人間関係の苦しみは、承認欲求が満たされないことや、被愛欲求、すなわち愛されたいという欲求がみたされないことに由来する、なので、そんな苦しみから逃れるためにそうした欲求から自由になることを目指してみたり、そもそもそうした欲求は無くすことのできない欲求なとであるから、どうすればそうした欲求を満たすことができるかを考えるべきではないかと考えて、「愛されたいと望むなら、他人を愛することを学ばなければならない」などとノートに書き込んでてみたりした学生時代。
そして、所謂社会人となり、苦しみとは思うようにならないことの謂なのであり、世の中や社会とは自分では如何ともし難い他者たちといるところなのであるから、まさに一切皆苦で、思うようにならないことはデフォルトとして生きていくべきだ、社会とは、思うようにならない場所のことなのだ、などと達観したふりをする。
結婚して子供ができたり、職場の中で、いつのまにか自分が一番上の立場に立っていて、外から見たら、褒められたいとか、愛されたいといった思春期的な感情などとっくに卒業してるようにみえるだろうし、そうあるべきだろうとは思うのだが、14歳頃に考えていたようなことを未だ続けている自分に愕然とする。
私のような人間は、マザーテレサの次のような言葉を日々呟き、噛み締めるべきなのだろう。
イエスよ、私をお救いください
愛されたいという欲望から
ほめられたいという欲望から
名誉を得たいという欲望から
称賛されたいという欲望から
人よりも好かれたいという欲望から
相談されたいという欲望から
よく思われたいという欲望から
人気を得たいという欲望から
屈辱を受けるという恐れから
軽蔑されるという恐れから
非難されるという恐れから
中傷されるという恐れから
忘れ去られるという恐れから
ひどい扱いを受けるという恐れから
嘲笑されるという恐れから
疑われるという恐れから
Deliver me, O Jesus,
From the desire of being loved,
From the desire of being extolled,
From the desire of being honored,
From the desire of being praised,
From the desire of being preferred,
From the desire of being consulted,
From the desire of being approved,
From the desire of being popular,
From the fear of being humiliated,
From the fear of being despised,
From the fear of suffering rebukes,
From the fear of being calumniated,
From the fear of being forgotten,
From the fear of being wronged,
From the fear of being ridiculed,
From the fear of being suspected.
父は船を持っていた。専業農家であったが、漁業の権利を持っていて、漁をすることのできる船を持っていたので、
「ワシは漁師ぞ」
と誇らしげに言っていた。
父はその船で主に釣りをしていたが、釣竿を使わず手釣りで、ゴカイやなどの餌や撒き餌などは使わず、手作りの擬似餌で鯛を釣ることも「漁師」としての誇りなのであった。
父に言わせれば、餌で釣るのは「誰でもできる」ことだし、撒き餌などは「海を汚している」だけのことなのであった。
仕事が終わってから、父は携帯ラジオをヤッケのポケットに入れ、船に乗って夜の海に出ていく。
そして釣れようが釣れまいが満足げに戻ってくるのだった。その頃の父の年齢をすでに超えてしまっているような気がするが、今の私より、父の方が楽しそうに暮らしていたような気がしてしょうがない。
その一方であんな生活を数十年続けていられ本人は幸せであったろうが、その分のしわよせが身近な人のところにきていたたのではないかという気もする。
それも含めて果報者ということかもしれないが。
好きなこと勝手気ままにする人の影であなたは幸せでしたか
健康でありたい。それでは健康とはどういう状態のことか?
健康の定義としてはWHO(世界保健機関)の
「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
というものが有名である。
この中の「福祉」は原文(Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.)を見ると”well-being”という、対応する日本語が見つかりにくい言葉であることから、これをそのままカタカナにした「ウェルビーイング」という言葉が近年では広く普及しているようである。
これを直訳するとwellが「良い」「良好な」、beingが「存在」「状態」「〜であること」「〜でいること」ということで、厚生労働省の文書などでは「良好な状態」などと訳されているようである。
かつて、「現実存在」から「実存」という言葉を作ったように、「良好状態」から「好状」あるいは「良態」などの新熟語をつくってみては、などと思ったが、どうもしっくりこない。
「いい感じ」とか、「よきさま」、最近の若者言葉と言われている「よき」などの方がしっくりくる、ような気がする。
健康の定義について調べてみると、上の定義を少し変更しようとしたが、うまくいかなかったものとして、次のようなものもあるらしい。
「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、spiritual及び社会的(social)福祉のdynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
(Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.)
"dynanic"という言葉のここでの意味は「健康と疾病は別個のものではなく連続したものである」という趣旨の発言があったとのことである。(以上は厚労省ホームページより引用)
健康と不健康とは固定的なものでなく、明確な輪郭の引けない関係であるということ、蚊柱が多くの蚊が不規則に動きながらも柱のかたちを維持しているように、健康は動的な平衡で生まれる何かであるということ。
"spiritual”は「霊的な」「たましいの」。
健康であるとは、このような各種の次元での健やかさを保ち続けることであり、固定的な立場や地位ではなく、不断の励み、活動の結果として生まれるものなのだろう。そして、それは一見不健康なものとも無縁ではないのだ、と思う。
ねがわくは からだとこころ たましいと ひとのえにしも まるっとよきに
我が家の犬は、散歩やごはんなど、楽しいことを待つ間、明らかにダンスをする。後ろ脚2本で立ち上がり、前脚をケージの木の枠にかけ、2、3回縦にジャンプした後、左右の後ろ脚を交互に浮かせながら左右の前脚をケージの木の枠に交互に擦り付け、爪と木が触れてシャカシャカと音を立てる。トントントン、シャカシャカ、シャカシャカ、シャカシャカ、シャカシャカ、と特定のリズムを刻む。
誰かが教えたわけではないが、うちに来たときにはすでにこのダンスを踊っていた。
このダンスを踊るのは、「もうすぐ外に出られる。だけどもう少しまってなくちゃ。」というように、何か楽しいことがもうすぐありそうだけど、それはもう少し先のことのようだ」というようなシチュエーションに限られているようである。
シャカシャカと君が奏でる音楽でココロの翳り一時忘れる
市民農園を借りた。平成27年頃のことだ。
野菜づくりをしようと思ったからだ。まだ小学生に入りたての娘の教育上良いのではないかという考えもあった。
12区画ほどに分けられた土地にサツマイモ、ジャガイモ、オクラ、ズッキーニ、ツルムラサキなどを育て、夏の間にはそれなりに収穫もあって食卓にのぼることもあったわけだが、畑仕事は2年ほどで辞めてしまった。
家族みんなでやろうという話で始めたことであったのだが、妻が作業中の日差しと虻などの虫の存在を理由に数回で来るのをやめてしまい、畑に行くのは私と娘だけになってしまっていた。
娘は鍬や鎌を扱うこともできず、小さな土の塊を集めて煉瓦のように積み重ねて遊んでばかりで、結果として畑作業は全て私の担当になってしまっていた。
また、畑の土が粘土質で、大量の堆肥を入れたり、サツマイモのツルや雑草を埋めて土質改良を試みたりしたものの、野菜作りの入門書に書かれているような、野菜作りに適しているふかふかの土にはほど遠いままであった。
畑仕事は苦ではなかったが、他人と挨拶したりするのは密かにストレスであった。
隣の畑を借りているおじいさんに挨拶されて、きちんと挨拶できない娘を叱ったりしていたが、私自身ができれば挨拶などしなくて良いように、なるべく両隣の人がいない時間に行ったりしていた。
年間確か4,000円で30平米程度の土地を借りることができるので、一年でほぼ私しか使っていなかったが、自分の数少ない趣味として野菜作りと言えるように、などという考えで細々と続けようと思っていた。
が、結局やめてしまったのは、私の借りている区画内に誰かの古いバケツや発泡スチロールの箱などが置かれるようなことが続き、自分で処分するのは嫌だったので共用の自転車置き場に置いていたら、「この場所にゴミを捨てないでください」という貼り紙を貼られるようなことがあったからである。
自分のゴミでないのは確かであるが、そこにゴミを捨てたのが自分であることは確かで、自分で自分を心から正当化できない振る舞いをしてしまった訳である。
野菜作りのできない冬の間、そんなモヤモヤした気持ちが晴れることがなかったため、4月に農園使用の契約の更新をしないことにしたわけである。
我が趣味は土いじりだと言っていたあの頃だけの麦わら帽子