『涙』
涙とタイトルがついたものを見ると、悲しい物語なのかなと思ってしまう。
泣き笑い、嬉し泣きなど悲しい感情だけではない時にも涙は出るのに、何故かイメージは悲しいものだ。
昔読んだ漫画に泣いてる人は無条件に守られるべきだ、という大前提で話が続いて行くが、
最終的にはずっと泣いていて守られてきた人が悪人で、涙ひとつ見せず勇敢に反抗し続けていた不良とされた人が善人だった話を読んだ事がある。
うさぎが泣いていれば、側にいるライオンを理由も聞かず非難してしまう、そんな物語だった。
嘘泣きというものがあるんだと衝撃で、
涙ひとつとっても色んな感情があるんだと学んだ。
ひ弱な気高さ、強者の弱音とか
一見真逆の言葉が表裏一体になる場合もあると
知った時、見える景色が変わったような気がする。
自分は怒られれば怖くて泣いて、試合に負けて悔しくて泣いて、馬鹿話をしながら笑いすぎて泣いてきた。
少し思い返すだけで色々な涙を思い出すけれど、
一番記憶に残る涙は、父親と喧嘩してなかなか素直になれない思春期の自分に、昨日も拗ねて晩ご飯を食べてないから食べなさいと、買ってきてくれたマクドナルドを泣きながら食べた涙だ。
酷いこと言ってごめんと素直に言えない自分への悔し涙
お腹がペコペコの時に大好物を食べれる嬉し涙
年老いた父にはマクドナルドでメニューを選ぶのも簡単ではないのに、自分の為に選んでくれたヘンテコなメニューへの笑い涙
こんな自分を包んでくれてありがとうと感謝の涙
その涙が口にいっぱい入ってきながら食べたハンバーガーの味は、何十年たっても一番幸せな涙の味だ。
『小さな幸せ』
山登りが趣味な人に言われた言葉をふと思い出す。
みんな明確なゴールもなく生活してる。
でも山登りは、頂点に行くという明確なゴールがあって、達成感もある。
それが山登りが好きな理由。
そんな感覚を味わったことないでしょ?
それを聞いて、特に答える事はなかった。
ゴール?なんだそれ?
山登りに行けば神にでもなるのか?
人それぞれのゴールを誰が決めたんだ?
山登りが好きな人の中にも、道中が好きな人、山にしかない草花を見に行く人、山登りが終わった後の下山先にある食堂での食事が好きな人。
それもゴールだと思う。
人それぞれの目標やゴールは必ず存在し、それが他人から見たら何ともないような事でも、同じ物差しで測るなんてしてはいけない。
一日一日のゴールだって構わないはずだ。
今日はお風呂上がりにアイスを食べよう。
ひとり映画をしてみよう。
いつも食べないものに挑戦してみよう。
他人から見るとただの日常であろうと、その人がそこから広がる感性や感情を、他人が勝手に可能性をゼロにしてはいけないと思った。
山登りを本格的にした事はないけれど、テレビで見ているだけの山の頂に、とても感動した事がある。
その光景を実際に見れば、この人を違う見方で肯定してあげる事ができるのかなと考えながら
今はこの質問には答えるべきじゃないと、何も言えなかった。
自分もこの人の感性を勝手に判断していたからだ。
あの頃より少し成長できた自分なら、あの山登りが好きな人と色々な話ができるのかな?
自分は今もゴールを見つける為に、色んな道を探しています。
その先に、あの時教えてくれた頂に辿り着けると信じて。
『春爛漫』
桜を見ると美しいなと思う。
ピンクで可愛いらしいのに、散っていく様子は儚い。
見てるだけでも感傷的で情緒的な咲き方は、
普段は花に関心がない自分も桜が咲いたと知ったら
帰り道に見に行こうかなんて思わせてくれる。
春になり桜が満開になれば人々は
お花見しようと集まってくる。
レジャーシートをひいて持ち寄ったお弁当を食べ、
大人は笑いながらお酒を飲んで、子供達は桜の道で
キャッキャと遊んでいる。
花に詳しくないので今見ているこの桜が、何分咲きなのかわからない。
これで満開なのかな?もう明日からは萎れていくのかな?
桜に対してわからない事だらけだけど、
何故かこの季節はこの光景を目に焼き付けたくなる。
桜を見に人々が集まるこの光景こそが春爛漫だから。
『七色』
大抵の人は虹が見えるとなんだか見てしまうものだ。
綺麗だなとか
今日は良い日になりそうとか
もう、雨は上がったんだなとか思ったり。
現実的な見方はあれど、虹を見て
汚いものが出てる、なんて人はいないような気がする。
虹は日本では七色とされている。
外国では五色だったり、三色だったりするらしい。
まずそれからわかるのは、人というのは理由は色々あるが、そう見たいからそうなのだ。虹も、物事も。
虹について調べて、科学的な説明を読んで
国ごとの違いを知って、虹に対して新しい見方ができるようになった。
日本では7という数字は縁起の良いものとされる。
七福神から由来して虹は七色になったという。
たしかにラッキーセブンとか当たりの
イメージがあるなと考えながら、水たまりをふとみると、虹が反射していた。
それを見るまでに学んだ虹についての色々な知識は
ひとつも出ず、とっさに出たのは
あっ、虹だ。写真とろう。だった
やはり人は見たいように虹を見る。
幼い頃から植え付けられてきた虹に対する
期待や希望、幸福感はどんな根拠にも負けない。
偏った見方をしてしまって、時には人や周りを批判したり、それが間違いだろうと正解だろうと
自分が植え付けてきた価値観を変えるのは難しい。
どうあがいても見えたいようにみるのだ。自分も。
でも自分はひとつの物事に対して色々な根拠や由来を学んで、ひとつずつ選択していきたい。
選択肢は多い方が見え方がどのタイミングで変わろうと対応できる。
たとえ自分の見え方が生涯ひとつであろうと。
ポケットに潜ませた想像力は、きっとこの先の人生を歩く為の七色の彩りになってくれるはずだ。
『記憶』
嫌な記憶ばかり思い出しては自己嫌悪で身動きできなくなる
今起きてる事じゃないし、過去は変えられない。
だからいくら気にしても意味がないので
前を向いて生きないと。
そんな誰かの仮面を被ったようなポジティブに生きたい
自分
過去だから気にしないでいいなんて無責任な話。
それを言えるのは傷つけられた側の人だ。
自分は人を傷つけてしまった後悔の記憶で苦しんでる。
何故、被害者ヅラをするんだ?お前は加害者だ。
自分の中にある汚い感情と矛盾にも感じられる自己否定の感情に支配されて、表情筋が死んでいく自分
どっちが自分だ?と悩んだ事もあるし
未だに自問自答するけれど
多分ずっと答えはわかってる。
どっちも自分だ。
汚いけど綺麗になりたい自分も抱えて
重たくて邪魔な荷物も、時には雨を避ける傘にもなる
両方手離せないのであれば、荷物いっぱい抱えながら
自分や周りの人の笑顔や涙に対応できればいいな