「香水」
そろそろ八月も終わりだというのに、太陽に焼かれそうなほどの暑さは衰えることを知らない。この炎天下の中、歩いて家に帰らないといけないなんてどうかしてる。出かけるのをもっと夕方にすればよかったな……。暑さに限界でどこか涼しいところで休もうとあたりを見渡すと、見覚えのない店が目に入った。最近できたんだろうか。ベージュ色の外観で、きれいに咲いた花の鉢植えが飾ってある、こじんまりとしていてかわいいお店。丸いショーウィンドウには色とりどりの硝子の小瓶が飾ってあった。
『本物仕立ての香水売ってます』
立て看板には丸っこい文字でこう書かれていた。どういうことだろう。香水の本場から輸入してるのかな。いったい何が本物なんだろう。興味がわいてきて、涼みがてら店に入ることにした。
店の中は柔らかい白の照明で照らされていて、机や棚に所狭しと香水の瓶が置いてあった。びんの横には小さな紙が置いてあって、香水の説明が書いてある。見てみると「焼きたてのフランスパンの香り」とか「摘みたての苺の香り」とか「お菓子屋さんを通りかかったときにするバターの香り」とか、普通の香水にはないような香りが多い。というか、焼きたてのフランスパンの香りを漂わせている人ってどうなの?嫌な香りではないけど、なんだか不思議なお店。
「いらっしゃい、可愛いお嬢さん。香水に興味がおありかい?」
店の奥から白いひげを蓄えたちいさなおじいさんが出てきた。まるで白雪姫に出てくるこびとみたい。店主だろうか。
「そこはおいしい香りのコーナーだよ。気になるのがあったらかいでみるといい」
正直どんな香りなのか気になっていたので、「摘みたての苺の香り」のテスターをかいでみた。
そっと鼻を近づけた瞬間、さわやかで甘酸っぱい苺の香りが鼻を通り抜けた。甘いだけじゃなく、うっすらと葉っぱの少し青臭い香りと土の香りもする。しかしそれが苺の香りを邪魔しているのではなく、まるでたったいま苺狩りをしていて苺を摘んだかのように感じるのだ。
「す、すごい……」
思わず声が漏れた。これが本物仕立てという意味なのか。日常の一コマからそのままもってきたような、自然の香りだ。
おじいさんが自慢げにうなずいた。
「ふふふ、そうじゃろう。私が世界各地を飛び回って見つけたとっておきの香りをつかっておるからね。他にもいろいろあるよ。これとかどうかね。若いお嬢さんにはちと地味すぎるかな」
おじいさんがさしだした瓶には「夏の森の中の香り」とある。
そっとかいでみると、木々や草、岩やかすかな水の香りがただよってくる。においをかいだだけなのに、マイナスイオンというのか体が冷えて涼しくなるように感じる。本当はそんなことないのに、今夏の森の中にたたずんでいるような気持ちだった。
感激している私を見ておじいさんがほほえむ。
「本物の香りを閉じ込めて作ってあるから、いい香りがするじゃろう。すぐ香りが消えてしまうのが玉に瑕じゃが、気分転換に使う分には問題ないよ」
「だから本物みたいな香りがするんですね」
いいながら店内を見渡すと、店の端っこに隠すようにおかれた小さな棚を見つけた。そこにもたくさんの香水がおかれている。私が小さな棚に近づくと、おじいさんは嬉しそうな顔をした。
「おお、その棚に気づいたか。そこはちょっと癖があるがいい香りが集まっておるぞ」
「古びた遺跡の香り」、「新築の香り」、「鉛筆を削ったときの香り」などなど、確かに癖が強いものが多い。嫌いな人もいるけれど、癖になってついかぎたくなっちゃう人もいるような香りたち。
試しに「古びた遺跡の香り」をかいでみたら、じめっとして土や苔の入り混じった香りがした。古い、こもったような、でも歴史を感じる重厚な香り。
店の中を一通り見た時には、私はすっかりこの店を気に入っていた。一番気に入った「夏の森の中の香り」を持ってお会計に向かった。
おじいさんは私が選んだ香水の瓶を愛し気に撫でる。
「お嬢さんはお目が高い。この香りはわたしのお気に入りだよ。世界中の森を探して手に入れたんだ。大事にしておくれよ」
「ええ、もちろんです」
深緑色の袋に入れられた香水を持って、私は微笑んだ。
「また、来ますね」
外は相変わらずうだるように暑かった。でももう嫌じゃない。暑い時にこそ、今日買った「夏の森の中の香り」の出番なんだから。明日出かけるときにはこの香水をつけていこう。憂鬱だったお出かけが少し楽しみになった。
「言葉はいらない。ただ…」
僕からの告白にほほを赤らめうつむく彼女。それきり何も言わないことに僕は焦る。驚かせてしまったか。彼女はゆっくりと顔をあげ、微笑んでいった。
「嬉しいわ。私たちの間に、言葉はいらないわよね」
僕の心は湧きたった。つまり、それって……!
「さあ……いくわよ!」
彼女は覚悟を決めたのか、凛々しい表情でフンと腕を曲げた。そのまま力を入れると、彼女の体はめきめきという音とともにみるみるうちにまるで餅のように膨らんでいく。あっという間に彼女の体は鋼のような筋肉でおおわれた。
僕はあまりの出来事にぶるぶると震える。なんだこれは。いったい何が起きている?
彼女が、その美しい本来の姿を見せてくれる時が来るなんて!
感激して武者震いが止まらず、熱い涙があふれてくる。ああ、これだ。僕が見たかった、愛している筋肉だ。
そう、僕たちに必要なのは言葉じゃない、ただ筋肉があればいい!僕も自分の体に力を入れて筋肉を開放する。君にあこがれて、必死の筋トレを続けて手に入れた黄金の肉体。
さあ、語り合おう、筋肉で!
「突然の君の訪問。」
「いってきまーす!」
元気よく母親に挨拶して、私はバイトに行こうと玄関の扉を開いた。そして次の瞬間、私はご近所中に響き渡るような悲鳴をあげる。
「ゆ、雪子、どうしたの!変質者でも出たの!?」
尋常じゃない金切り声に、母親がおたまを持って走り寄ってきた。
「お母さんやばいやついるっ!めっちゃやばい!どうしようやばい!」
あまりの焦りに語彙力がギャルみたいになってしまった。しかしやばいしか言えなくなるのもしょうがなかった。だって、扉と床の隙間の今にも家の中に入りそうなところに、おそらく日本の全家庭で出禁になっている、黒光りした’’ヤツ’’が挟まっていたからだ。
遅れてやってきた母もかわいらしい悲鳴を上げた。
「きゃあっ、こんなところに’’ヤツ’’が!待ってなさいすぐやっつけるからね」
母は驚くほど俊敏に殺虫剤を持ってきて’’ヤツ’’が完全に動きを止めるまで噴射し続けた。ちょっとやりすぎな気もするが、’’ヤツ’’は招かれていない人の家に突然押し入ろうとしてきたのだ。これくらいの報いは受けて当然だろう。
母はさっさと’’ヤツ’’を処理し、やだわぁ怖かったわねぇ、と吐息を漏らした。その見事な手つきに私は感心する。私は突然の’’ヤツ’’の訪問に震える事しかできなかったのに、母は強い。私は改めて母に深い感謝の気持ちを抱いた。それと同時に、最近面倒で片づけていなかった自分の部屋の存在を思い出す。今回’’ヤツ’’は玄関で発見されたが、もし私の部屋にもやってきたら、と考えて血の気が引いた。母が部屋を片付けなさいというのをうるさいなあ、と無視していた私を殴りたい。そして母、ありがとう。
私はバイトが終わったらすぐに部屋を片付けようと決心した。
「鳥のように」
今日も鳥は元気に、うるさいほどにさえずっている。
辛い仕事が終わり、帰宅ラッシュの満員電車も乗り越えて、俺は最寄り駅に到着した。その最寄り駅では毎夜街路樹に鳥の大群が群がっていて、俺はほとほと辟易している。数えきれないほど多くの鳥を含んでいる街路樹は、その真っ黒い影をゆらゆら揺らめかしていて不気味だ。鳥は迷惑だ。まず、うるさい。次に、朝出勤しようと駅に来ると道がフンでびっしりになっていて汚い。あと、なんかむかつく。
俺は毎日、死にてー、とつぶやきながら仕事を頑張っているのに、鳥はきっと死にたいなんて思った事は無く、自由に飛んで、さえずって、フンをしている。俺は人にどう思われているのか気になって仕方ないのに、鳥はそんなこと全く考えていないだろう。そのことがむかつく。そして、これは憧れでもあるんだろう。俺も仕事なんてしないでただ本能に任せて、何も気にせず、鳥のように生きられたらよかったのに。人間なんて全くくそくらえだ。世の不条理さに腹が立って、怒りのままにずんずん歩いていると、石に躓いてすっころんだ。かたくて鳥フンだらけの道に頭から落っこちる。
「いってぇ~……」
ぱっと起き上がれないくらい痛かったが、口から出たのは小さな悲鳴だけだった。こんな時でも、急に叫んだら変な人だって思われるかなぁ、なんて人の目を気にする自分に笑いが込み上げる。痛いときくらい思いっきり叫べよ。どうせ誰も俺の事なんて気にしてないだろ。現に人ごみの中でこんなに思いっきりすっ転んで痛そうなのに、みんな見て見ぬふりじゃないか。恨み節を吐くうちに、だんだん意識が遠くなってきた。どうも悪いところを打ってしまったようだった。人々の喧騒が聞こえなくなっていく。ああ、誰か俺のことを心配してくれればいいのに。そう思ったのを最後に、俺の思考はぷつんと途切れた。
「おーいこんないい天気の時に寝てんじゃねえよ、お前は誰が好きなんだよ!」
突然キンキンとうるさい声に怒鳴られ、何か硬くて細いもので腕を殴られて目が覚めた。
「うるさいな寝かせてくれよ、忙しくて恋なんてしてる暇ないんだよ」
イラっとして反射的に言い返してからぱちりと目を開け、俺は信じられない光景を見た。
まずここ、めっちゃ高い。俺は三階建てのビルくらい高いところにはってある細い糸の上に立っているのだ。こわ!そして周りは鳥だらけ。胸焼けするほどに鳥がいる。最後に殴られた腕を見てみると、そこに腕は無かった。あるのはふわふわした茶色い羽毛である。
「おい黙ってんなよ。お前それでも鳥か?鳥は一秒も休まずにしゃべってるもんだぜ」
俺に話しかけているのも鳥。どうやら俺は鳥になってしまったようだ。とんでもない事だが、俺は妙に冷静だった。多分これは夢だ。
「俺の一推しはあの子だな、ほら、あのひときわ毛並みのつやがいいメスだよ」
諦めずに話しかけてくる鳥が遠くを指さす。確かに他の鳥に比べてつやつやした鳥がいる。
「ああ……まあいいんじゃないの」
われながら気のない返事だ。でも俺は恋バナに全く興味がないのでしょうがないだろう。恋する気持ちは、つらくてたまらない仕事を何とかこなしているうちにどこかに行ってしまった。
「そんな返事ねえだろぉー⁉つまんねえな。お前は誰が好き……ってあっ、美味そうなもん見っけ!」
いうやいなやばさばさと飛び立った。やれやれ、忙しいやつ。鳥ってみんなこんな感じなのか。
俺はしばらくぼーっとしていた。俺がいるのは電線の上らしかった。鳥たちはあわただしく飛んで行ったり戻ってきたり、誰かと話していたかと思えば違う鳥と話し始めたりとせわしない。最初は引き気味で眺めていたが、どうせ夢なんだから俺も自由にやろうと思いついた。
とりあえず飛んでみる。思ったよりも気持ちがいい。次にちゅんちゅんと鳴いてみた。周りがうるさいので、心置きなく鳴ける。鳥たちは俺の事なんて全く気にしていなかった。かと思えば、初めて会う鳥がいつの間にか隣を飛んでいて勝手に競争になったりもした。相手がちゅんちゅんと話しかけてくるから少し話す。そしてまた違う鳥と話す。何をするにも自由な鳥の生活は気楽だ。
「あの、大丈夫ですか?頭思いっきり打ってましたよね。救急車呼びましょうか?」
気づけば、人のよさそうな、少し頼りない顔をしたスーツの若者が俺の顔をのぞき込んでいた。人間だ。やはり鳥になったのは夢だったのか。頭はまだずきずき痛んだが、気を失った時のようによくないところを打ってしまった感じはしなかった。
「大丈夫です。すみません、ご心配をおかけしました」
「いえいえ、無事ならよかったです。仕事終わりって疲れますよね。僕も何もないところでつまづいたことありますよ」
屈託なく笑う若者を見て、俺のすさんでいた心が澄んでいく。いたんだ。俺を心配してくれる人。
もしかしたら俺が人を拒んでいたのかもしれない。どうせ誰も理解してくれないし、変なことをしたら指をさされるって。でもそうではないことを鳥たちとこの若者が教えてくれた。
「そうなんです。疲れたのか、鳥になった夢を見ましたよ」
「あはは、いい夢ですね」
知らない若者とする世間話は意外と楽しかった。世界は思ったより悪くない。
「夜の海」
生きるのがつらい。
最近毎日のようにそう考える。
特に学校に行くのがつらい。
受験生の時は確かにここに行きたいと思って、決して楽ではない受験勉強をがんばって、見事第一志望に受かって入れた学校だった。受かったときはもちろんうれしかったし、これから楽しい高校生活が待っているのだろうと信じていた。
でも、そんなことは無かった。スタートダッシュを失敗した私には友達ができなくて、あっという間にひとりぼっちになった。もともと人見知りな私はすでにできつつある仲良しグループに入ることができなくて、ああこれからの高校生活ずっとぼっちなんだと分かってしまった。友達がいないというのは些細なことのようで、私には重大な問題だった。ただ静かに機械的に学校に行くうちにどんどん学校に行くのがつらくなって、生きていたくないと思うようになって、とうとう今日学校をさぼってしまった。
学校の最寄り駅についても降りなかったのだ。降りたくなかった。妙に反抗的な気分だった。このまま終点まで行ってやろうと意気込む。確か終点まで乗ったら海につくはずだ。行こう、海に。学校なんて死ぬほどつまらないところに行くよりずっといい。気が大きくなった私は学校に嘘の欠席連絡をして、電車に揺られ続けた。海は結構遠い。
『終点~終点~』
いつの間にか眠ってしまっていたようだった。車内アナウンスの声で目を覚ます。もう着いたのか。慌てて車両から降りて、私は目を見開いた。駅のホームからもう海が見える。青く輝き、どこまでも広く続いている海が。朝の重苦しい気持ちはすっかり消えて、ワクワクしてきたのを感じた。駆け足気味で駅を出て、海に向かう。
春の日の朝だからか、海にはほとんど人がいなかった。ただ制服姿でいるのはやはり少し気まずいので、人がいない方向を目指して砂浜を歩く。砂浜は真っ白で、きらきらと光っていた。一歩歩くごとにが足を優しく包み込んでくれて気持ちがいい。
そこで私は、岩影に隠れるように座っている不思議な人を見つけた。水着を着ていて、髪の毛が水色の女の人。ただの変わった人だと思って気づかれないように後ろを通りすぎた時、目の端にちらりと青い光が見えた。気になって振り返ると、なんと女の人の下半身が青くてきらめくうろこでおおわれているではないか。まさか、人魚?思わずまじまじと見つめていると、目が合ってしまった。女優さんみたいにきれいだ。女の人はにこっとして手をふる。
「あら、かわいい人間の女の子。こんにちは」
返事もできずに固まっていると、その人はきょとんと首をかしげた。
「もしかしておはようの方が良かったかしら?ごめんなさいね、陸の文化には不慣れで困るわ」
「あ、あのぅ……ほんとうに人魚、なんですか」
「もちろんよ。他にどう見えるっていうの?」
人魚さんはぷうっと頬を膨らませる。こんな顔もするんだ。人魚さんはすぐに笑顔になって、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「そんなことより、私人間のお友達が欲しかったのよ。ほら、おしゃべりしましょう?」
いつもならこんな誘い絶対乗らない。正直怪しくてたまんない。どこの誰なのか、ほんとうに人魚なのかもわからないんだもん。でも、今日の私は学校をさぼった不良少女だ。ダメなことでも楽しそうならやってみたくなる。私は人魚さんの隣に座った。人魚さんからはほんのり磯のにおいがした。
それから私たちは色んな事を話した。人魚さんと私は意外に気が合った。きれいで、広くて、なんでも受け入れてくれそうな海をみながらするおしゃべりは楽しかった。そんな海から来たからか、人魚さんの心は広くて明るくて、話しているだけでもやもやする気分が晴れていく。気づけば私は学校のことも話していた。
「高校デビューに失敗して、クラスに友達一人もいないんです。何しても一人で、さみしくて、学校行きたくなくなっちゃって。こんな理由でって思うかもしれませんけど……」
私の愚痴を聞いて、人魚さんは柔らかく微笑んでいった。
「できたじゃない。友達一人。私とあなたは友達でしょ」
「友達」
「そうよ。それに、きっと高校でも友達できるわ。まだ春じゃない。チャンスはいっぱいあるわよ」
「無理ですよ。だってもうクラスでグループで来てるし、部活でもそうだし」
「グループにも話しかけてみればいいのよ。きらわれてるわけじゃないんでしょ」
「無理ですよ……っ。そんな勇気、とても出ない!」
つい声を荒げてしまう。でも人魚さんはゆるぎない瞳で私をじっと見つめ、断言した。
「できるわよ。あなたは学校さぼって一人で海に来る行動力があるんだから」
それに私もいるでしょ、とふふふと笑う。不思議なことに、できる、と言われるとできる気がしてきた。結局私は勇気を出すことを怖がって、もう無理だと言い聞かせて諦めようとしていたのかもしれない。まだできることはあるのに。
「私、やってみます」
私はつぶやいた。いったいどれだけ話していたのか、暗くなってきた海を見る。そろそろ日が暮れる。
人魚さんは力強くうなずいた。
「きっと、できるよ」
空には星が瞬き始めていた。昼の海とは違う、落ち着いた雰囲気。
うん、私はきっと頑張れる。そう思えた。