細い月が怖いのは、見られている気がするから。
薄目を開けて、じっと私を監視するように。
どこへ行ってもついてくる。
逃げても、逃げても、どこまでも。
空からずっと、私を見ている。
私が、××してしまわないように。
──ああ、
新月が、待ち遠しい。
花の名前を知りたいと思ったのは、初めてだった。
花屋の店先に並んだ、色とりどりの花。
その中に、一際目を引く花があった。
大輪に囲まれているのに、そっと静かに、元からそこに存在していたように。
決して主張しているわけではないのに。
咲き乱れる花の中では目立たないはずなのに、なぜだか俺の心を惹きつけた。
「あの、すみません、この花って……」
そう言いかけて、言葉が止まる。
「はい?」と、店から出てきた女性店員さんの微笑みを見た瞬間、気付いてしまったから。
彼女に、似ているのだ。
色とりどりの花たちに囲まれても、褪せない彼女の微笑み。花の世話をしながら、ずっと口元に浮かんでいる。その微笑みに、仕事終わりの俺は何度も癒されていた。
「あ、いつもお店の前を通っていらっしゃる方ですよね」
そう言いながら、さらに微笑む。
彼女も俺を知っていてくれたのか。
「このお花が、どうかされましたか?」
「あ、いや。この花、ください」
それだけ伝えて、俺はレジの方に向かった。
花の名前はまだ知らない。
けど、明日もここへ来る理由ができた。
ハラハラと、白いものが降ってくる。
頬に触れた瞬間、冷たさがすっと肌に沁みた。
雪だ。今年初めての。
通りで寒いと思っていた。
かじかむ手に息を吐くと、じんわりと熱が移り、白い息が空に消えた。
今年は積もるだろうか。
あれは何年前だっただろう。
カーテンを開けると、視界いっぱいに白銀世界が広がっていて、その眩しさに思わず目を細めた。
この辺りでは、雪が積もることは珍しい。
滅多にない景色にみんなではしゃぎ、外に飛び出した。雪合戦したり、雪だるまを作ったり。そして、雪が溶けて雪だるまが潰れたときは、下の子は泣いてたっけ。あの日を思い出して口元が綻ぶ。
今年ももし積もったら、また一緒に……と考えてすぐに思い返す。
子供たちは、もう中学生だ。
母親と一緒に雪遊びなんてしてくれないだろう。
いつの間にか、私の背丈も追い越した。
でも、それでも、いまだに小さな子供のように思ってしまうのは、あの日の顔が忘れられないからかもしれない。
頬と鼻の頭を真っ赤にして、小さな手で一生懸命雪を丸めていた、あの頃の顔を。
君と一緒に見た景色が忘れられない。
霜が降りた、とても寒い朝だった。
君はいつも通りもう起きて、ジョギングに行く準備をしていた。
「あなたも行く?」と微笑む彼女に「行く」と答えて外に出て、一瞬で後悔した。
寒い、なんてもんじゃない。凍そうだ。
しかも、日頃から走ってる彼女に着いていくだけで精一杯。
「たまには違うルートで行こうかな」
そう言って長い長い階段を駆け上がって行く彼女を、少し恨めしく思った。
「ほら、早くおいでよ」
30段以上も先から振り返り、ヒィヒィ呻く僕に発破をかける。
ああ、君はなんて残酷なんだ。少しは僕のことも考えてくれ。
足はガクガクするけれど、その頃にはもう寒さは消えていた。
彼女の背を追いかけて、階段を登り切る。
彼女はとっくにてっぺんにたどり着き、高台から景色を眺めていた。
呼吸を感じられるくらい傍に立ち、彼女の瞳に映る景色を僕も見る。
痛いほど澄んだ空気が、遠くにそびえる山の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。その下には僕たちの住む街がキラキラと朝焼けに照らされ、眩しいほどだ。
「きれいでしょ? あなたにも見せたかったんだ」
白い息を澄んだ空に溶かしながら、そう言ってはにかむ彼女の方がよっぽどきれいだった。なんてことは言わなかったけれど。
あの日の景色と、彼女の横顔。
今でも忘れられない僕の思い出。
いつかまた、君と見られる日を夢見て、僕は今日も走り出す。
もうそんな日が来ないことは僕が一番知っているのにね。
木枠の扉から流れ込む隙間風が、蝋燭の炎を揺らす。
その光に照らされ、ほつれたソファの裂け目から覗く白い綿の影が、壁にゆらりと伸びた。
影が動くたび、ゆっくりと何かが近付いてくる気配に、背中がざわつく。
こんな炎、消してしまいたい。
けれど、消してしまえば闇の中に放り出されるだろう。聞こえるのは扉を叩く荒れた吹雪の音だけ。
こんなにも、昇る日を待ち遠しく感じたことはない。
夜明けまで、あと3時間。