しとしと雨の降る夜道、会社からの帰り道。
湿った空気に混じって、甘酸っぱい香りが何処からか漂ってきた。
どこか懐かしいその香り、何の匂いだったかと記憶を辿る。
遠い昔、母が作っていた。
赤いホーロー鍋の中身を木べらでかき混ぜて、キッチンには、その甘酸っぱい匂いが充満していた。
トロリとした琥珀色、口いっぱいに広がる甘酸っぱい味にほっぺたがキュンとした。
ああ、あんずジャムか。
もう随分と食べていない、杏の時期はほんの一瞬だから。
もうすぐ暇な時間も増えることだし、こんど作ってみようかな。
玄関のドアをガチャりと開けると、ふんわりと甘酸っぱい香りがした。
テーマ「梅雨」
喉元から、なかなか出てこない言葉。
ああ、目の前の君は、今か今かと待っていてくれている。
なのに、意気地なしだ僕は、断られる筈もないのに尻込みしてしまう。
しまいには「私が言いましょうか」なんて、君に言わせてしまった。
それでは駄目だと首を横に振って、何度も何度も深呼吸。
……よし、今から言うぞ、聞き逃さないで聞いておくれよ。
キラキラした君の瞳を見つめながら、大きく口を開いて。
「け、けけ、こっ、こけっこっ!」
生け垣の向こうから「だめだこりゃ」なんてオッサンの声が聞こえた。
テーマ「天気の話なんてどうだっていいんだ、僕がはなしたいことは」
ゲートが開いた瞬間、誰よりも早く飛び出して前を取る。
他の奴等なんかに譲ってやるもんか。
向かい風に煽られながら芝の上を爆走、あっという間に1ハロン。
地を蹴るたびに首筋に鬣が当る心地良さに恍惚しかけて、ムチが鳴った。あぶないあぶない。
抜けかけていた気合を入れ直して、弛い坂を駆け上がり、これまた弛いカーブをラチぎりぎりを攻めつつもゆったりと走る。
追い風に乗って後ろから、地鳴りのような足音が聞こえてくる。 が、届きはしない。
緩めていた脚に力を込める、フンスッと鼻から勢い良く息を吐く。いくぞ。
手綱が緩んでムチが一発入る、それに応えるように地を蹴り上げた。
誰かの後ろを走るだなんて、気が狂っちゃうくらいの屈辱よ。
テーマ「ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。」
ぱたん、とトイレのドアを閉めた直後。
なんで、どおして、と言っているような、飼い猫の哀れな鳴き声がドア越しに聞こえた。
世界的な“アレ”のお陰で自宅でお仕事が出来るようになり、引きこもりのような生活が三年弱続いた結果。
飼い猫が分離不安症になってしまった。
もう、何処にでも着いてくる。
一瞬でも席を立てば、寝床から真ん丸な目でコチラを凝視し、5メートル離れればダッと駆け寄ってきて足元にすり寄ってニャーニャー。
いきなり飛び起きたかとおもったら、涙目でクルクル鳴きながら、服の中に入ってきたり。
何か重い病気なのでは、と心配になって獣医に診てもらったら、分離不安症と診断されて、少しだけホッとした。
トイレのドアをトントンと指先で叩いてやる。
何かを発見した時の声を発しながらガリンガリンと爪を立てる音がして、ドアがガタガタと揺れた。
……キャットドアを取り付けるべきかな?
その揺れはトイレを出るまで続いた。
テーマ「ごめんね」
五月らしい爽やかな風が吹く公園で、ブランコに乗る子供の背を優しく押す。
キャッキャ、と嬉しそうな我が子の笑い声に破顔する。
父親になるという現実に右往左往している間に産まれて、気が付いたら寝返り、ハイハイ、二足歩行をしていて、オムツ交換に手間取らなくなってきた頃にオムツを卒業。
そして、今年から幼稚園の年小さんに。
あっという間だね、なんて子供の寝顔を見ながら妻と二人、寝落ちするまで語りあった。
2880グラム、あんなに小さくてフニャフニャのへにゃへにゃだったのに。
今では、抱き上げる為に「よいしょ」と声が出はじめる位には重くなった。
遊び疲れて電池が切れた玩具のように動かなくなった息子を抱きかかえて、家路につく。
夕方の涼やかな風が、むき出しの腕へと抜けていった。
テーマ「半袖」