ここにあると思っていたものが、ない。ない。ない。
それも決まって、彼が来た日ばかり。
最初はハンカチだった。
次に、ピアス。
そして今日、香水が消えていたことに気が付いた。
全部、元彼がプレゼントしてくれたものだ。
どうして、そればかりがなくなるのだろう。
元彼から貰ったものは確かにこの引き出しに入れておいたのに。
そのことを彼に話したことはないのに。
彼に確かめたい気持ちはあるが、私の中の何かが堰き止めている。
そっとしておいた方がいいと、直感が告げている。
だけど、本当にただの気のせいかもしれない。もしも、あの引き出しから今日も何かがなくなっていたら、その時は彼に聞いてみよう。
だって、あの優しい彼がそんなことをするはずないもの。きっと私の気のせいだ。
──ああ、彼がやって来た。
もう一歩、あと一歩だけ。
そう思いながら歩く。
どこまできたんだろう。
ふと振り返ってみると、長い道のりに足跡が残っていた。
そうか、私はこんなにも歩いてきたのか。
もう一歩だけ。
座り込みたい気持ちを押し殺して、私は再び歩き出した。
「遠雷」
遠くで雷が鳴っている。
そろそろアイツがやってくるのだろう。
いつもいつも雷を鳴らしながら現れて、俺の気持ちを引っ掻き回すだけ引っ掻き回して帰っていく嵐のようなアイツ。
そんなアイツに惚れてしまったのが運のツキなんだろう。
それでも、雷の音が聞こえると胸が弾んでしまう。
「君と飛び立つ」
夜が静かすぎて言葉が出なかった。
君も何も言わない。ただ隣に座って、じっと星空を眺めていた。
もし私の背中に羽があったなら、今すぐ君を連れて飛び立つのに。
あの星まで君を連れて行ってあげるのに。
けれど、羽はどこにもない。
だから私は、この地上で君の手を握りしめる。
腫れ上がった顔を歪めもせず、泣きもせず、ただ星を眺める君の手を。
「言葉にならないもの」
ずっと好きだった。
ずっと言えなかった。
でも、今日こそ。
そう思っていつもの居酒屋に呼び出した彼は、乾杯する前に言った。
「おれ、やっと彼女できたんだ」
少し照れながら笑う彼に、私はもう何も言えなくなった。
「……おめでとう」
そう言うのが、精一杯。
乾杯して、一気にお酒を飲み干した。
「おいおい、そんなに飛ばして大丈夫か?」
「平気だよ。おめでたいし、飲まなきゃね」
私はちゃんと笑えているのだろうか。
心配になり、空になったグラスに視線を落とす。騒がしい店の中、カランと鳴る氷の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
店を出て、夜風に吹かれながら家まで歩く。
足元だけ見て、彼の笑顔を思い出さないようにして。
部屋に着いても、電気はつけなかった。
靴を脱ぎ、鞄を置いて、まっすぐ鏡の前に立つ。
暗がりの中、ぼんやりと映る自分の顔。
その中で、彼が「似合う」と言ったローズピンクのリップだけが、薄く色を残していた。
その言葉を間に受けて、会う日はいつもこれを塗っていた。
季節が変わっても、服の色が変わっても、唇だけはずっと同じだった。
それが今日も残っているのが、なんだか滑稽で、少しだけ痛い。
鏡の中の自分は、何も言わない。
ただ、引き結んだ唇だけそっと動かしてみる。
拭き取る前に、最後に。もう塗ることのないローズピンクの唇が形をつくる。
……すき、だったよ。
それは言葉にはならず、鏡の中で静かに消えていった────