朝、何となく身体がだるかった。ボーっとする頭でリビングへ向かうと、机の上に朝食が用意されていた。母は今日も私より早く家を出たようだ。いつものことだ。私はひとり、椅子に座って朝食を摂る。何だか、いつもより食欲が無い気がする。昨晩あまりよく眠れなかったせいだろうか。最近は朝晩冷え込むから、夜の寝つきも悪くなっている。今朝もそういうわけで寝不足だった。
だるい身体をのっそり動かして、学校へ行く準備をした。制服に着替えて学校指定の鞄を持って、誰もいない家に向かって小さく「いってきます」を言った。
学校に着いて、いつも通り友達と挨拶を交わして、雑談をする。
「それでね、あの人がさー、……って、麻木、聞いてる?」
友人が私の顔の前で手のひらをブンブンと振った。私はハッとして「聞いてる聞いてる」と答えたが、実際はちゃんと聞いていなかった。ボーっとしてしまっていたようだ。
「ほんとかー?ボーっとしてたわよ、あんた。具合でも悪いの?」
そう訊かれて、寝不足なことを言うと、「あんまりきつかったら保健室で寝てくれば?」と言われた。
「いや、大丈夫」と返すと、友人は元の話題に戻っていった。
そこから朝のホームルームと、1時間目の数学をこなした後。身体のだるさが朝よりも増して、頭痛もしてきた。何となく熱っぽい気がする。
今朝話をした友人に、「やっぱヤバそうだから保健室行ってくる」と告げて、教室を出た。
「あら、麻木さん。どうしたの?」
保健室の先生は微笑んで、優しく迎えてくれた。
寝不足で朝からだるかったこと、頭痛までしてきたこと、熱っぽい感じがすることを答えると、先生の眉が心配そうに下がる。
体温計を差し出されて、測ってみたら、37.1度。微熱が出ていた。
風邪じゃないかと、頭痛とだるさ以外の症状もチェックされたけれど、他は問題ない。
「うーん、やっぱり寝不足のせいみたいね。どうする?寝てく?」
先生が優しく問いかけてくれる。私は、コクリと頷いた。
保健室のベッドに上がる。うちの布団よりもふわふわで、お日様の匂いがした。掛け布団を被って仰向けに寝る。あたたかい。
「1時間くらいしたら起こしてあげるからね。おやすみなさい」
先生は掛け布団がしっかりかかるよう整えて、優しく微笑んだ。その微笑みもあったかくて、瞼は自然と下がっていった。
夢を見た。昔、風邪を引いた時に、母に看病してもらったときの夢。寝ている私に母はずっと寄り添ってくれていて、いつ目を覚ましても視界に母がいる。私はそれにひどく安心するのだ。
「麻木さん」
名前を呼ばれて目を開けると、そこにいたのは保健室の先生だった。夢のせいか、一瞬母かと錯覚した。母だったら、私を『麻木さん』なんて呼ばないのに。
「具合どう?」
問われて、自分の身体を確かめてみる。頭痛はおさまった。だるさも軽くなった気がする。先生が差し出した体温計を受け取り測ってみると、36.6度。平熱だった。
「よかった。そしたら授業戻れそうかな?」
「はい。ありがとうございました」
ベッドから出て、制服を整えると、保健室の出口へ向かった。ドアの前で立ち止まって、またお礼を言うと、先生は優しく微笑んで、言った。
「いってらっしゃい」
久しく聞いていなかったその言葉に、胸の中にブワッと何かが広がって、一瞬泣きそうになった。耐えて「いってきます」と返し、保健室を出る。
教室へ廊下を歩きながら、私、寂しかったんだなあ、と自覚した。机の上にポツンと置かれた少し冷めた朝食も、誰も言ってくれない『いってらっしゃい』も。しょうがないとわかっていても、寂しくて、心細かったのだ。
もっと、母と話がしたい。母の次の休みは、たくさん話をきいてもらおう。私はそう決意した。
小学校3年生くらいまで、私は昼休みには外に出て遊ぶタイプだった。
マイブームみたいなものがあって、ずーっと同じ遊びをしていたわけではなかった。
みんなとサッカーをしてボールを追いかけたり、竹馬でどこまで高いのに乗れるか挑戦したり、友達の1人と雲梯で遊んで手に豆を作ったり、鉄棒にぶら下がってひとりでボーっとしたり。どれも楽しかった。
いつからだろう。昼休みに外に出ずに、部屋の中で本を読むようになったのは。
元々、雨の日はよく本を読んでいた。それが晴れの日も読むようになって、どんどん読書の頻度が増えた。6年生になった今は、ほぼ毎日読書している。最初は昼休みだけだったのが、今は本を借りて家でも読むようになっていた。
太陽の下、身体を動かすのは気持ちいい。その楽しさも忘れたわけじゃない。ただ、本の中の世界に入り込んで、違う太陽の下冒険するのも、私にとって同じくらい楽しかった。
本の中では、空の色が違ったり、太陽が2つあったり、いろんな空と出会えた。
放課後、本の重みを鞄に感じながら、帰路を歩く。
この本の世界は、どんな世界だろう。
赤い太陽の下で、私は期待に胸を弾ませた。
その朝は寒かった。いつもより遅い時間に目覚めた私は、布団の中と外の温度差にうんざりしながら身体を起こした。
今日は休日。これから映画を観に行く予定だ。
枕元に置いた着替えを引き寄せる。
下半身を布団に突っ込んだまま、もそもそとパジャマのズボンを脱ぎ、防寒のためのタイツと、靴下を履き、黒のスキニーパンツを身につける。
上半身は、両腕でパジャマの裾を掴み、上に持ち上げてガバリと脱いだ。途端に肌に冷たい空気が接触して、ぶるりと震える。慌てて下着とシャツを身に着けて、更にその上に青いセーターを着た。セーターはふわふわとして暖かい。ホッと息を吐いた。
大きく伸びをして、朝食を食べるために立ち上がる。布団は適当に畳んで、部屋の隅に寄せた。脱ぎ散らかしたパジャマは、洗濯物のかごの中へ入れる。
トーストとインスタントのコーンスープを食卓に並べた。
「いただきます」
と手を合わせて、食べ始める。
テレビを点ければ、今日は今年一番の寒さだとか、感染症に注意!だとか、そんなニュースがやっていた。
10分くらいで朝食を食べ終えたら、歯磨きをして、ドレッサーの前に座り、メイクをした。
今日のセーターの青と似た系統の色を意識して選んで、目元を彩る。
メイクを終えたら髪を整えて、最後に改めて鏡の中の自分と向き合う。
「よし、今日もいい感じ!」
鏡に向かってニッと笑って、立ち上がった。
コートとマフラーを身に着けて、鞄を持って、お気に入りの靴を履いた。
玄関前の姿見で最終確認して、玄関を出る。
鍵を閉めて振り返ると、気持ちのいい青空が視界に入ってきた。カラッとした冬晴れだ。それが、今日着たセーターと同じ色で、ちょっとうきうきした。
今日も良い日になりそうだ。
山の中のキャンプ場。周囲に大きな灯りのないここでは、星がよく見える。
今日は新月で、月明かりもなく、特によく見えた。
満天の星空だ。
無数に散りばめられ闇を彩る星々たちは、美しすぎて、畏怖すら感じさせる。
両腕を広げて、その光を一身に受けた。
星空に吸い込まれる。光の粒のすき間の闇へと、落ちていく。見上げているのに、そう錯覚した。
落ちていく、落ちていく、落ちていく――。
自分が宇宙の一部であることを強く感じ、心が高揚した。
休日の昼、リビングでのんびりテレビを見ていたら、自分の部屋に籠もっていた夫がリビングに入ってきた。
「なあなあ、これ見てくれよ」
私に見せるように、何かを差し出している。それは、本のようなものだった。表紙をよく見ると、『アルバム』の文字。端の傷み具合などから察するに、結構古いものに見える。
「アルバム?いつの?」
「そう、アルバム。それもまだ結婚して2、3年くらいのやつ!」
「10年以上前のってこと?」
「そうそう!部屋の整理してたら見つけてさー、めちゃくちゃ懐かしい写真だらけだよ!」
夫は興奮した様子で、アルバムを開いて見せた。
夫が開いたページには、巨大なダムを背景に私たち2人が一緒に写った写真があった。
「これ、黒部ダム行ったときのじゃない。懐かしい!」
「だろだろ。このとき、めっちゃ暑かったよなあ」
「そうだったねえ。でも、そのおかげでダムの放水がすごい気持ちよかったんだよね」
「うんうん」
ページを捲る。
「あ、これ、秘境の温泉行ったときのじゃん」
「あー、これな。マジで秘境だったよな」
「山の中だったもんねえ。ここ、露天風呂が離れてて、夜に森の中歩かなきゃいけなくてちょっと怖かった」
「露天風呂までの道、マジで怖かったよなあ。その道で本当に合ってるのか不安になったもん、俺」
「あれは不安になるよね。露天風呂自体は最高だったんだけど」
「確かにあれは最高だった」
ページを捲っては、写真から溢れてくる思い出に、ふたりして浸って、たくさん語り合った。
アルバムを全部見終わる頃には、青かった空は橙色に染まっていた。
夫とともに、2人で過ごした思い出を振り返る時間は、とても穏やかで楽しかった。
「最近旅行行けてないな」
「そうだね。また行きたいな」
「近い内に行こうよ。行きたい場所考えといて」
夫がそう言って微笑んだ。私もそれに頷いて、微笑み返す。
この人と、たくさんの思い出を共有してきた。この人とは、楽しかったこともつらかったことも、笑って振り返ることができる。
これからもこの人とふたりで、思い出を積み重ねていきたいと、強く思った。