大事にしたい。
私がいないと何もできないと思っていた。
小さくて、儚くて。
少しでも目を離せば、消えてしまいそうな気がしていた。
なのに。
「お母さん、泣いてるの?大丈夫?」
いつのまにか、小さな手でティッシュを私の目元にあててくれるほど、この子は大きくなった。
「泣いてないよ、ありがとうね。」
そう返しながら、
はじめて寝返りをうった日。
はじめて立った日。
はじめて、私を呼んだ日。
…
たくさんのはじめてを、感動をもらったことを思い出していた。
これから先もたくさんのはじめてがこの子には待っているだろう。
いつまで一緒にそれを見せてもらえるのだろうか。
大事にしたい。この子を。この瞬間を。
いつか、この子が私の元を離れていくまで。
「あなたの分まで、ね。」
部屋の隅にある真新しい仏壇に向かってそう呟いた後、まるいほっぺたが目立つ横顔をしばし見つめた。
喪失感。
主人が亡くなった。
心臓発作で、突然の別れだった。
自宅で発見したのは私。
無我夢中であまり覚えていないが、
救急車を呼び、人工呼吸などひと通りの蘇生はやっていたようだ。
それでも、主人はあの世へ行ってしまった。
葬儀・通夜・諸々の手続き…やることはたくさんあった。
多すぎるくらいだったが、やることがあると考える時間がないので楽だった。
諸々が終わって時間ができそうになると、主人の私物や思い出の品、一緒に寝ていた寝具など主人を連想させるものをどんどん処分した。
引っ越しもした。
あの家には主人との思い出が多すぎるから。
主人の死を認めたくなかった。
認めてしまったら、立っていられなかった。
いま、主人のものが何一つない新居で
だんだん、少しずつではあるが主人のことを忘れていっている自分に気づく。
自分を守るために、主人を忘れていく。
残るのは漠然とした、喪失感だけ。
「ごめんね、弱い私で。」
唯一残した主人の写真に向かって、そう呟いた。
些細なことでも。
夕飯を終え、皿洗いをしているといつもは大騒ぎの息子が何やらおとなしい。
「どうかしたの?眠くなっちゃった?」
そう声をかけつつ手は自然と息子の額に向かう。
…少しあたたかい。
「お熱、測ろうか。」
案の定、37.4℃。微熱だ。
「今日は身体だけ拭いて、はやく寝ようか。」
そう声をかけると、
「どうしてお母さんは僕のことがわかるの?」
と頷きながら息子が聞いてくる。
それはね、あなたのことが世界で一番大切だから。
忙しくてなかなかかまってあげられないけれど、
毎日ちゃんと、あなたのこと見ているよ。
だから、いつもと違ったら、
些細なことでもすぐわかるの。
だいすきで、大切なかわいい子。
これから先も、ずっと見守らせてほしい。
さて、まだ小さいこの宝物にどうやって
伝えたらいいだろうか。
わたしを見つめる小さな目を見つめ返しながら、しばし考える。
「それはね……」
開けないLINE。
『♪』
聞き慣れた通知音。
スマートフォンを手に取ると、
ロック画面に表示されるきみの名前。
なぜだろう、胸がざわつく。
「別れたい」
トーク一覧の1番上にある、
その、たった4文字を見ただけで
全身から血の気が引くような、
心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
嫌だ、別れたくない。
なぜ?何がいけなかった?
どうすれば考え直してもらえるのか。
この前の喧嘩がダメ押しだったのか。
様々な言葉が頭の中に溢れてくる。
落ち着け、落ち着くんだ。
ちょっと一服して気を取り直そう……
開けてしまったら「別れたい」の答えを出さないといけない気がして。
いまはまだ開けない、
開けられない、きみからのLINE。
香水。
電車の乗り換えで駅のホームに降り立った時、不意にあなたの香りがした。
違うと分かっていながらも、つい振り返ってはあなたを探してしまう。
わかっている。
もうあなたに会うことはない。
わかっている。
もう二度と元には戻れない。
あなたと過ごした毎日。
何気ない日常が、あなたと一緒だとキラキラと輝いて見えた。
大好きだった。
ずっと一緒にいたかった。
だから、あなたの裏切りに気づかないふりをした。
元に戻ると信じて、あなたを待っていた。
でも、あなたは戻ってこなかった。
わかっている。
もう二度と元には戻れない。
甘い香水の香りで蘇る
ほんのり苦い、あなたの記憶。