ポツンと、ブランコだけが揺れている。
ずるりと肩から落ちてきたスクール鞄の肩紐を、揺すり上げる。
スクール鞄は、分厚い参考書と教科書で、重たく角ばっている。
公園には誰もいなかった。
いくら小学校では名高い悪ガキだったとしても、高校生の塾帰りの時間まで遊ぶような子どもは、イマドキいないのだろう。
街灯が、申し訳程度に、公園の、裸の土の地面を照らしている。
夜空が浸透したように、この一帯の空気には、夜の黒紫色の闇が染みていた。
シンとした夜の静寂に塗れた空気に誘われるようにして、僕は、公園と道路の敷居をするりと跨ぎ、揺れているブランコの横に座った。
冷たい夜風が頰を撫でた。
冬の夜らしく、鋭く冷たい風だった。
肩に参考書の重みを抱えたまま、そっとブランコを揺すってみた。
きぃ、と小さく悲鳴をあげて、ふらふらっと、ブランコは揺れた。
「寒いでしょ?」
同じようにふらふら揺れていた、横のブランコから声だけがした。
「早く帰ったら?人生でも大切な時期でしょう。風邪をひいちゃう」
「いいんだ。」
僕は俯いたまま、返事を放った。
遠い昔、小学生の頃に、怪談で、夜に1人で揺れるブランコがある、なんて都市伝説が噂になったことがあったのを思い出した。
思い出しただけだった。
「ふぅん」
隣のブランコの声は、柔らかく相槌だけを返した。
「受験生なんて、ガラじゃないんだ。一生懸命頑張るなんてさ。こんな言い方ダサいけど。でも僕なんてね。」
弾みをつけて、足元の石を蹴った。
ブランコがきぃぃ、と抗議の声を上げながら、ずいっと揺れた。
「そうかな?意外と似合うと思うよ」
声は、素直な柔らかさで、そういった。
今日の夜空と同じように、どこにでも浸透していきそうな柔らかさだった。
空気にも、僕の胸にも。
「頑張れた方が、かっこいいし、未来も周りの人も楽なんだけどね。」
隣の声に比べると、僕の声は固くて、頑なで、まるで問題用紙にきっちりと作図された鋭角みたいだった。
「でも僕は頑張れない。1日中勉強しないといけないのにさ。僕自身でさえ8時間勉強したいのにさ。今は死ぬ気で頑張りたいのに。頑張れない。頑張れないんだ。」
「死ぬ気で頑張れない」
声は、相変わらずの調子で柔らかく復唱した。
輪郭のなさそうな、柔らかい声だった。
「偏差値も点数も足りてるんだ。足りなかったことがない。でももうたくさんなんだ。」
僕の声は、ざらざらとけばだっていた。
頑なに、まるで肩に下げられたスクール鞄のように、角ばっていた。
「…素敵な才能だと思うけど」
柔らかな声が、柔らかな闇に溶けていく。
「あなたには自由がある」
「そう、僕には自由がある。」
僕の声は夜闇にくっきりと掠れていた。
「でも僕は罰当たりにも欲張りなんだ。努力に相応の結果が欲しかったんだ。努力に見合う結果で良かったんだ。」
柔らかな声は、何も言わずに続きを促した。
それで、僕は言葉を継いだ。
身じろぎすると、ブランコがきぃと鳴った。
「父さんも母さんも死んでしまった。けれど、兄さんは、僕ばかりを大学に行かせようとするんだ。」
月明かりが、公園の時計を照らした。
「そろそろ帰るよ。兄ちゃんが心配する。」
肩からずり落ちてきた肩紐を揺すり上げて、僕は言った。
かたん、と隣のブランコが軽く跳ねて、止まった。
「明日もこの時間にここにいるから」
柔らかな声が、ふんわりとこちらに放られた。
「ありがとう。」
僕が立ち上がると、ブランコはきぃ、と泣いて、それから、かたん、と一度跳ねた。
付け足すべきではなかったけど、愚かな僕は、どうしても伝えたくて、その一言を付け加えてしまう。
「愛してるよ。ずっと」
君はきっと、寂しそうに笑った。
好きだ。
それは人間としてなのか、恋愛対象としてなのか、それともただの憧れなのか、執着なのか、恋愛経験のない私には分からなかったけど、とにかく好きなのだ。
その人のことを考えれば、自然と微笑んでしまうほど。
一緒に撮った写真や画面越しにやりとりしたログを見ていた私に、「なに、嬉しそうな顔をして」と家族がからかい気味に声をかけるくらいに。
世の中ではあまりにありふれていて、そこらの歌詞に軽々しく使い古されている“好き”という言葉が果たしてこの想いに適切かも分からないほどに、好きな人が私にはいるのだ。
人生を変えるほどの想いは言葉にできないから、人は表現しようとするのだと思う。
そんな想いすらも人はわざわざ、想いを言葉の型にはめて長ったらしく架空の物語を書き、目覚めるような色彩や歪んだ図形という型にはめて絵を描き、記念日なんていう型をわざわざ生み出してプレゼントをこさえ、人間とはかけ離れた命である花にさえ、言葉の意味を紐づけようとする。
そんな愛しくも愚かしい人間の欲望に、例に漏れず私も引き摺られていた。
目の前にはすっかり溶かし切ったチョコレート。
お湯をたたえたひと回り大きなボウルの中に、ちょこんと浮いた、チョコレートいっぱいのボウル。
大人たちの血の滲む企業努力によって、すでに美味しくできていたはずの既製品をわざわざ溶かしてしまうなんて、私らしくない。
でも、私はチョコレートを溶かし、型を用意する。
仕方がないのだ。私も人間なのだから。
愚かな人間である私は、言葉にできない溢れそうなこの想いを、そっとしまってはおけないのだ。
人間らしく、言葉にできなくても、それを型にはめて、形にして、伝えようとせずにはいられないのだ。
私はチョコレートを型に流し入れる。
型はみるみるいっぱいになる。
「I LOVE...」
あまりにもありきたりすぎて、笑ってしまうような型に、市販品を溶かしただけのチョコレートは、流れ込んで、流れ込んで、流れ込んで…
やがてトロドロと溢れ出る。
チョコレートは型の側面にトロリとした線を書き、やがて型の下に敷いたバッドに落ち、銀のバッドを侵食していく。
私は、バッドを茶色く染めゆくチョコレートを眺めながら小さく呟く。
それがどんな想いか知らぬまま。
「I LOVE...」
その日記を受け取ったのは、ある冬の年明けだった。
書くように言ったのは、私だった。
日記は宿題だったのだ。冬休みの。
あの年の冬はとびきり寒かった。
確か1月の、まだ新しい年が来たばっかりのぴかぴかの週がやけに寒くて、週末には何年かぶりの猛吹雪があって、大変だったのだ。
あの子を受け持った年は、そんな冬だった。
とりたてて良い子ではなかったような気がする。
とりたてて問題児というわけでもなかった。
ある意味模範的で、おとなしくて、静かで、一緒にいる友達さえ、時々いることを忘れてしまうような、そんな子だった。
教師にも同級生にも、そこにいる、以上では認識されない。しかし、ありふれていて、どのクラスにもいる、そんな子。
宿題を忘れることも、居残りをすることもない。
かといって、勉強ができるとか、しっかりしているとか、そんなことはない。
本人はきっと一生懸命に生きているように思えるのに、なんだかどこか淡々と生きていて、だから私たちも淡々とした印象を受けて、淡々と存在を受け入れる。
生きるのに欠かせないのに、普段は存在どころかその美味しさすら認識させない水のような子だった。
日記みたいなプライバシーに関わる宿題は、学校から必ず返却する。
点数をつけた翌日とか、コメントを書き添えた翌日とか、あるいは学期末とか、学年末とか、そんなタイミングで返すのだ。
しかし、私はあの子の日記だけは返せなかった。
返せなかったのだ。
冬休み明け、冬休みの宿題を提出した次の日に、あの子とあの子の家族は、忽然と姿を消した。
家も、歯ブラシコップも、持って帰らすのを忘れたノートも、何もかもそのままにして。
夜逃げだという話だった。
突然のことだった。
当時、冬休みの宿題の日記は、クラスの半分までしか読めていなかった。
あの子の日記は、まだ開いてもいなかった。
あれからかなりの時日が経った。
私はまだ、あの子が提出していった日記を、読めていない。
処分すらできない。開けてすらいない。
何かの儀式か呪いかのように、もうすっかり古さを感じるようになったこの日記帳を、私は未だ手放せずにいる。
閉ざされた日記は、いつも私の机の、鍵のかかる引き出しにしまわれている。
星に包まれて
今日もニュースは、評論まがいの愚痴を垂れ流していた。
コメンテーターだか批評家だかが、まじめ腐った顔をして、したり顔で、やたら学術的にこねくり回した否定的な意見を述べ、それに対して別の専門家か何かが、もっともらしい専門用語で反論する。
街頭インタビューでは、やけに元気いっぱいの大学生が、外面を取り繕って、何も知りもしないくせに、背伸びをしたようなまじめに見える意見をマイクへ訴え、さっきまで隣人の悪口で盛り上がっていたように見える中年の主婦のグループが、全市民の代表みたいな顔で、インタビューに答えている。
テレビに映るそれらを、ぼんやりと眺めた。
今日のニュース、と見出し語が一覧で並べ立てられる。
殺人事件、芸能人のスキャンダル、税金、虐待、新たに生まれた条例、節約術、今月のトレンド、猥褻事件、動物の赤ちゃんの誕生、株価、地球温暖化、インフルエンザの流行情報、外交、豆知識…
醜崇低高入り乱れた情報が、当たり前のようにいっぺんに吐き出される。
頭が鈍く痛んで、手に持っていたスマホの電源を切る。
画面を伏せて、傍に置く。
テレビニュースはやかましく、熱心に、この世界の不条理と、欠点と、危機を訴えている。
これまでの間違いを論い、これからの間違いを危惧している。
そんなに言わなくたって分かっているのに、と思う。
今が絶望的なのも、未来に課題が山積みなのも、人間が愚かなのも、僕の人生が全部間違っているのも、もう自明の理と言えるほどに十分に分かっているのに。
スマホを置いて、顔を上げる。
テレビのリモコンが手に届くところにあったので、電源を切る。
“テレビのニュースが不愉快だから”ではなくて、“リモコンが手に届くところにあったから”テレビの電源を切る僕はやっぱりいろいろ終わっている。
時刻はもう23時を回っている。
明日はすぐそこまできている。
しかし、眠くはない。
すっかり昼夜逆転してしまった僕の体は、夜の闇に眠気を感じない。
静かになったリビングで、窓を眺める。
ひび割れがガムテープで補強された、大きさだけが大きい窓から、夜の空が見える。
街灯に光負けした弱々しい星が、人間失格の僕と、そんな出来損ないに住まわれた味気ないアパートの一室を包んでいる。
眠気はないが、目を開けて現実を見るのもだるかった。
僕は椅子に座り直して、目を閉じた。
そっと。
そして、僕の人生の終結を祈った。
それは、静かな終わりだった。
静かな終わりを期待する、僕のたった一つの儀式だった。
生活感のない、清潔すぎる僕の部屋は、いつもに増して静かだった。
僕は終わっていた。
僕の部屋も終わっていた。
静かな終わりが横たわっていた。