まわりのひとに
じぶんから
発するニオイ
嗅がせては
嫌われること
気にしては
ニオイ消すこと
ばかりして
自分を外に
開くこと
出来なくなって
ここにいる
ニオイを武器に
するなんて
とても自分は
出来ないと
決めつけている
今日もまた
香水なんて
選択肢
自分の中に
見つからぬ
私は作家になりたかった。
書くことで生きていくことができるような、そんな存在に憧れていた。
「作家」は必ずしも文学者や小説家ではないはずであるが、作家として世の中に位置を得ようとすれば、小説を書いて何かの賞を得る、という道しか見えず、まともな小説など書けない自分はいつしか作家になる夢を捨て、一労働者として一定の時間拘束され、指揮命令下で労務を提供することで報酬を得て何とか生きている。
そんな私ではあるが、毎日日記は書き続けている。いまさら売り物にする言葉をひねくり出すためでもなく、「書くことが生きることだ」などどうそぶくためでもない。が、誰かに「どこかにまだ、作家への未練があるためではないか」と言われれば否定できないこともまた事実だろう。(だからこんなアプリを使って文章を書いているわけだ。)
夢破れこんなところで生きている こんな中年捨てるほどいる
キライっていうのは好きの裏返し
vice versa(ヴァイスヴァーサ)と人は言うなり
子供の頃、小動物になりたいと思っていた。
たとえばオコジョ、イシガメ、鳥など。
全き野生の中に生きるのではなく、教室の後ろに放し飼いにされていて、クラスのみんなを見守ると同時に昼休みなどには可愛がられる、そんな存在に。
鳥になった自分を想像するときは教室の天井近くの上方からみんなを見下ろしている映像を思い浮かべた。
そこに言葉はない。言葉のない映像だけの世界が居心地の良い空想の世界であった。
空想や妄想の内容はその後変わっていったが、居心地の良い場所は言葉のない世界であった。
そんな自分が、言葉を使ってなにかを表現しようとしていることに根本的な矛盾のようなものを感じている。
言葉なき居心地のよい世界から遠く離れて近づいていく
子供の頃の不思議。鏡の正面にあるものが鏡に映るのは分かるが、鏡の中の斜め奥の方を覗き込むと鏡には映らないと思えるような場所の映像が映ること。
今思えば、鏡を斜めに覗き込むことで、入射角と反射角が広がり、より広い範囲の景色が鏡に映って見えていただけのことだが、鏡の中にこちら側の世界とは別の世界が広がっているように思えたものだった。
また、別の不思議。海辺の家に暮らしていた私は、山に登って海の方を見ると、遠くの方の海が視界の上の方までせり上がってくるように見えること。
単に標高が上がることで遠くの方まで見えるというだけのことだが、感覚的には遠くの海が上昇して見えていたということだ。
星が動くのではなく、地球が動いているのだ、と言われればそうなのかなとは思うが、普通に見れば動いているのは星の方だろう。
目に映る世界が見えるかのようにあらぬものとは思えぬものか