こたかさんと飲みに行くようになったのは、いつからだったか。とくに約束をすることもなく、ふと思い立てば出かけていった。
こたかさんは、あまり喋らないけどピーナッツのうまい剥き方を丁寧に教えてくれるような人だった。
酒を飲みながら、どうでもよい話しをぽつりぽつりとして、酔いがまわってくるまで飲み続けた。
こたかさんとは、初め友人の店で会った。
次に町中で声をかけられたときは、最初の印象が薄すぎて、誰だか分からなかったが、それからなんとなく会って飲むようになった。
こたかさんは、いつの間にか、近所の見知った道の、延長線上にいるような人になった。
こたかさんとのあいだには、何も生まれ出ることはなかった。
なにか、生まれ出てくるものが、おそろしいものだったら、怖いと思った。
店を出ると、この辺の田舎道は街灯もまばらで、あたりはもう薄暗くなってきていた。
ももよさん、少し歩こうといって、こたかさんはわたしの手をとった。こたかさんの手は、温かくて少し湿っていた。
手をつないだのは、この時がはじめてだった。
ススキの穂がさらさらと風に揺れていた。
ももちゃんの手はつめたいわね
そう言って母はぎゅっと両手でわたしの手をにぎった。
母の手はあたたかかった。
「お母さん、あの星はなんの形の星なの?」
「さぁ、知らないわ。」
あれとあれとあれをと言いながら夜空を指さして、母の顔を見た。月の光に照らされて、絵本でみたキツネのお嫁さんみたいに美しかった。
「キノコみたいに見えるよ」
「キノコ座なんてないわよ。星座は勝手につくってはいけないのよ。」
母は子供を子供扱いしない人だった。
「どうして?誰がつくったらいいの?」
「その星が星座であるためには、みんながそれを認知してないとだめなのよ。そしてみんなが納得しなくてはね。」
ニンチはよく分からなかったが、前後の文脈でなんとなく意味はわかった。
「だれが、最初にみんなに知らせたの?」
「さあね、神様がある人に教えて、そのある人が他の誰かに教えて、それをまた他の誰かに教えて…そういうことだと思うわ。だから星座になるには、神様のおゆるしがいるのよ。勝手につくっては駄目だし、いったん繋がれた星同士は、もう何があっても離れられないのよ。」
つながった手をたどって母の顔を見ようとしたが、暗くてよく見えなかった。
父と母は翌年、離婚した。
こたかさんは、どんどん先へすすんでいった。
あたりは真っ暗になり、近所のつもりが知らない道を歩いている気になった。どこだかわからない、道があるのかさえわからない場所に取り残されそうで、怖かった。
こたかさん、おいていかないでよ
ひとりに、しないでよ
つないだ手がほどけないように、力をぎゅっと込めた。
ももよさんの手はつめたいね
急に立ち止まって、こたかさんはわたしの手を握ったまま、ささやいた。
こたかさんとわたしはこのまま深くつながるのだろうか。
そして、ニンチ、になるのだろうか。
虫の声が、嵐のようにわたしを取り巻く。
悲しいのか、恐ろしいのか、自分の足元が消えかかっているような気がした。
嵐は桜 春の宵 ぼくときみの影に花びらが散る
夏の夕暮れ ひとときの気だるさ 汗を拭うきみの指
静謐の秋 ベッドの上に永遠とふり積もる埃が
キラキラと舞う
そして冬 眠るようにきみは死んだ
きみはぼくが死ぬのを待っている
誰もいないキッチンの 食器棚の中の
コーヒーカップみたいに 静かに 身動き一つせずに
死は過程に過ぎないと きみは言った
季節が巡るのと同じことなのだと
だからどこに行っても わたしをさがして
最期にきみは ぼくにそう言った
ぼくはきっときみを見つけられるはずだ
ぼくはずっとさがし続ける
季節が巡り続けたとしても
その日、わたしのこころは氷のように冷たく、石のように硬くなり、深く海の底に沈んでおりました。
もうどうにもこの世にとどまる理由を思いつけなくなり、決着をつけるべくうろうろと、屍のごとく歩いておりました。
人々の笑い声がとおい記憶のように、前から後ろへと流れ去ってゆきました。
いつの間にか駅のホームにつき、ぼんやりとベンチに腰掛け、来たるべきそのタイミングを待っておりました。
ふと、向かいのホームに何を見るでもなく目をやると、一人、サラリーマン風の年配の男性が立っておりました。
そして自分の傘の先っぽをつかむと、ほとんど真剣にゴルフのスイングをやり始めました。
まっすぐに腕を伸ばし、足と腰の位置を整え、あたかもそこにボールが見えているかのように、真剣に傘の柄のカーブの先を見据えております。ゆっくりと腕を顔の横まであげました。
ヒュンという音とともに一瞬で振り抜いたかと思うと、思い切り傘の柄を地面に叩きつけてしまい、柄の部分だけがぽーんとホームの先のほうへと飛んでいってしまいました。
その男性は一瞬あっけにとられながらも、すぐに周りをきょろきょろ見ながら、小走りで傘の柄をとりに行きました。
わたしは、思わず不謹慎だとは思いましたが、吹き出してしまいました。そしてそのまま家路についたのです。
次の日の朝、わたしはもう駅のホームにはいかないと心に決めて家を出ました。
そして、なるべく5階建て以上の古くて管理の行き届いていなさそうなビルを探しました
今度はうまく、人のいなさそうな廃ビルを見つけて、雑草と瓦礫をかき分け、中に入りました。
屋上へとつづく階段を見つけると、ゆっくりとのぼって行きました。
最後の階段を登り終え、屋上へ出るとうまい具合に一箇所、金網のフェンスの破れているところを見つけました。
そして、金網に手をかけた瞬間、後ろから声が聞こえました。
無視して前に進もうと思いましたが、あまりにか細く、切実な声だったので、つい後ろを振り返ってしまいました。
そこには、小さな真っ白なふわふわの子猫が、ふらふらと歩いていました。その子猫はあまりに小さく、まだ目もあいていませんでした。周りをみても親猫や兄弟らしき猫はおらず、二月の寒空の下、最期の力を振り絞って懸命に助けを呼んでおりました。
そしてわたしは、うっかり子猫を飼い始めてしまいました。
そしてもう、子猫のいない所へは、行けなくなりました。
ももよさん、ほら、雨の足あとがついてるよ
こたかさん、それ、廊下が濡れてるだけじゃない
ちがうよ、雨がとおった跡だよ
ももよさん、ロマンチストじゃないね
そう言いながら、こたかさんはわたしの足の親指を
くるくるまわした
こたかさん くすぐったいよ
ももよさんの足に雨がついてないか、たしかめてるのさ
雨が、ほんとうに通ってきたかもしれないと
思ってしまいそうになった
いつものようにわたしは、園庭の隅にあるお気に入りの青い木馬にまたがった。
誰にも先を越されないよう、昼休みになると真っ先に自分の居場所を確保した。草が生い茂り、木陰にある少し薄暗いその場所は他の子達には不人気で、わたし以外ほとんど誰も寄り付かなかった。
「ねぇジミー、今日はなにをしてあそぼうか」トカゲに向かってクローバーを差し出すと、ジミーは驚いて草むらにとびこんで姿を消した。
「またね、ジミー」そう言ってクローバーをジミーのいたところにおくと、シロツメクサの花束をつくって、香りを思い切り吸いこんだ。
先週、先生がうちにきてお母さんと話しをしていた。
「もう少しほかの子達とも積極的に遊べるといいんですが。」
園庭の中央にはジャングルジムがあった。青い空の下、元気な男の子たちが、我さきに息をきらせながら上へ上へと登っていく。一番先に頂上まで登った子は、お城を征服した王様のように、誇らしげで、彼にしか見えない景色を見、彼にしか感じられない風にふかれていた。
わたしは、必死に上へ上へ登ることに興味を持てなかった。下のすみっこでトカゲや植物たちを眺めているほうが好きだった。
夕暮れどき、一人、また一人、お迎えがきて園庭には誰もいなくなった。昼間王様だったあの男の子も、お母さんがくると泣いて駆け寄り、ぎゅっと手をつないで帰路についた。
わたしは誰もいなくなったジャングルジムに登った。
体の重心をうまく使えず、無駄に力を使いながら、一歩一歩上へと登っていった。
一番上まで登りきると、ゆっくりとバランスを取りながら腰を下ろした。足元をすり抜ける猫のようにように、遠くの山々からふく風が、わたしの皮膚をなでながら駆け抜けていった。それは自分が透明になるような不思議な感覚だった。
ジャングルジムの頂上から見る景色は、誇らしげにも王様気分にもなれなかったけど、そこから見た夕暮れの赤や青、紫色の、太陽が最後に残した、美しく、少し寂しい物語は、わたしだけのものだった。