『窓越しに見えるのは』
学校へ向かう子どもたちの声、足音。
手術明けで起き上がることさえできない。
音がした方へふと首を動かすと青空が見えた。雲の白と吸い込まれそうな深い青がはっきりとしていて、初夏を感じさせる。
ああ、今日も生きている。
『好きな本』
背表紙が緑色の本を見ると思い出す。
近くの本を取りにきた彼のことを。背伸びして取ろうとした私を助けてくれた。
横から伸びてきた腕は長くて、近づいた体からは汗の臭いがした。
「せんせー、さようならあ」
「はい。さようなら」
本好きが高じて図書館司書になった。
十分くらい歩いたところに小学校があるため、利用者は小学生が多い。昼間は大人も訪れる。
小さかった頃と違って今はすべてデジタルだ。
セルフレジで買い物をするように最初に利用者カードを通して借りる本のバーコードを読み取る。
小さなカードに名前を書くことは、もうなくなった。
彼と出会い、時々話をしていた頃は名前を書いていた。
クラスと名前が知りたくて同じ本を借りたこともあった。好きな本の傾向が似ていたこともあるけれど。
でも名前が多くて特定はできなかった。
中学二年のとき、卒業生の中に彼を見かけるまで、ひとつ年上だってことも知らなかった。
胸に残ったのは緑色の背表紙。
カタカナが入っていたような気がするものの、仕事でたくさんの本に触れるうちにおぼろげになってしまった。
彼のことも、好きな本も。
色を頼りに今日も淡い期待を胸に書架へ向かうのだった。
『誰にも言えない秘密』
毎朝の身だしなみは欠かさずにやること。
どんなに寝坊したとしても。何があっても。
それは、死んだじいちゃんとの約束だった。
そんなわけで今日も私は鏡の前に立っていた。
出かける二時間前に起きて、家事をして、髪を整える。去年から通い始めた高校のセーラー服を着る。
もちろんアイロンはばっちりで皺はほとんどない。
月曜日じゃないからと、自分に目をつむる。
じいちゃん特製の尻尾と耳をつけたら完璧だ!
「おはよう」
「おはよー!」
元気な挨拶が飛び交う中、異形たちにまぎれて校門をくぐる。
生まれてすぐにこちらへ迷い込んだ私は孤児だ。両親は人間だとバレた途端に殺されたらしい。
化け上手なじいちゃんが助けてくれなかったら、私もとっくにお陀仏してただろう。
そんな命の恩人は、数年前、化学の神に選ばれて転生してしまった。神になっても見守ってるぞ。それが遺言?となった。
とにかくこの世界の住民に人間だとバレないこと。
それは誰にも知られてはいけない秘密だったのに。
「お~はよっ、ヒトちゃん」
誘導に乗せられてつい、この耳がお手製だとこぼしてしまった。半年くらい前の森林合宿で。
この、犬の大将に!
同じイヌ科なのに臭いがしないと指摘されて焦ったのがいけなかった。風で香水が消えかけていただけだったのかもしれないのに。
これ以上ヘマはしないと威嚇する私と、それを見てにやける犬の大将。
本日一戦目のゴングが鳴ろうとしていた。
『梅雨』
嫌いだとか好きだとかそんなんじゃなくってさ。
「髪の毛元気な季節になったねえ」
「戸倉髪型やば」
「わかめ?」
うるせー!最後のだれだ!!
少し前からくせ毛との戦いが始まった。毎年のことではあるものの毎日負け続けている。ワックスをかけても、年々変わる強化グッズを使っても効果はない。
なんなら、勝てたと思っても時間が経って実は負けてましたなんてことはザラだ。
いっそのことパーマをかけようか?
でも校則で禁止されてるし……。
まあるくなった爆発頭を抱えた私に隣の子がそっと声をかけてきた。
「ふわふわで可愛いね」
ああ天使さま。
あなたのおかげで今日も一日頑張れるわ。
でもそのストレートの髪は許さない。
私の百面相を真正面から見ていた隣の子が笑う。
周りにいる友達もつられて笑い出す。
こんにちは梅雨。今年もよろしくな!
『無垢』
すれ違う民衆の何人が気づくだろうか。
純真無垢な笑みを浮かべて、知らない物を見るたび後ろで控える自分に声をかけてくる少女。
彼女が、戦場から戻ったばかりの戦士だと。
数ヶ月前に上層部から呼び出しを受けた。
その場にいたのは瞳に何の感情も映さない彼女だった。
自分を含め抗議する者たちの動きを観察する眼は、獲物の隙を狙う狩る側のそれと似ていた。同行を許可した契機はその後行われた模擬戦と初戦での活躍だった。
皆が恐怖した。
「副隊長さん。教えて欲しいことがあるの」
初めてあどけない声を聞いたとき別人に声をかけられたのかと思ったのは、懐かしい思い出だ。
戦場では重い鎧を着て剣を取り、街では民衆に交じり目を輝かせる。何とも複雑な思いである。
「副隊長! あそこから美味しそうな匂いがします!」
無垢な彼女が年相応でいられる時間が増えるようにと願ってやまない。
ふと笑うと、小さな部下に手を引かれるがまま次の店へ向かった。