長い髪を伝っていった水滴が、髪先から雫となって落ちた。
僕を見下ろす透明な眼差しが、僕の見た最後の景色。
「どうして?」
浮かぶ疑問は声にはならなかった。
代わりに僕の口からはいくつもの水泡が地上へ逃げていった。
湖の桟橋から引きずり落とされた僕。
差し伸べたはずの手は気がつけば水中に、視界は反転して湖が空になっていた。
薄曇りの空はこの人の髪色を写したようだった。
すぐさま桟橋に上がろうとした僕を、その人は突き落とした。
どんっと押された途端に、重しでもつけられたかのように後ろへ沈んでいく。
先程軽々と泳いだ体は重く、腕のひとかきもできなかった。
不思議に思いこんがらがる頭と、早く上がらなければと焦る気持ち。
だが、そのふたつを塞ぐかのように僕を支配していたのは、
(美しい)
あの人を見て浮かんだ一言だった。
その一言に支配されたまま、僕の体と意識は、闇に沈んでいく。
/6/10『美しい』
ただ正直に生きているだけなのに
ただ人に優しく生きているだけなのに
なぜこんなにも苦しい思いばかり
しなければいけないのか
なぜ私の周りの人は
いなくなってしまうのか
/6/9『どうしてこの世界は』
年に2回。
ここに妻と来ることが習慣となっていた。
「まさか、ここに私ひとりで来ることになるなんてねぇ」
なだらかな丘の上にあるそこは、なだらかとはいえ勾配のある坂が高齢の体につらい。
「二人で上っていたときは、そんなに辛くなかったんだがね」
よいしょ、と借りてきた手桶と柄杓を灰色の石の前に置く。
「来たよ、母さん。君の好きだと言っていた吉木屋のおはぎを持ってきた」
君と歩いた道を、今年はひとりで歩いていく。
春先に亡くなってしまった最愛の妻に声をかけ、墓石に水をかけていく。
「喜んでくれるかねぇ。味が違うなんて、文句は言わないでくれよ。残っていたのがそれだけだったんだ」
軽く周りの草むしりもし、手を合わせる。
「まあ、そんなに遠くない先にここに来るからさ。気長に待っててくれ」
/6/8『君と歩いた道』
ひとつ。またひとつ。
ひとつずつ。
夢見る少女だった頃のように、
ひとつずつ紡いでいくの。
新しい日課の始まり。
今日もまたペンを取る。
/6/7『夢見る少女のように』
胸に秘め続けた想いを今日遂げる。
ずっとずっと悲願だった。
この十年ずっとこの事だけを考えていた。
準備を終えた僕は洗面台の前で最終確認をする。
彼女の隣に立てるようにシックな黒い服を。
彼女が恥ずかしくないように黒い帽子を。
彼女が似合うと笑ってくれた髪型を。
彼女を傷つけないように手袋を。
彼女の元へ向かうための靴を。
彼女に贈るためのナイフを。
最後に鏡で笑顔の練習。
これで準備万端。
「首を洗って待っていろ」
さあ行こう。
彼女の息の根を止めるために。
/6/6『さあ行こう』
水たまりがあった。
雨上がりの地面にあるそれには晴れた空が浮かんでいる。
カラスが二羽水たまりに映り過ぎると、女性と男児の声が聞こえてきた。
紫陽花の植わる団地内の道路を一組の親子が歩いている。
「今日はどんな一日だった?」
「きょうはねー、コウくんとおりがみしてねー、なっちゃんとおすなばあそびしてー」
幼稚園の帰りらしく、手を繋いだ親子は楽しそうに話をしながら帰路を進んでいる。
「んでねー、あっ!」
「あっ、みっくん!」
何かを発見した男児が咄嗟に手を放し、母親の声にも振り返ることなく一目散にそこへ向かった。
ばしゃん!
勢いよく黄色い長靴に踏まれた水たまりは小さく波を上げて弾けた。
幸いそれほど深くはない水たまりだったので、男児は長靴以外濡れることなく、難を逃れた。
安堵の息をつく母親の気持ちを知ってか知らずか、男児は足先で水を蹴って戯れている。
「こら、みっくん! 勝手にママの手放さない!」
男児に追いついた母親が小さな手を掴んだ。
「もう帰るよ。ごはんの支度しなきゃ、パパ帰ってきちゃう」
「え! 今日パパ早く帰ってくるの!? うん、かえる!」
母親の言葉に笑顔を咲かせた男児は繋がれた母親の手を握り返した。
仲良く手を振って帰る親子の姿が水たまりに映る。
遠ざかっていく姿の遠くに、うっすらと虹が反射していた。
/6/5『水たまりに映る空』