きっと明日も。
毎日同じ時間を繰り返す様な、途方もない感覚に陥ることがある。きっと明日も続くって。
僕は知っている筈だった。当たり前の日常とか言う薄っぺくなんの根拠もない希望は、足を掬うって。引っ張るって。
私は分からなかった。まいにち毎日繰り返される虚無と、不達成感。こんな、何の力も能力もない妄想に囚われることが、如何に可哀想なのか。
風呂場でふと手をあげる。そうするとお湯が揺れ、水面張力とかいう科学的な話を思い出す。音楽も動画も、人も騒音も、限りなく取っ払って、お湯に耳まで浸かってしまえば、涙は自然と出るのだ。
泣けない訳では無い。感情が、少しずつ欠如していく様な恐怖と、不安に、負けそうになる自分に言いたい。大丈夫だと。
きっと明日は、この調子なら来る。突拍子もない神様のイタズラで、明日死んでしまえば、もう考えなくていい。
だから、恐れずいられる。
きっと明日も、自分で生きる。
静寂に包まれた部屋。
ただ、畳張りだとかフローリングだとかダンボールだとか。気にも止めない床から天井を、ダラダラと眺める一日が好きだ。
窓の外の音と、テレビの音。私が感傷に浸るために必要な素材は、どちらだろうか。常に音を出し、威嚇するようにも見える姿は、何故だかとても滑稽だった。
僕のベットに入り込む子犬は、無邪気で無垢で無頓着だった。包んで閉ざして囲おうとしても、拒絶を示すその声に、そろそろ嫌気が差してきた。
静寂を求めているんだと思う。あまりに煩くて、喧騒の中では決して安心できないから。
戦争だとか、紛争だとか、殺人だとか、発砲だとか。窃盗だとか、放火だとか、地震だとか、氾濫だとか。関わらなければ気にもしない喧騒に、ふと触れてしまった場合、自分はどうしたら良いのだろう。
壊れていたくはない。
守られていたい。
そう思う自分に、幸よあれ。
窓から見える景色。
皆、見えてる景色は違うのに、それがさも美しいかの様な勘違いをする。枠組みとは、そんな魔法。
私の家には、ベランダに続く窓と小窓がある。外がよく見えるのは大きい方で、簾なんかオシャレなものを垂らしている。
僕がお風呂から覗く窓は小さく、蒸気で曇っている。この何となく漂う雰囲気が好きで、ついつい長風呂をしてしまう。
きっと、よくみえてない だけなんだ。景色より、隣に居る人や温度、匂いや音に風なんかの取り巻く空気感みたいなモノに浸って、酔っ払っている。
ああ、美しい。
とても綺麗で、物憂げで、儚げで、静かだ。
画面を見ず、人と話さず、身体の動作を極限まで払い 佇む。
深呼吸をするほどに、落ち着きを持つ。
手元の写真と同じ 画角に明暗で、違う景色。
これが、見える景色。
大切にしろよ。と、なげ掛ける自分は 誰だ。
形の無いもの。
形のある、大切なモノはそれ程多くない。だからこそ無くなると取り戻せないし、気付けない。
僕はあの日 猫を拾った。餌をやり、声を掛け、心を寄せ、居なくなると探し回った。その時の僕には何よりも大切なモノ。今では重要な 思い出。
テーブルに向かい、正しい数値を求める。勉強したいと意欲を見せ、誰かと自分を納得させる。私の使い続けるこのシャーペンは、無敵なのか。
思い出の品とか、思い出すと心の温かくなる記憶帳、腸から傷む思いも、この手先の震えにもかまわず、新しく更新する時間。
あの時の気持ちも、創った作品も、集めた漫画も手紙も、失敗も、すべて全て一度無くすと戻らない。
忘れた記憶は戻らないし、無くした物体は忘れてしまう。
なら、形の無いモノで、自分の全てを埋めたらいい。穴も漏れも無い美しく堅牢な空間にする。
でも、ふと出たため息は、形を成してしまう。
完璧には、なれないモノだ。
ジャングルジム。
一度は夢を持って登った公園の遊具。きっとあの日見た、観ていた景色を、もう一度感じられると、信じていた。
夜の公園は自由だ。子供も居ない、大人もいない。ただ私と、私の気を許した君だけが居て、爪を噛むような退屈な日々を忘れさせてくれる。
音楽を聴き、通りすがる犬に嫌悪か好感を抱き、隣を走るあなたの匂いが気になる。散歩なのかランニングなのか、とりあえず過ぎるこの時間が好きで、目的地を目指す。あの日の思い出の遊具。
ジャングルでも無いし、退屈なジムでもない。そそられる魅力は無いし、吸い寄せられる力も無い。そんなはずの、あのジャングルジムに、夢をみてる自分がいる。
肌が啜り泣く様な悪寒と、不安定な足場がマッチして、歳の残酷さを知る。あぁ、と。怖いのかと。
あの日感じた自由という高揚感が、今では足元の見えない只々不安定な忌み嫌う空虚にしか見えない。
ブランコなら良いのか。滑り台はどうだ。
他人とでも漕げる舟なら、もっと心地良いのか。
知りたくはない。