目を覚ますと、そこは白い世界だった。
白い天井、白いカーテン、白い布団、そして白い包帯が巻かれた左手首。
(ここは――病院?)
意識がだんだんはっきりしてくる。
(先程まで見ていたのは夢だったのか――?)
まだ少しまどろみの残る頭で考える。薄く残った景色の残滓は、たくさんの客が入ったホールで、僕があんなに練習していた難関曲を弾き遂げたシーンだ。拍手や歓声、掠れた指笛まで聞こえていた。
(夢だったのなら、あの音の正体はなんだ?)
疑問に思い音のする方へ顔を向ければ、どうしてそんな夢を見たのか自明だった。夢で聞こえたのと同じような音が外でしていたからだ。
窓の外では、薄いカーテンのように雨が降っており、時折風で煽られては窓を叩く。拍手が強弱して聞こえていたのはこの音のせいだろう。
(なんだ、夢だったのか……)
ようやく叶えた悲願が夢だったと知り、大きく息をついた。それは無念さだったのか、安堵だったのか、自分でもよくわからない。
確かにおかしな点はいくつもあった。
演奏直後に順位が決まるわけないし、優勝はまだわからない。そんな時点で、いくら感動したからといって、関係者席にいるカメラマンが不躾にフラッシュを焚くわけがないのだ。
(結局僕は、あの曲も弾けないし、両親にも見捨てられたまま――)
さぁぁぁ、という拍手のような雨音が窓の外でしている。
窓を向いた顔の反対側――僕の背後に、カツカツ、コツコツと聞き慣れた革靴とヒールの音が聞こえ始めた。
/6/11『雨音に包まれて』
(5/26『やさしい雨音』の続き)
長い髪を伝っていった水滴が、髪先から雫となって落ちた。
僕を見下ろす透明な眼差しが、僕の見た最後の景色。
「どうして?」
浮かぶ疑問は声にはならなかった。
代わりに僕の口からはいくつもの水泡が地上へ逃げていった。
湖の桟橋から引きずり落とされた僕。
差し伸べたはずの手は気がつけば水中に、視界は反転して湖が空になっていた。
薄曇りの空はこの人の髪色を写したようだった。
すぐさま桟橋に上がろうとした僕を、その人は突き落とした。
どんっと押された途端に、重しでもつけられたかのように後ろへ沈んでいく。
先程軽々と泳いだ体は重く、腕のひとかきもできなかった。
不思議に思いこんがらがる頭と、早く上がらなければと焦る気持ち。
だが、そのふたつを塞ぐかのように僕を支配していたのは、
(美しい)
あの人を見て浮かんだ一言だった。
その一言に支配されたまま、僕の体と意識は、闇に沈んでいく。
/6/10『美しい』
ただ正直に生きているだけなのに
ただ人に優しく生きているだけなのに
なぜこんなにも苦しい思いばかり
しなければいけないのか
なぜ私の周りの人は
いなくなってしまうのか
/6/9『どうしてこの世界は』
年に2回。
ここに妻と来ることが習慣となっていた。
「まさか、ここに私ひとりで来ることになるなんてねぇ」
なだらかな丘の上にあるそこは、なだらかとはいえ勾配のある坂が高齢の体につらい。
「二人で上っていたときは、そんなに辛くなかったんだがね」
よいしょ、と借りてきた手桶と柄杓を灰色の石の前に置く。
「来たよ、母さん。君の好きだと言っていた吉木屋のおはぎを持ってきた」
君と歩いた道を、今年はひとりで歩いていく。
春先に亡くなってしまった最愛の妻に声をかけ、墓石に水をかけていく。
「喜んでくれるかねぇ。味が違うなんて、文句は言わないでくれよ。残っていたのがそれだけだったんだ」
軽く周りの草むしりもし、手を合わせる。
「まあ、そんなに遠くない先にここに来るからさ。気長に待っててくれ」
/6/8『君と歩いた道』
ひとつ。またひとつ。
ひとつずつ。
夢見る少女だった頃のように、
ひとつずつ紡いでいくの。
新しい日課の始まり。
今日もまたペンを取る。
/6/7『夢見る少女のように』
胸に秘め続けた想いを今日遂げる。
ずっとずっと悲願だった。
この十年ずっとこの事だけを考えていた。
準備を終えた僕は洗面台の前で最終確認をする。
彼女の隣に立てるようにシックな黒い服を。
彼女が恥ずかしくないように黒い帽子を。
彼女が似合うと笑ってくれた髪型を。
彼女を傷つけないように手袋を。
彼女の元へ向かうための靴を。
彼女に贈るためのナイフを。
最後に鏡で笑顔の練習。
これで準備万端。
「首を洗って待っていろ」
さあ行こう。
彼女の息の根を止めるために。
/6/6『さあ行こう』