風に乗って、ふんわりとやさしく、甘く爽やかな香りが鼻腔を擽る。あの花の香りだと、すぐにわかった。いつか君が「好きだ」と言っていた香り。あの頃君が好きだった私は、その「好き」の響きに密かにドキッとしたものだ。
もう君と会えなくなっても、この花の香りと共に思い出す。全力で君に恋してた、あの日々を。
心がざわめいて眠れない夜が偶にある。
理由を探ろうとしても、テレビの砂嵐みたいにノイズがうるさくて、本当の声は聞こえなくなってる。
どんなにノイズを消そうとしても、なかなか消えなくて、イライラしたり、泣きたくなったり。
もうどうしようもなくて、心のざわめきを抱えて、ただ布団の中で丸まっていることしかできない。
耐えて耐えて耐えて、じっとしていたら、大抵の場合は気づいたら眠れているし、朝起きたらざわめきは消えていることが多い。でも、どうしても眠れなくて朝を迎えて、絶望的な気持ちになる時もある。
そうやって絶望しても、昼間アレコレと動いていれば、夜になったら『あれってなんだったんだろう?』って思うくらいすっきり消えていることが多いから、不思議だ。
耐えて、受け流して、過ぎ去るのを待つ。
今のところ、私はそうやって心のざわめきと付き合っている。
ずっと、欠けた感覚があった。何をしても満たされない空虚感を抱え続けてきた。それがあの日、君に出会った瞬間に、消えた。
引っ越しの挨拶に来た君を見て、私は衝撃を受けた。初めましてのはずなのに、懐かしい感じがして、胸があったかくなって、欠けた部分が埋まる感じがした。
君もそうだったのかな。目を見開いて私を見た君は、次の瞬間にはほほ笑んで、私に右手を差し出した。私はその手をとって、握手した。お互いに名乗りあって、よろしくってあいさつして。それ以来、私達は四六時中一緒にいるようになった。
君と一緒なら、満たされた。
私はきっと、君を探してここまで生きてきたのだと思った。
隣を歩く君の手をきゅっと握る。君は優しい目で私を見て、そっと握り返してくれる。それだけで私は、この上なく幸せなのだ。
風が吹く。髪がなびく。肌に風を感じる。目に見えないのに、風の存在を感じて、そこを吹き過ぎていったことが分かる。
目に見えない透明なものでも、私達は知覚できる。それができる感覚が備わっている。この世界で起こった些細なことにも気づける力がある。
生きていたら当たり前で何でもないことかもしれないけれど、私には、それが素敵で奇跡的なことだと思わずにはいられないのだ。
「本日はご来場いただき、誠に、ありがとうございました!!!」
舞台の上で横並びになって、キャスト一同手を取り合い、お客様へ向かって一斉に一礼する。
舞台の大千穐楽。稽古期間も含めて、長い時間付き合ってきた役とも、これでお別れだ。
俺はまた別の舞台で、違う役に身を包む。
役者の仕事は、終わりとはじまりの繰り返しだ。
1つの舞台で1つの役の人生を一生懸命生きて、その幕が閉じれば、また、違う役の人生を生きる。
俺は俺であり続けながら、新生し続けている。
終わり、また初まる、この生き方が、俺は好きだ。