さんに伝えてくれた。はずかしかった。
お義父さんに会いに行ってきます。
みんなでお義父さんを囲んで、思い出話し会をするそうです。
2025/02/03
今日は立春。
「白って200色あんねん」って、アンミカが言ってたょ。
母の古いアルバムに、1枚の写真が今も隠されている。母が持っているアルバムは、その1冊だけ。いろいろあって、1冊のみ。
その1冊のアルバムの中の、母の写真の下に、1枚の写真が隠されている。
男の人。
写真の裏に名前も書いてある。
その写真を見つけたのは、わたしが中学生の頃だった。1枚だけ厚みが違うと感じたわたしは、母の写真を剥がしたところ、その男の人の写真を見つけた。
母をからかいながら、いろいろしつこく尋ねた。母は言いたがらなかったけど、自分より年下で一緒に勉強をしていた相手だった…と。
「キスとかしたの?」って、聞くと、
「そんなことしない」って、言った。
母は中学生の頃からだんだん視力が衰えて、盲学校へ入らされた。盲学校へ入るしかない、と、諦めるまで何年かかかったらしい。だから、手紙のやりとりなどはできなかったと思う。盲学校で出会った人だった事は確かだと思う。
写真は誰が撮ったものなのだろう。男の人が誰かに頼んで撮ってもらって、母がもらったものなのかもしれない。特別な、母のために。
手ぐらい繋いだのかな。
好きだって、告白したのかな、されたのかな。
その辺は聞けなかったけど、とにかく母にとって特別な人だった事は間違いない。
アルバムのどの写真も色あせているのに、その特別な写真だけは、綺麗な白黒のままで。
わたしは元の通り母の写真の下に差し込んだから、今も色あせてないはず。
なんにも触れられずに色褪せないままの思い出…………
いいなぁ…………
母の心の中の、その人も、きっとあの時のときめきのままなんだろうな………
2025/02/02
隠された手紙、
今日は、しんみり。
弟との記憶で、あたたかい気持ちになるような思い出が、どこかにあるはずなのに、ちっとも拾えない。
今日は仕事で、その間も気をつけながら記憶の糸を下へ下へ下げて行ったけど、分からなかった。3年半も一緒に暮らしたのに、楽しい思い出がひとつもない、なんて事はまずあり得ない。必ずどこかにキラキラが…
一緒に、笑ったこととか、話したこととか、手を繋いだとか、歌ったとか、…あっあはず。
大きな銀杏の葉をもらった時、わたしは何て応えただろう。「おねぇちゃん、」って、呼ばれた時、どんなふうに返事したっけか…
自分の事が、なんにも、
思い出せない。
だけど、
母と養父が結婚すると決める前、
お試しでお互いの家に、泊まったり泊まりにきたりしていた。弟も施設から一時帰宅して、4人で家族お試しごっこをした。
その時、養父のアパートの近くに、雑木林があって、弟と木の実を集めたり、落ち葉を踏んだりして遊んだ。弟は自然が好きな子だった。わたしが見つける事ができないような、不思議な形の葉を見つけて来て見せてくれた、
正直言うと、
その時の、家族ごっこの方が楽しかった…
これからみんなで暮らすんだ、というワクワクした気持ち。お父さんが出来るんだという、誇らしい気持ち。みんなで、ひとつの部屋に布団をギッチギチに重ねて敷いて、ゴロンゴロンして。布団に潜った時の安堵感と足をパタパタしたくなるような、嬉しい気持ち。
なのに、
何が、いけなかったんだろう。
何が、間違ってたんだろう。
暮らしてみなければ分からない…そんな事が、たくさんたくさんあり過ぎた…………………
ただ、それだけ。
わたしの、
記憶を遡る時は、辛いことが起こった時。
そこから、
楽しい事や、
大切な事を探したい、
見つけ出したい、…そう願う時。
なぁんにも、あったかいものが見つからない…そんな事は今まで一度もなかった。
母と養父の言い争いが始まると、わたしは必ず鼻血を出した。『やめて、やめて、やめて、やめて…』そう念じると、鼻血が出た。本番の家族絵図は、そんな事ばかりを思い出してしまって、
今日はくたびれた。
養父はわたしに、
何も言葉を残してくれはしなかった。
「言葉少ない人だったけど、
それが優しい人だと思えたんだ…」と、母が言っていた。
わたしの心のさみしすぎる場所にポツンと、『おねぇちゃんに、』そんな声だけが残ってた。…ごめんょ、消し、去ろうとしてるし、忘れ、去ろうとしてる。
それは、…
わたしだって弟に酷い事言っていた、
と、いうことなんだ。
2025/02/01
痛みだけを感じてる。
昨夜は、
風が強くて夜中の12時をまわって3時頃まで眠れなかった。眠れない間、養父とその連れ子、『弟』だった子の事を思い出していた。
母と養父は、わたしが8歳のときに再婚した。弟は、わたしの2歳下で、生まれた時からずっと施設で暮らし、家族というものを知らずに育っていた。施設に預けられた理由は、母親にあったらしい。弟を産んでも、育てられず離婚になり、父親に引き取られたけど父親も育てる事ができず、施設に預けられた、という話しだった。
その弟も初めて施設から出て、家族4人の生活が始まった。
養父はわたしには、ほとんど関心を示さなかった。実の息子にも。
弟は、母に異様なほど甘えていた。
わたしも8歳になっていたので、ヤキモチというものは湧いてこず、ただただ変な子…と、思ってた。
弟とはよく喧嘩になった。キッカケは覚えてないけれど、やられた事は覚えている。わたしの顔や目、頭を狙ってきた。
わたしはひとりっ子たったけど、口喧嘩なら友達としてきたし、負けなかった。だけど、弟は口よりすぐに手をだしてきた。わたしの顔を手で抑えて、そのままひっかくとか、物があれば頭を殴るとか、指で目を突こうとするとか、壁に頭を打ち付けるとか。施設では生まれてからずっと、そういう喧嘩の仕方だったんだと思う。
愛情を一身に受けた…という経験がなかったために、相手への力加減を学べなかったのかもしれない。そこは、わからない。
だからといって、愛情表現が無かったわけではなかった。
公園で大きな銀杏の葉を見つけてきて、
「おねぇちゃんに見せたかった」と言って拾って来てくれたり、ツルツルの石を見つけたと言って、わたしにくれたり、松ぼっくりや道路に書ける石を拾っては、わたしにくれたりした。
わたしか8歳から11歳頃まで一緒に暮らして、母と養父は離婚した。弟とも別れた。
もし、
あの数々の贈り物を貰った時に、わたしが、『ありがとう、うれしいよ、どこでみつけたの、』そういう優しい投げかけができていたなら、わたしに対する喧嘩の仕方は、違ってたかもしれない。顔や頭など狙ったり出来なくなった、、かもしれない。
全ては、『たられば』だけど。
風の強い夜は、不穏な想いに悩まされる。
…ある日、
わたしは、縁側に立って花を見ていたか、伯母と話しをしていたか…弟は驚かそうと思ったらしく、わたしの背中を思い切り押した。わたしは突き飛ばされて、隣の家の生け垣まで吹っ飛んだ。
ちょうど洗濯物を干していた伯母が、その一瞬を見ていて、慌ててわたしを抱き起こした…ところまでを覚えている。
伯母は時々家事を手伝いに来てくれていた。その時の事を話してくれた伯母は、「あの子は加減を知らない、恐ろしい子だ…」と、言ってた。
…風の強い夜は、そんな怖いことばかり思い出す。今日は一日中風が強くて、ゾワゾワして落ち着かなかった。
雪の方が、よっぼどいい。
頬が冷たい手が冷たい、その方がよっぽどいい。
あの子もわたしの事を時々憎んだり、思い出したりして、ゾワゾワしているのかな。
風の強い日は、いつもそういう日だ…
2025/01/31
こういう日は、
旅でも途中でもない、
と、思いたい。
今日限り、
そう思いたい。
珈
琲
香
車
内
に
落
ち
ぬ
影
は
冴
ゆ