地方ニュースで桜満開の報が流れた翌週末、俺は1人で桜並木を歩いていた。毎年桜が咲く時期に訪れている場所だ。
今年は満開の時期を逃し、少し緑が混じっているものの、薄紅色に染まる並木は美しかった。時折風が強く吹いて、一層美しく花弁が舞う。ゆっくりと歩きながらそのさまを眺めていると、花弁に交じって、ひらりと四角い布のようなものが宙を舞っていることに気がついた。それはこちらに向かって飛んでくる。よく見ればそれはハンカチのようだった。俺の頭上までやってきたとき、俺は反射的に手を伸ばしていた。
そのハンカチは、白い四角い布の周りに、控えめな薄紅色のレースがあしらわれ、角に1つ、桜の花と思われる刺繍が施されていた。なんだか上品な印象を感じさせる代物だ。
「すみません!」
前方から、女性の声。俺がハンカチから目を上げると、そこには息を切らした女性がいた。桜の花弁のような薄紅色のワンピースを着た、艷やかな黒髪が印象的な女性だった。
「そのハンカチ、私のです。拾ってくださってありがとうございます」
女性は風にあおられる黒髪を抑えながら、目線を俺の手元のハンカチにやって、言った。
「そうだったんですね。土に落ちる前にキャッチできてよかった」
俺は女性へとハンカチを差し出しながら言った。
女性は俺からハンカチを受け取って、またお礼を言ってお辞儀をする。肩から滑り落ちる黒髪が綺麗だった。
「とても素敵な印象のハンカチだったので、どんな方が持ち主なのだろうと考えていました。現れたあなたがハンカチの印象に違わず……いや、それ以上に素敵な方で驚きましたよ」
彼女の様子を見ていたら、自然と口が動いていた。俺らしくもない歯の浮くようなセリフだった。言ってから恥ずかしくなった俺は、頬に熱が集まるのを感じていた。彼女を見れば、その白い頬をぽっと薄紅色に染めて、反応に困っていた。
「え、あ、ありがとうございます……?」
彼女が困った様子で言う。俺はそれがなんだか可笑しくて、笑った。そんな俺を見て、彼女もふふっと笑ってくれた。
俺達の隣を、春の麗らかな風が花弁を乗せて吹いていく。
花弁の中、笑う彼女は美しく、まるで桜の精のようだった。
春風とともにやってきたこの出逢いに、俺は始まりの気配を感じていた。
不意に視界が歪んで、私は、慌てて立ち止まり、顔を上向ける。
目に飛び込んできた満月はくっきりと眩しいくらいに存在を主張していたけれど、次第に歪んでぼやけてハッキリしなくなる。眉を顰め、目元に力を入れて耐えていたけれど、遂にポツリと頬を雫が伝って、少しだけ視界がクリアになった。一度目から溢れてしまえば、あとは簡単で、次から次へと雫が頬を落ちていく。
泣きたくなんかないのに。
好きだった人が、今日会社を辞めていった。
結婚して、相手の実家に近いところへ引っ越すのだと言う。
私は笑顔であの人を見送って、我ながら上手くお祝いできたと思っていたのに、独りになった途端にこれだ。
何で涙なんて出るんだろう。
あの人は幸せそうだったじゃないか。
相手だってすごく良い人そうで、きっとこれからも幸せでいられる。
あの人を幸せにするのは私じゃなかった、ただそれだけの話。
第一、私は1年も前に『恋人がいるから』って振られたじゃないか。それでもう諦めたはずじゃないか。
どんなに理屈を並べても、涙は全然止まってくれない。
私はただその場で、頬を伝っていく雫はそのままに、感情の波が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
休日の朝、ゆらゆらと現実と夢の狭間を揺蕩いながら、布団に包まれているとき、私は幸せを感じる。
特に春の朝。春眠暁を覚えずとは良く言ったもので、ぽかぽかとした朝、心地よい眠りに身を委ねている時の、あの幸福感といったら、他にない。
ただ平日より長く寝て、二度寝なんかしてみちゃったりして、特に生産性もなく過ごしているだけなのに、それがとても幸せで。
平日の朝は仕事に向かうために『起きなきゃ』と義務感で一生懸命眠いのを耐えてなんとかして起きてる自分としては、そんな何でもない小さな幸せでも、すごく大切なのだ。
春のあたたかな陽射しの中、君と2人、土の道を歩く。目の前には一面の黄色。菜の花畑が広がっていた。
不意に風が吹けば、目の前の黄色がふわふわとそよいで波打つ。降り注ぐ陽射しにキラキラとして、少し眩しい。
「綺麗だね」
隣の君が、風になびく黒髪を手で抑えながら、溢すようにそう呟いた。
その横顔は穏やかに微笑んでいて、とても綺麗だ。『そう言う君のほうが綺麗だよ』なんて、この場には野暮でキザなセリフが頭に浮かんだけれど、それは口には出さずに飲み込んで、僕は静かに「うん」と頷いて、繋いだ手をきゅっと握る。それに君は僕の方を見てふっと笑って、それがとても眩しかった。
穏やかで眩しい世界に、君と2人だけになったみたいだ。
春爛漫。風がまた優しく世界を吹き抜けていった。
「食べる?」
そう言いながら、君は白地に七色の豆型の粒が舞う細長い箱を差し出してきた。ジェリービーンズだ。7つの色に7つの味、たしか、フルーツ風味が多かった記憶がある。
「うん」
私は反射的に頷いて、君が差し出す箱のそばに手のひらを差し出した。
君がシャカシャカと箱を振る。すると、中からコロンと水色のジェリービーンズが手のひらへ飛び出してきた。
「ありがと」
そう言って、口にその水色の粒を放り込む。歯で噛み潰すと、甘いような酸っぱいようなどこか炭酸を想起させるような何とも言えない味がした。ソーダ味だ。私は思わず眉を顰める。ソーダ味の菓子は苦手なのだ。これに入っているとは知らなかった。
「あれっ、ソーダ味苦手だったっけ。ごめん!」
君が顔の前で両手を合わせて眉を下げる。私は、君にその顔をさせているのが申し訳なくて、
「平気だよ」
ととっさに笑顔を作って、嘘をついてみせた。のだが。
私の顔を見て、しばらく君は耐えるような顔をしたかと思えば、ついに小さく吹き出した。
「……ふふっ、ごめん、人の顔を笑うとか失礼だってわかってるんだけど、あんまり下手くそな笑顔だったからつい。無理しないで吐き出してもいいよ。それか、お茶飲む?」
どうやら私は笑顔を作るのに失敗していたらしい。君は申し訳無さげにしながらも笑いを抑えられない様子で、自分のリュックからペットボトルのお茶を取り出して私に差し出している。
私はそれを断って、口に残ったソーダ味のジェリービーンズを、そのままゴクリと飲み込んだ。味は多少口の中に残っているが、しばらくしたら消えるだろう。それよりも。
「そんなに変な顔になってたかなあ」
私はひとりごちながら、両手で自分の頬をムニムニと上下に揉んだ。すると、また君から笑いの気配。
「もおっ、またおかしな顔になってるよっ」
君は手で口元を抑えながら、抑えきれない笑いを漏らしていた。
それを見て、私は、頬を上に持ち上げたところで止めて、君の方へ向き合った。そして、目元に力を込めて、三日月型にしてみせる。
「やだっ、わざわざ変顔しないでよー!」
私の狙い通り、ついに君はお腹を抱えて笑い出した。「笑いすぎて涙出てきた」なんて言っている。
その様子を見て、私も楽しくなって、一緒に笑った。
七色の中から偶然飛び出してきた水色のジェリービーンズ。苦手な味のそれが、君のこんな笑顔を見せてくれるとは。偶然もいい仕事してくれるじゃん、なんて思った、春の午後だった。