「雨のにおいがする。ここ入ろ」
かおりが日傘を畳んで喫茶店のドアを差した。
表に出ている看板に『淹れたてコーヒー』と『ケーキセット』の文字とイラストが躍っている。
言葉なく頷いたゆうきは、先に店に入るかおりの後に続いた。
「えーと、私このケーキセットとアメリカンで。ゆうきは?」
「私もケーキセット。ブレンド。ホットで」
かしこまりました、とメニューを下げていった店員の制服がかわいいとかおりが言う。
「さ、て」
店員がカウンターの内側に入ったのを見届けて、かおりは一言ずつ区切って言った。
「大丈夫?話聞くよ?」
今日は二人で三ヵ月ぶりに会う予定だった。駅前で待ち合わせて、手を振りながら来たかおりの顔を見たゆうきは、そのまま俯いてしまった。
かおりが何を言ってもたいした返事が返ってこないので、とりあえず歩き出したところだったのだが――。
「かおり……」
ゆうきが自分を呼んだ顔を見たかおりは何かを察し、通りすがりに見つけた喫茶店に入ったのだった。
「ほら、拭かないと乾いてカサカサになっちゃうよ?」
注文を終えた後、ダムが決壊したように声もなく泣き出したゆうきに、かおりはハンカチを差し出した。
窓の外では、ゆうきの涙に呼応したように雨が降り出した。
二人がカップに口を付けたのは、すっかりコーヒーが冷めてしまったあとだった。
/6/20『雨の香り、涙の跡』
「もしもし、もしもーし」
孤独な穴の中で、誰かいないかと“それ”は彼方に声をかけた。
だが、闇から答えるものは何もない。
「もしもーし……。だれもいないの……?」
何もない闇の中、ひとりぼっち。
寂しくて寂しくて、手で口を囲うように筒にして声をかける。
「おーい、おーい」
やはり答えるものは何もなく、“それ”はとうとう寂しくて泣き出してしまった。
「くすん、くすん」
静かに、静かに涙がこぼれる。
「くすん、くすん」
どこから来たのか、どうしてここに来たのか、”それ”はわからない。
わからないのに、ひとりぼっち。何をしたらいいのかも、わからない。
「くすん、くすん……――あれ?」
”それ”がしばらく泣いていると、するすると白く光る線が降りてきた。
線は”それ”の足元にとぐろを巻き、しゅるしゅるとかさなっていく。
じっと線が重なるのを見ていた”それ”は、ふと思いついた。
(なんだか、これ、『いと』みたいだな)
光る線の端を持ち、苦労しながらなんとかそれを小指にくくりつけた。
(もしかしたら、いつかなにかでみた『いとでんわ』ができるかもしれない)
糸の光に勇気をもらったのか、少し元気が出た”それ”は、もう一度手で口を筒のように覆って、闇の中に声をかけた。『糸』をくくりつけた小指を少し立てて。
「おーい、おーい」
声をかけてしばらく待ってみる。
しかし、何も返ってくることはなかった。
「やっぱり、ボクはひとりなのかな……?」
新たにやってきた寂しさに、再び涙がこぼれそうになっていると、
「……ーい」
何かが闇の彼方から聞こえた。
”それ”は三度手を筒にして叫んだ。
「おーい!」
「……おーい」
声が返ってきた。”それ”は嬉しくなって更に叫んだ。
「おーい!いるよ!ボクはここにいるよ!」
「誰だー?そこに誰かいるのかー?」
今度は明確に返事が返ってきた。”それ”は喜び、その場で飛び跳ねた。
また手を筒にして、声に返した。
「ボクはここにいるよー!」
/6/19『糸』
頭上から声が聞こえてきた。
見上げると、どこかの高校のベランダで少年たちが言い合いをしている。
「もう諦めろよ」
「諦めるもんかっ!俺の悲願なのに!」
「お前の思いは分かるけど、高嶺の花だよ」
「高嶺の花でもいい!」
2階のベランダと地上とで喚きあうように言い合う少年たちは、何か小さなものを持っていた。
「十年以上も夢見てたんだぞ!叶えてみせる!」
「でもこんなの、到底叶いっこないだろ!」
「諦めなければ、夢は叶う!」
どこぞのヒーローのような発言をした少年は地上にいる少年に告げると、持っている小さなものを構えた。
(なんだ、あれ?)
希望に満ちた2階の少年が持っているものが気になり目を凝らすと、それは小さなプラスチックケースだった。
「行くぞー!」
「おー」
2階の少年の掛け声とともに、地上の少年が構える。
「うぉりゃー!」
「べっ。ちょっと、口狙うなよ!」
「狙ってねーよ!ってか、口開けんな!」
何かを落としたらしく、地上の少年が悲鳴を上げる。
(なんだ……?)
少年たちは互いに文句を言いながらも、再度プラスチックケースを構えた。
「もっかい行くぞー!」
「おー!」
ぽた、ぽた、と2階の少年の手から水滴が零れ落ちていく。何度か繰り返されるそれに、ようやく小さなプラスチックケースの中身が分かった。
(目薬……?)
2階の少年は、地上の少年に向かって目薬を放っていたのだ。
「だー!やっぱ入んねーって!届かねーよ!」
「届くよ!諦めんなよ!」
「首上げっぱなしの俺の身にもなれよ!」
「代わってやりてーけど、俺の夢はこっちなんだよ!もうすぐ予鈴鳴るぞ!」
「マジかよ、早く!」
休み時間の終わりが迫ってきているのだろうか、少年たちは焦って互いに口調が荒くなっていく。
「受け止めてくれよ!頼むからさぁ!」
「こっちだってさっさと受け止めてーわ!土台ムリなんだよ、2階から目薬なんてさぁ!」
地上の少年の言葉に、彼らの謎の行動にようやく合点がいった。
(あぁ、『2階から目薬』)
彼らは――2階にいる少年は、ことわざを体現したかったのだ。
地上の少年はそれに付き合わされているといったところだろう。
「あー、入んねー!」
「もっと狙いつけろよ!」
「めちゃくちゃ狙ってるよ!あー、もう半分なくなった!」
「もう⁉お前どんだけヘタクソなんだよ!野球部のエースだろ!」
「目薬にエース関係あるかよ!」
2階の少年が喚いた時、チャイムが鳴った。
「あぁっ!」
「もう戻るぞ!」
「昼休みも付き合え!」
「マジかよ!」
とうとう彼らの悲願が達することはなかったが、何かいいものを見た気がした。
(でも、『高嶺の花』は違うと思う)
/6/18『届かないのに』
『――そうして、僕は暗い闇の中に意識を手放した』
画面が暗くなり、ENDの文字が浮かび上がる。
「っあー! またバッドエンドだよ! もう3回目! どの選択肢間違えたんだ⁉」
頭を抱えてワタルが喚いていた。
彼は趣味のビジュアルノベルゲームをしていたのだが、現在、数あるマルチエンディングの中のバッドエンドにしかたどり着けていないのだ。
「何選べばいいんだよー、マカロンちゃんよー。選択肢は合ってるはずなんだけどなー。あと何が足りないんだ?」
ゲーム内での少女のあだなを呼び、決定ボタンで次の画面へ進む。
すると画面の暗転後に、見覚えのない画面とメッセージウインドウが出てきた。
『「箱の中の私」が解除されました。』
「ん? なんだこれ?」
解除、の文字に何かを思いつつ、ワタルは幾週目かの『つづきから』を選んで、最初の選択肢からゲームを再開した。
「お? おぉ?」
一度読んだテキストはスキップが出来るため、先程エンディングを迎える直前くらいまでのシーンにすぐに辿り着いた。そこで、既に読んだと思っていたテキストのスキップがピタッと止まる。
『「……あなた、私の何を知っているの?」真紀子がこちらを睨むように見て言う。』
「おぉ! マカロンちゃん! 知らないとこだ!」
知らないテキストと音声にテンションの上がったワタルは、初めて通過するルートに歓喜の声を上げた。
「これ、今どこなんだろ? 分岐したのか?」
オプションボタンを押して、『分岐図』を開く。このゲームには、自分がどのルートを通ってきたかがわかるように大雑把なシナリオのマップがある。
それを見ると、今まで直線だったものが家系図のようにひょっこりと新しい線が増えていた。
「おぉー! 新しいルート発見!」
ワタルは嬉々として続きをプレイした。
数日後にワタルが共有のネット友達に聞いたところによると、マカロンのルートはいくつかあるバッドエンドを回収してからでないと、グッドエンドのルートが開かないのだそうだ。
何度もマカロンとのエンディングを重ねて、ようやくあの分岐図が更新されると聞いた時、正直面倒だとワタルは思った。
しかし、
「メンヘラのマカロンちゃんだからこそのルートっぽいよなぁ」
しみじみと彼女のことを思い、グッドエンドを噛みしめるワタルだった。
/6/17『記憶の地図』
黄色と青のマグカップ。
彼と揃いで買った安物だけど、私はとても気に入っていた。
食事の時、一休みする時、喧嘩したあとの話し合いの時。
幾度も私達のそばにいて、見守ってきてくれた。
でもそれも今日で終わり。
青いマグカップは捨てていいと言われた。私と同じように。
私と黄色いマグカップだけが、この部屋に残ることになった。
もう揃いのマグカップにコーヒーを入れることはない。
出ていった彼の青いマグカップには、白い底に黒い円がひとつ、まるで外していった婚約指輪のように残っていた。
黄色いマグカップの底には、溶け残った砂糖がひとさじ、茶色い砂塵となって隅に寄っていた。
/6/16『マグカップ』