「ねぇ、今日はどうするの? 泊まってく?」
「んー、いや、出てく」
「……そう」
僕の好きな人は、恋人になってくれない。
「泊めてくれてありがとね。またいつか」
「ねぇ」
彼女が左のロングブーツのジッパーを上げてる時、声をかけた。
「好きだよ」
「うん。ありがとう」
「そろそろさ」
「また連絡するね」
僕の言葉を遮った彼女は、にっこり笑ってひらひらと手を振る。
別れ際はいつも『かわいい彼女』そのものなのに。
誰かの家を転々として特定の相手を作らない。
学部も学校も違うのに、近隣の大学で有名な彼女は『渡り鳥』と呼ばれている。
/5/29『渡り鳥』
「どうしてアンタはそんなに速いんだ?」
「どうしても何も、心に浮かぶままを連ねているだけさ。溢れて止まらないんだ」
そこらに散らばる紙に書いてあるいくつもの言葉、言葉、言葉。
それは小説だったり詩だったり、俳句なんかもある。
(この人に書けないものはないのか)
種類豊富なだけでなく筆の速い師匠を見て、弟子は感嘆するしかなかった。
/05/28『さらさら』
「これは、初めて立った時のやつ」
ひとつ。
「これは、小学校1年生の時の運動会。かけっこでこけちゃったけど、6番中3位まで巻き返したんだよ」
ひとつ。
「小学校6年生の時の応援合戦。応援団に立候補して、精一杯声張り上げてたなぁ」
ひとつ。
いくつもの思い出のつまったものをゴミ袋に入れていく。
「これは――中学の卒業式か。ビデオに撮るのもこれが最後か、なんてしみじみしてさ……」
それはビデオカメラのカセットたち。
娘が生まれてから成人するまで、ずっとこいつと一緒にやってきた、と父親は目尻を下げる。
「かと思ったら、もう一度活躍する機会があったんだよなぁ。もうもっと高性能な機械はあったけど、どうしてもこれで撮りたくて……。きれいだったよ。――これで最後か」
最後の一つをゴミ袋に入れると、たくさんの思い出ごと捨ててしまうようで、口を縛りたくなくなってしまう。
「はぁ……」
盛大な溜息が出た。
お別れしたくない。だがもう使えないものは置いていても場所を取るだけだから、いっそ断捨離をしなくては。
「捨てたく、ないなぁ」
「何言ってるの! 捨てないと場所取るだけでしょ! こんなにたくさん! 引き出し二つも使ってるんだからね! この子のためにも空けてあげてよ!」
ぽつりとこぼれたぼやきをとうに大人になった娘に聞かれ、ごうごうと文句を放たれた。その様や大きなお腹をさする姿は昔の妻にそっくりだ。
大切な思い出たちとの別離の時間くらいくれたっていいだろう、と口には出さずに娘を見やると、娘は大きな息を吐いて言った。
「もう! DVDに焼いたんだから、そんなに悲しむことないでしょ!」
言わんとしていることを見透かされたのか、別離に時間をかけすぎだと怒られた。
そう。このカセットテープは廃棄してしまうが、思い出はなくなりはしないのだ。
しかしあの古めかしいビデオテープで見るからいいのであって、これはこれで味があるのだともだもだしていると、
「ぼやぼやしてると捨てるものも捨てられないよ?」
それも見透かした娘にトゲを投げられた。
しょうがなく腹をくくって最後のひとつを撫でてから袋の口を持った。
その時階下から娘の夫の声がした。
「お義父さん! ほら、テレビに繋げましたよ! 彼女の小さい頃の話聞かせてください」
そうだ、今日の午後は彼と娘談義をするのであったことを忘れていた。
ちょっとやめてよ、なんて声も聞こえたが、聞こえなかったふりをしてリビングに急いだ。口を縛ったゴミ袋を携えて。
/5/27『これで最後』
見下ろされたまま、頬に貼り付いた髪を顔の横に流された。
「こんな時くらい、名前を呼んでよ」
君と初めての時。
普段苗字で呼んでいる君は必死な顔をして眉を歪めた。
「名前、よんで」
生真面目な君が、こんな時は甘えたになるなんて知らなかった。
(可愛いから、呼んであげよう)
名前を呼んだら、眉を歪めたまま、はんにゃりと笑った。
/5/26『君の名前を呼んだ日』
※暗い話
※自傷の描写があります。
僕を称賛する音が聞こえる。
鳴りやまない、拍手の音。
僕は両手を広げ、真ん中で一礼。
次に右、左と頭を下げていく。
とうとう僕は成功させたんだ。
あの困難な曲を一度も間違えることなく。
(父さん、母さん、見てますか。先生、僕やったよ)
鳴らし慣れていないのか、短い指笛の音まで聞こえる。
無名の僕にそこまでしてくれるなんて、感動だ。
歓声は時折大きくなり、また戻りする。
関係者席にいたであろう記者が慌ててカメラを持ったのか、バシャバシャと二度写真を撮られた。
まさか無名の僕が優勝するなんて思ってもみなかったのだろう、当然の行動だ。
(あぁ、涙と照明で目の前がまっしろだ。まぶしいな――)
僕はもう一度頭を深々と下げて、暗い舞台袖へ戻った。
――――
――
「先生、患者の意識が……」
「……ご家族を呼んでくれ」
看護師の声に、ペンライトをしまった医師が言った。
看護師は慌てて連絡をしに向かう。先の連絡時に受けた印象から患者には同情せざるを得なかった。
(今度はちゃんと来てくれるといいけど)
ベッドに横たわる若きピアニストの細い左手首には包帯が巻かれていた。
さぁぁぁ、と窓を細い雨が叩く。
5/26『やさしい雨音』
一年半振りに復帰。リハビリ。
復帰始めがこんな話になるなんて。