ものに溢れた部屋の片隅で、小さな人形を見つけた。
それはお前がまだ幼い頃にあげたもので、あの頃はまだお前に愛情というものがあったのだろう。
けれど日に日にお前は私の妻を写したように育ちし、そして私に妻のいない現実を見せつけてくる。
私はお前が嫌いなわけでも、憎いわけでもない。
妻が命がけで産んだお前が愛しくないわけでもない。
それでも妻が生きていてくれたら…と、そんな醜い心でお前の父親として接することができなかったのだ。
やがてお前は美しい女性として成長し、いずれは他家へと嫁ぐ日がやってくるだろう。私は妻を失った日からお前を手放す想像を怖れたにすぎない。
私を父と思わなくてもいい。だが一つだけ願うのならばお前はどうか健康に、そして幸せになるがいい。
お前の幸せを願わないことはない、ということだけは私の本心だと覚えていてほしい。
〜とある伯爵の娘への手紙より〜
【部屋の片隅で】
脳天直下に逆さまに落ちる君の姿を見た。
君は目を見開いて、信じられないものを見るような、驚きと戸惑いとそして悲しみに満ちた瞳をしていた。
伸ばした手の指の先、それは君を掴むためのものではなく―――君の身体を押した僕自身の腕の影。
僕が、君を突き落とした…?
はたしてそれは夢だったのか、現実だったのか。
ただいつもは隣で眠る君がいない。
それは紛れもない確かな事実で、空白のベッドの冷めた熱をまさぐる手には白い百合の花が握られる。
それがどんな意味を持つのかもわからずに、
僕は手のひらを握りしめてその白い花を散らした。
【逆さま】
昔から感情の乏しい子どもだと言われてきた。
楽しければ笑い、悲しければ泣く。そんな簡単なことがなかなかどうして難しいものだった。
姉のように、眠れないほど誰かを想ったり、食事も喉を通らないほど思い煩うことが、ずっと…ずっと羨ましかった。
けれどあなたに会って、些細なことで一喜一憂する私を知って、思い知る。
それがどんなに苦しいことなのかを…。
苦しくて、苦しくて、辛くて。それでもあなたに焦がれることを止められない。こんな感情を知るくらいなら、始めから求めなければよかった。知らない方が平穏で、幸せだったのかもしれない。
そう思っているはずなのになぜだろう。そんな苦しみさえ、あなたの前ではどうでもいいことに思えてしまう。
そうしてさらに夜は更けていき、朝日が差しては辺りを眩しく照らし出す。どうやらまた眠れぬ夜を過ごしてしまったらしい。
それでもあなたに会うことが待ち遠しい私は、あなたに会える期待を胸に抱いて、光に誘われるようにベッドから飛び出した。
【眠れないほど】
長く続く闘病に、疲弊していく両親に、
僕の生きる価値はなにかと、問いかける。
僕の存在が重くのしかかる両親にそれを問うたとき、なにも答えないことこそがその答えだと、あの日僕は知った。
そしてその日から、僕は夢の中に閉じこもった。
夢の中では僕は何でもできた。走ることも、大声で笑うことも、学校に通うことも、友だちを作ることも。
抑圧された感情を解き放ち、自由に、思いのままに、ただ在ることだけが許される。
そんな夢と現実ならば、選ぶ必要などないでしょう。
深く、深く、眠って。
二度と目覚めることがないように。
僕は、僕として必要とされる夢の中で生きていたい。
だからどうか僕を諦めて。
身体に繋ぐ生命維持装置なんていらない。
僕という枷を外して、どうか穏やかに過してほしい。
手を握られる優しさに、涙を流す温かさに、
決意が揺らいで戻りたくなってしまうその前に、
もっと眠りの深みに落ちていこう…。
【夢と現実】
「さよなら」は言わないで。
それがあなたと交わす最後の言葉にはしたくないから。
「またね」と「じゃあね」しか、私たちは使ってこなかったでしょう。たとえ次に会う日がわからなくても
、別れの言葉はあの頃のままにしておいてほしい。
新幹線のドア越しで「それじゃあ、またね」と軽く言えば、それが次の約束にならないかしら?
何年後、何十年後になるかはわからないけれど、次に再会したときの時間など一切感じさせないように、まるでまた明日会うような気持ちで別れましょう。
さよならを交わさない私たちは、またいつか会えるはずだから…。
【さよならは言わないで】