ぎゅってしてほしい。
/『言葉はいらない、ただ・・・』8/30
部屋のチャイムが鳴ってドアを開けてみれば、ずぶ濡れの君がいた。
「どうしたの、とつ――っ」
言葉は最後まで言えなかった。腹に衝撃があったからだ。
「どうしたの、突然?」
改めて受け止めて、衝撃に尋ねた。
「きょう、とめて」
背中に回された手に力が入る。呻くように絞り出されている声は、きっと今にも泣きそうなのを我慢しているのだろう。
「……いいよ」
少し考えて、承諾した。手の力が少し弱まる。
「いいけど、中に上がる前にまず、シャワー浴びておいで」
玄関先に君を残して、マット代わりと体を拭くバスタオル等々を取りに室内に戻った。
君をバスルームに通した後、君に合うサイズの服なんてないのはわかっていたが、なにかないかとクローゼットの中を漁りながら考えた。
(冷凍うどんあったっけ?)
/8/29『突然の君の訪問。』
「あなたを失ってから、悲しみが止まらないの。
もう済んだこと。
取り返しはつかない。
なくなってしまったものは元には戻らない
何度だって自分に言い聞かせてきた。
でもどうにもこの悲しみは癒せないの。
どうして? どうしてなくなってしまったの?
あんなに一瞬で消えてしまうなんて、予想だにしなかった。
私はどうやってあなたを取り戻したらいいの?」
「んなもん食ったからに決まってんだろ」
劇団員よろしく悲観にひたっていた私の哀れな姿を、弟の一言が寸断した。
テーブルの上には、今しがた私のお腹の中に消えてしまったミニシューのパックの空がら。
「だっておいしくて……。あんなに一瞬で消えるなんて思わないじゃない」
「そうだな。おれの分も食べやがって」
罰としてコンビニにスイーツを買いに行かされるのだが、それも食べてしまって更に怒られるのはまた別の話。
「だって3日も置いておくんですもの」
/『やるせない気持ち』8/25
「鳥になりたい」
通りすがった親子の会話が聞こえた
4歳くらいの男の子が目を輝かせていた
鳥のように飛べたなら
どこへでも行けるのだろう
あの青い空の果てでも
木漏れ日のさす木の中へでも
時間に縛られることもなく
隣の家の庭になっているような
高い位置の木の実なんかも食べられる
小鳥なら
道行く人々に可愛がってももらえるだろう
木のうろの中で休むことも楽しそうだ
大きな鳥なら
その羽根を広げて果てなくどこへでも行けるだろう
海をも超えて行けるかもしれない
何ものにも捕らわれず
自分の意志の赴くまま
でもその自由を謳歌する羽を切り落とされたなら――
自由と意思と尊厳すらも無くなってしまう
いたずらに自然に弄ばれた後
ただの骸になるしかないだろう
それでも君は
鳥のようになりたいと思うのかい?
/『鳥のように』8/21
日曜日の午前10時。
今日も彼はいる。
市民図書館のワークスペース。
窓際に面した長机に仕切りがしてあるゾーンの奥から3番目。
そこが彼の定位置だ。
駐輪場から玄関入口に移動する際に見える、そのスペースの彼の姿を認めるのが最近のブームだった。
教室ではしていないのに、ここで勉強する時はかけている細いフレームのメガネ。
切れ長な瞳の彼の横顔を引き立てる、その姿を見るのが私は好きだ。
なんとはなしに集まっていた日曜日の午前10時。
ワークスペースの長机、奥から2番目の席が私の定位置だった。
いつからか、一緒に勉強するようになっていた。
きっかけは、たまたま私が早起きして図書館に来た日だった気がする。
その日、いつもの席の隣に見覚えのある姿があったのだ。
移動すればよかったものを、私は自分の定位置をずらしたくなくて、隣りに座った。
私も彼も、互いに存在には気付いていた。
だが言葉を交わすこともなく、その日はお互いにどこかもぞもぞと得体のしれないもどかしさを感じながら勉強を終えた。
次は彼の番だった。
昼過ぎに彼が私の隣にやってきた。その日ももぞもぞを感じながら過ごした。
それを何回か繰り返してわかった。
彼も私も、自分の定位置を変える気はないらしい。
ある時に私から声をかけてみた。
「おはよう。いつもこの席だね」
「おはよう。お前こそ」
そこから、二人の勉強会は始まった。
日曜日の午前10時。いつもの席にて。
待ち合わせをしているわけではなかったが、いつの間にかその時間になった。
挨拶だけして、それぞれの勉強に向かう。たまに教え合う。
ただのクラスメイト。特別仲がいいわけでもない。
でも、私はこの図書館の時間が好きだった。
特別でもないけれど、ガラスケースに入れたくなるような大切な時間だった。
だけど明後日。
私は引っ越しをする。父の急な転勤が決まってしまったのだ。
もうすぐ夏休みも明け、この夏の思い出話をしながら徐々に修学旅行や文化祭などのイベントの決め事に盛り上がるホームルームを、私は迎えられない。
ホームルームで、各イベントが彼と同じ班になれば、ここで話してたみたいに教室でも話せるようになったかもしれないのに、私はその頃には教室にいない。
彼のことは、そういう意味で好きではなかった。
ただ、同じ時間を過ごすのがとても心地よかった。
寂しさと運命に抗えない自分の虚しさが心を掻く。
彼とここで過ごすのも、今日が最後だ。
だから、別れの言葉の前に最後のあいさつを――。
「おはよう」
/『さよならを言う前に』8/20
くだらない思い出
もやもやする思考
甘いだけの優しさ
理性で止めた怒り
言い返せなかった言葉たち
流したいのに堰(せ)き止めてしまった涙
ぜんぶぜんぶ捨てたいのに。
それも私だからと、崖っぷちにしがみつく手指のように
それらは私から離れてくれない
/8/17『いつまでも捨てられないもの』
ああ 今日はどんな指揮者が奏でているのかな?
優雅に かと思ったら烈しく
可憐に かと思ったら怒涛に
音の大小だってお手のものだね
えーと、なんだったっけな?
クレッシェンドとデクレッシェンドだっけ?
昔音楽の授業で習ったよね
ああ 今はアンダンテかな?
う〜ん なかなかいい具合だけど そうだね
出来ればえーと そう カルマートで!
カルマートで頼むよ
決してモレンドにはならないようにね
……付け焼き刃だけど、意味合ってるのかな?
教育番組で見た単語を並べてみたが
ちっとも気を紛らわせられなかったな
枕で頭を覆い 耳を塞ぐが
指揮者はタクトを置いてくれない
お願いだ
彼の中の指揮者よ
彼のいびきを止めておくれ
わたしを眠らせておくれ
/8/12『君の奏でる音楽』
今にも泣き出しそうな、と表現されそうな真っ黒な空。
降り出さない内に早く温かいお家へ帰らなきゃ。
そこには出迎えてくれる人がきっと待っている。
だから早く帰ろう。
でも、どこに――?
ぽつりと涙が頬を濡らした。
/『空模様』8/19