姿も、声も違うはずなのに。
懐かしくて、今もそこにある。
この人と共に在り、彼の帰る家を守りたい。
彼の左手をとった。
『私の居場所』
「夫婦」
マルキェヴィッチは部屋で一人泣いていた。
手元に突然転がってきた権力は、彼を悲しみに浸らせる暇も与えなかった。
寝食を、苦楽を共にした彼女はもういない。
やっと一息、家に帰ることができたのに。
部屋の中は空っぽで、二人で暮らしていた痕跡は綺麗さっぱり片付けられていた。
「クローディア……どうして」
伝えたいことはたくさんあった。
しかし、驚きが頭を混乱させ、どうしての一言しか出てこなかった。疑問に答えたクローディアは、混乱に乗じて自らの唇を彼に重ねた。
「マーヴェ、大好きだ」
自分の気持ちに気付いたときには、クローディアの背中は消えていた。試合が終わり、彼女は一切姿を見せなかった。
ひとしきり泣いた彼の頬を、寒々しい風が撫でた。窓を開けていたことを思い出し、閉めようと立ち上がる。
「……あれ?」
テーブルの上に、黒い箱が置かれていた。
大きさは彼の手のひらに収まるくらいで、中身はさらに小さいものだと判断できる。
『Dear Malkiewicz』
金色の文字で、自分の名前が刻まれていた。
差出人はわからないが、クローディアで間違いないだろう。そう確信し、彼は箱を開けた。
『I wish you the best of luck Claudia 』
彼女の扱うアーツを思わせる、透き通る青のネクタイピンが入っていた。
早速身に着け、鏡台の前に立ってみる。
「よく似合ってるよ、マーヴェ 」
いつものように、薄く微笑んで答える声が聞こえた。
『長い道のり』
「また会いましょう」
延々と続く田舎道を歩く。
代わり映えしない景色ではあるが、都市に比べ空気が澄んでいる。それだけでまだ救いようがあるだろう。
ふと、何気なく足を止めた。
風になびく髪をかき分け、目を凝らす。
黄金の波に紛れ、黒い耳と尻尾が揺れていた。
「んぅ……?おじさま?」
波の中に身を委ね、心地良さそうにする彼女がいた。
「こっちに来ませんか?静かで涼しいから、ぐっすり眠れるかもしれませんよ」
彼女に促されるままに、身体を横たえる。
確かに眠れそうだ。優しく通り抜ける秋風と、揺れる穂の音。見上げれば、悠然と星が輝いている。
何よりも、黄金の中に密やかに紛れ込む彼女も美しい。だが、その波の中に攫われそうで。
「……いいか?」
返事の代わりに、細く白い指が絡み合う。
嬉しいのか尻尾も巻き付いてくる。
穏やかな波に身を委ねた。
薄く微笑む彼女の顔が見えた気がする。
『晩秋の抱擁』
「ススキ」
夢を見た。細い指先で氷を紡ぐ若き騎士、今は遠き彼女のこと。
舞台を去った彼女が何処へ向かったのか、私にはわからない。
戻ってきてほしい、けれど。
行く末で幸運を掴めていたのなら、それ以上に幸せなことはない。
ただ、叶うのなら、もう一度だけその姿をひと目見たいのだ。
『重圧の隙間で』
2023/11/10
「脳裏」
小気味よい金属音のあとに、彼の煙草に火が付いた。それと同時に、肩口に雫が跳ねた。
「うーん、今日傘持ってきてないけどな……」
「だね。大丈夫だよ、送っていくから」
「いいの?ありがとう」
ガソリン代くらいは、と財布から札束を出そうとしたが断られた。その代わりと、彼に傘を差しておく。
湿って重苦しい空気で、煙がいつもより鮮明に見えた。
「雨の日って湿気で煙が重くなるんだよ」
「そうなんだ。言われてみれば、確かに……」
「やべ、煙が……場所変わろう」
私は平気だが、彼は気にするタイプらしい。
「雨の日って良いよね」
「頭痛が曲者だけど、雨上がりの空気は最高にいい。家にいる分には最高の天気だよ」
「ね、俺は匂いが好き」
「土の匂いかな?なんとなくわかるかも」
吐き出した煙が昇る。どうやら一過性の雨だった。
「毎回ついてきてもらって申し訳ないね、吸い殻捨ててくる」
「いいよ。吸ってるところ見るのも好きだから」
「あはは、ありがとう」
空を覆う雲は逃げ足早く過ぎ去っていく。
差し込む晴れ間が、地面を焼き付けるのも時間の問題だろう。
「おかえり」
「ただいま。遅くなる前に帰ろうか」
「わかった。お邪魔します」
『夕立を凌ぐ』
お題(9/28)
「通り雨」