箱庭メリィ

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日曜日の午前10時。
今日も彼はいる。

市民図書館のワークスペース。
窓際に面した長机に仕切りがしてあるゾーンの奥から3番目。
そこが彼の定位置だ。

駐輪場から玄関入口に移動する際に見える、そのスペースの彼の姿を認めるのが最近のブームだった。
教室ではしていないのに、ここで勉強する時はかけている細いフレームのメガネ。
切れ長な瞳の彼の横顔を引き立てる、その姿を見るのが私は好きだ。

なんとはなしに集まっていた日曜日の午前10時。
ワークスペースの長机、奥から2番目の席が私の定位置だった。
いつからか、一緒に勉強するようになっていた。
きっかけは、たまたま私が早起きして図書館に来た日だった気がする。
その日、いつもの席の隣に見覚えのある姿があったのだ。
移動すればよかったものを、私は自分の定位置をずらしたくなくて、隣りに座った。
私も彼も、互いに存在には気付いていた。
だが言葉を交わすこともなく、その日はお互いにどこかもぞもぞと得体のしれないもどかしさを感じながら勉強を終えた。

次は彼の番だった。
昼過ぎに彼が私の隣にやってきた。その日ももぞもぞを感じながら過ごした。
それを何回か繰り返してわかった。
彼も私も、自分の定位置を変える気はないらしい。

ある時に私から声をかけてみた。
「おはよう。いつもこの席だね」
「おはよう。お前こそ」
そこから、二人の勉強会は始まった。

日曜日の午前10時。いつもの席にて。
待ち合わせをしているわけではなかったが、いつの間にかその時間になった。
挨拶だけして、それぞれの勉強に向かう。たまに教え合う。
ただのクラスメイト。特別仲がいいわけでもない。
でも、私はこの図書館の時間が好きだった。
特別でもないけれど、ガラスケースに入れたくなるような大切な時間だった。


だけど明後日。
私は引っ越しをする。父の急な転勤が決まってしまったのだ。
もうすぐ夏休みも明け、この夏の思い出話をしながら徐々に修学旅行や文化祭などのイベントの決め事に盛り上がるホームルームを、私は迎えられない。
ホームルームで、各イベントが彼と同じ班になれば、ここで話してたみたいに教室でも話せるようになったかもしれないのに、私はその頃には教室にいない。

彼のことは、そういう意味で好きではなかった。
ただ、同じ時間を過ごすのがとても心地よかった。
寂しさと運命に抗えない自分の虚しさが心を掻く。

彼とここで過ごすのも、今日が最後だ。
だから、別れの言葉の前に最後のあいさつを――。

「おはよう」


/『さよならを言う前に』8/20






くだらない思い出
もやもやする思考
甘いだけの優しさ
理性で止めた怒り
言い返せなかった言葉たち
流したいのに堰(せ)き止めてしまった涙

ぜんぶぜんぶ捨てたいのに。
それも私だからと、崖っぷちにしがみつく手指のように
それらは私から離れてくれない


/8/17『いつまでも捨てられないもの』






ああ 今日はどんな指揮者が奏でているのかな?

優雅に かと思ったら烈しく
可憐に かと思ったら怒涛に

音の大小だってお手のものだね
えーと、なんだったっけな?

クレッシェンドとデクレッシェンドだっけ?

昔音楽の授業で習ったよね

ああ 今はアンダンテかな?
う〜ん なかなかいい具合だけど そうだね
出来ればえーと そう カルマートで!
カルマートで頼むよ

決してモレンドにはならないようにね

……付け焼き刃だけど、意味合ってるのかな?
教育番組で見た単語を並べてみたが
ちっとも気を紛らわせられなかったな

枕で頭を覆い 耳を塞ぐが
指揮者はタクトを置いてくれない

お願いだ
彼の中の指揮者よ
彼のいびきを止めておくれ
わたしを眠らせておくれ


/8/12『君の奏でる音楽』

8/20/2023, 7:10:59 PM