小さな娘と手と手を繋ぐ。柔らかくて小さくて可愛い手。この子の小さな身体には、どれだけの可能性が秘められているだろう。この子は、これから、何にだってなれる可能性がある。可能性は無限大で、まるで宇宙のように広がっている。私の手のひらは今、宇宙と繋がっている。
この宇宙の広がりを妨げることなく、この子が将来この子なりの星を掴む、その時の為に、私は生きたい。
手のひらの宇宙を優しく握りながら、私はそんなことを思うのだ。
姉と姪と私で、川沿いの桜の並木道を歩いて花見をしていたときのこと。
姪のヒナタは風に舞う花びらを自分の手で捕まえようと、繋いだ姉の手を振り切る勢いで、あっちにぴょんぴょん、こっちにぴょんぴょんしていた。
私は2人の前を歩きながら、ゆっくりとした足取りで桜並木を楽しむ。木々を彩る薄紅も、枝から離れた花弁も、どちらも何か心の深いところに訴えかけてくるような風情があった。
「あ!エミねえちゃん、いいなー!」
急に、後ろを歩いていたヒナタが声をあげた。なんだろうと振り返ると、ヒナタは私の背中辺りを指差しているようだった。
「エミねえちゃん、かみに花びらついてる!かわいい!」
どうやら、私の背中辺りの髪の毛に、いつの間にか桜の花びらがくっついていたらしい。
「ね、ね、とっていい?ヒナタそれほしい!」
手を一生懸命私の背中に伸ばしながら言ってくる姪が可愛くてしかたない。私は緩んだ顔で「いいよー」と言いながら、その場に立ち止まり、しゃがんでヒナタに背中を向けようとした。
その時だった。
ぴゅーと風が吹いて、また桜の花びらが舞った。その中の1枚がひらりひらりとやってきて、風のいたずらのように、ヒナタの小さな頭の上に乗った。
「ふふっ」
私と姉が同時に笑った。1人だけ訳の分かっていないヒナタは、きょとんとしている。
「今ね、ヒナタの頭の上に花びらが乗ってるのよ」
姉が言うと、ヒナタは慌てて自分の頭の上を繋がれていない方の手で探ろうとした。
「ヒナタ、待って」
その様子では間違って花びらを払い落としてしまいそうだったので、私はその手を掴んで、そっと頭の上の花びらに誘導してあげた。指に触れた花びらに気づいたヒナタは、それを掴んで自分の目の前に持ってきた。
「わ、花びらだー!花びらゲットできたー!」
ヒナタはその場でぴょんぴょん跳ねて喜んだ。ヒナタと繋いだままの姉の手は、その動きに合わせて激しく上下している。それを嫌がることもなく、姉は微笑んでいた。私もその2人の姿を見て、あたたかい気持ちになった。
私はあの日、君とのお別れが寂しすぎて離れがたくてつらくて泣いていた。たぶん君も泣いていたと思うけれど、私は君の泣き顔を見るのが嫌で、君の顔は見なかった。だから、最後に君がどんな顔をしていたのか覚えていない。
どんな顔で泣いてたのか。その涙はどんな色を映していたのか。私には分からずじまい。思い出すのは別れが決まる前の笑顔。純粋な君のことだから、涙はきっと恐ろしいほどに透明で美しかったんだろう。やっぱり見なくてよかった。そんな透明な涙を目にしてしまったら、私はもう何もかも捨てて君のそばにいたくなっただろうから。
週末に山登りに行こうとあなたと約束したその日に、私は交通事故に遭って脚を骨折した。なんてタイミング。ツイてなさすぎ。あなたは、私が無事であったことをすごく喜んでくれて、それは嬉しかったけど、約束を守れなくなったことに私はすごく申し訳なくて、めちゃくちゃに落ち込んだ。
私が「ごめんね」と謝ると、あなたは「気にしないでいいんだよ。今は無理でも、頑張って治せば一緒に行けるじゃないか」と言ってくれた。
そこで、私は決意した。リハビリ頑張って、早く歩けるようになって、あなたと登山に行くんだ、って。
リハビリの始めはつらかった。うまくいかないことばかりで、痛いこともあった。本当にここからまたうまいこと歩けるようになるのか?って焦る気持ちばっかりで、それを何とかかんとか落ち着けながら、地道に頑張った。
あなたはリハビリに付き合ってくれようとしたけれど、悔しさや痛みに顔を歪める姿なんて見られたくなかったし、自力で立って歩けるようになるまでは会いたくなかったから、断った。
それから時は経ち、やっと、杖もなく脚を引きずらずにまっすぐ立って歩けるようになった。
私は、2人でよく散歩していた公園にあなたを呼んだ。私は、ベンチに座ってあなたを待った。
「久しぶり!」と明るく手を振りながらあなたがやってきた。私は数メートル先のあなたへ手のひらを向けて待ったをかけ、その場で立ち止まってもらう。あなたは少し怪訝な表情で立ち止まった。しかし、その表情は、私がベンチからすっくと立ち上がった姿を見て、驚きの表情に変わる。
私は、あなたを見つめて、あなたのもとへ、一歩一歩きちんと踏みしめ、確かな足取りで向かっていく。こうして歩く姿をあなたに見せるのは久しぶりだから、すごく緊張した。
あなたは、両の拳を握りしめて、固唾を呑んで見守ってくれているようだった。
数メートルの道のりを終え、あなたの目の前に立つ。あなたは少し涙ぐんでいた。
「リハビリ、頑張ったんだね。感動しちゃった」
あなたが言う。その表情は泣き笑いだ。まったく、大げさなんだから。
「うん、頑張った。まだ山登りは無理だけど、もっとトレーニングしたらできるようになるよ。その時は一緒に行ってね」
私はそう言いながら、一歩前へ出て、あなたの首に抱きついた。
あなたは優しく抱きとめて、労うように背中を撫でてくれた。
「ぅえっ!?テントウムシ!?」
俺がダイニングテーブルでまったりコーヒーを飲んでいると、隣の和室でお昼寝をしていたはずの姉の小さな叫びが聞こえてきた。俺は一旦マグカップを机において、和室の襖を開けた。
「どした?」
「テントウムシ!テントウムシいんの!」
姉は中途半端に身を起こして、何かを必死に指差している。
窓から差した日でできた日溜まりの中心に、小さな点が見える。
俺は一応抜き足差し足で近づいてみた。しゃがんでよく見てみると、確かにそれは赤い地に黒い斑点のある羽の、テントウムシだった。
「どこから来たんだろね」
俺が素朴な疑問を口にすると、姉は肩をすくめて、
「わからん。でも、目覚めた人間の顔の真ん前にいるのはやめてほしかった……」
とこぼした。なるほど、目覚めたら眼前にテントウムシがいたのでは、叫び声も上げたくなるか。
「姉ちゃん、虫苦手だっけ?捕まえて逃してやればいいじゃん」
「昔は平気だったけど、大人になってダメになったんだよ〜〜〜。ユキくん、どうにかして〜〜〜」
姉は中途半端な体勢のまま、俺の足に縋り付いてきた。その場を動くのすら怖いらしい。
俺は和室の中を見回した。昼寝のために脇に追いやられたであろう机の上、ティッシュペーパーの箱があった。俺は姉の手から離れて、ティッシュペーパーを1枚取りに行った。そして、テントウムシに近づいて、先ほどからちょこちょこと動き回っていたテントウムシの進む方向に、ティッシュを差し出してみる。うまく乗ってくれるか、固唾をのんで見守っていると、テントウムシは思惑通り、ティッシュの上に乗ってくれた。テントウムシがティッシュの中ほどまで進んだところで、ティッシュをそっと持ち上げた。
そのまま、すぐそこの窓まで運んでいく。テントウムシが落ちたり飛んでいったりしないように祈りながら、慎重にそっとそーっと運んでいった。
俺の行動を先読みしていたらしい姉が、変な体勢からいつの間にか起き上がって、窓を開けようとスタンバっている。
ちょうどいい位置まで来たとき、俺は姉に目で合図した。姉は、窓を少し開けた。俺は、素早くティッシュを持った手を外に突き出し、ティッシュの裏からテントウムシをデコピンした。テントウムシはびっくりしたように飛び立って、近くの草の方へと飛んでいった。
俺は腕を部屋の中に戻し、姉は窓を再度閉めた。
「さんきゅ、よくやった、弟よ」
そう言いながら姉が手のひらをこちらに向けて腕を掲げた。俺はその手のひらに自分の手のひらを合わせて、パンッと音を立てて、ハイタッチした。
「どういたしまして」
たったこれだけのことなのに、ひと任務やりきったような、妙な達成感があった。