とりあえず時を止めてもう一度
考え直したい秋の暮れ
腕時計、電池交換しようとす
夕に子は言う「時を止めて」と
ススキの穂ざらざら揺れる月見酒
時を止めて、と風に頼みたき
水面にはらり落ちたるもみじの葉
時を止めれば描けていたのに
大人たちそのまま時を止めてと言う
子供の社会も人間社会
「今日日、この匂いをキンモクセイだと答えられる人間は少ない」
秋に棲む黄金色の鬼は、そう言って、秋晴れの空を見つめていた。
なんとなく寂しそうに見えるそんな横顔を見ながら、私は黙って焼き芋を頬張った。
初めて認識したキンモクセイという花は、大人たちが大仰に褒め称える花にしては、小さくて、地味で、華やかさに欠けていた。
空は真っ青な秋晴れで、見える範囲では快晴だった。
目だけでこちらを伺っていた鬼は、呆れたようなため息をひとつ吐いて、キンモクセイを見上げた。
「まあ人間は、思い込んだら、何事にも尾鰭をつけて大袈裟に言うものだしな」
秋に棲む鬼は、そんなことを言って、ふっと微笑んだ。
私は、黙って焼き芋の皮を爪で摘んで剥いた。
ホクホクの焼き芋の黄色い中身は、ほんのり甘くて美味しかった。
「…花より団子の人間ってかなり多いよな」
私が黙って差し出した焼き芋の半分を、鬼は慎重に受け取ってそんなことを言った。
私は話したくなかったから、俯いて、頷いた。
鬼は苦笑して、焼き芋を齧った。
キンモクセイは大人が言う割にはずっと小さくて、地味で、華やかさに欠けていて、匂いすらも素朴だった。
私みたい、何もできない私みたい、そう思った。
けれど、そう思ったことを、秋にも大人にも誰にもバレたくなくて、私は黙ったまま焼き芋を齧った。
鬼が微かに顔を歪めて、それから、ずっと穏やかそうな表情でキンモクセイを見上げた。
真っ青な秋晴れの中に、キンモクセイの匂いがした。
僕の友達は化け物だ。
普段の外見は、どこからどう見ても人間にしか見えないけれど、化け物だ。
僕は、それを知っている。
どこにでも溢れている人が、人であるか人ならざるものなのかを見分けるコツは、その人の影を見ることだ。
地面に映る影でも、水面に映る影でも、鏡に映る虚像でも、とにかく、そういう映る影を見れば、人と人でない人は見分けられる。
けれど、そうやって正体を見分けられたところで、肝心なその人が自分にとって危険なのかどうかは分からない。
人間だって悪い奴は悪いし、人じゃない生物だって、大半の奴は普通の人間と変わらない、普通な奴だからだ。
そして、僕の友達は、人に化けて生きている化け物であり、化け物にも人間にも一番多い、ごく普通の、凡庸な奴だった。
アイツの影はいつだって揺らめいていて、無数の目玉がこっちを向いていた。
アイツに初めて会って友達になった時、アイツだって、僕だって、どっちも幼い、妖怪だか人外だかなんて知らない、小さい小さい時だったから、僕たちは同じくらいの歳の子をみんな巻き込んで、無邪気に遊んでいた。
影踏みだってしたことがある。
鬼になってアイツの影を踏もうとする時は、無数の目玉がこっちを睨んでくるので、みんな踏むのを戸惑ってしまう。
それで、アイツはいつも、影踏みになると最後まで残った。
そして、僕がアイツの影を踏むまで、影踏みは終わらないのだった。
僕たちが大きくなって、大人に近づいていくにつれて、アイツが化け物であるということ、影が尋常ならざるものであるという記憶は、僕たちの仲間うちで、どんどん薄れていったようだった。
しかし、僕だけは覚えていた。
アイツが気のいい化け物で、影踏みがめっぽう強くて、水辺に行く時、いつも水面に映った顔を見られないようにしているということを。
僕はアイツとずっと一緒にいるものだと思っていた。
おかしいとは思っていたのだ。
アイツと疎遠になる友達が増えてきて、アイツのことすら忘れてしまう人が増えてきた。
そんなある日の夕方、僕はアイツのルーツを知った。
「宇宙人なんだ。」
夕日に照らされた無数の目がゆらめく影を見つめながら、アイツが行った。
それを聞いて、何故だか僕は、アイツが近いうちにどこか遠いところへ行ってしまうような気がした。
だから、その日の晩、こっそり、星に願った。
「行かないでくれ。」と。
僕はあの日すでにアイツを止められないことを知っていたのかもしれない。
行かないでと願ったのに、次の週になって、アイツはスッパリ消えてしまった。
戸籍からも周りの人間の記憶からも。
アイツの影を、僕は今でも覚えている。
揺らめく影に、無数の瞳がこちらを覗くあの影を。
影から聞こえてくる、気のいい、凡庸で、友人を大切にするのに、どこかいい加減なアイツの声を。
行かないでと願ったのに。
あれから、僕は、少し未練がましく星を見上げるようになった。
今日もどこかでアイツが元気にやっていることを願いながら。
ママもパパも教育熱心な家だった。
それも当たり前だったかもしれない。
ママは、田舎の封建的な村から自らの頭脳と奨学金で抜け出した才女だったし、パパは、持ち前の頭脳で祖父に実家の医師のレールから抜け出すことを認めさせ、研究職に就いた才覚の持ち主だった。
その経験からか、ママもパパも、そこらの大人の中で一番、勉強の機会と正しい知識を大切にしていた。
それは、我が子の教育方針にも生かされた。
小さい頃から、本も模型も標本もノートも筆記用具も、とにかく勉強に必要なものはなんでも潤沢に買い与えてもらえた。
好奇心そのままに質問をすれば、なんでもあけすけに詳しく教えてもらえた。
僕の育った家はそういう家だった。
おかげで、僕は人生に関しては驚くほど順調に歩みを進め、名だたる名門校に現役で合格したのち、優等生のまま大学院を卒業して、就職した現在も、とある大手企業の研究職のエリートコースを歩んでいる。
僕の両親は立派な親だ。
僕をきちんと育て上げ、自立させ、今では、僕の家からは遠く離れた僕の故郷のあの地で、潤沢な老後資金を使いながら、二人暮らしをバリバリこなし、老後を楽しんでいる。
僕は親に感謝しているし、環境にも、世の中にも、感謝している。
でも、そんな僕にも、両親に見せられない秘密が一つある。
それは、僕の家の押し入れに、そっとしまわれている。
昔、僕がまだ学校にも行っていない、幼稚園で遊戯を楽しんでいた、まだ小さな子どもだった日の、密かな宝物。
あの頃、僕はまだ、現実に対する探究心や好奇心より、空想世界に対する想像力や夢に縋って生きていた。
あの頃の僕にとっては、虫や科学技術や幾何学よりも、絵本の中で動き回る空想の生き物やテレビの中で空を飛び回るドラゴンの方が魅力的だった。
作り物の世界に憧れて、自分だけの世界を頭の中に作りたがって、でも、その反応を両親は喜びはしない。
そんな幼少期に、大人には内緒で作った宝物が、今もしまいこまれている。
それは、秘密の標本。
あの頃、僕は、親に潤沢に買い与えられた現実世界の動物や生物たちの模型や標本を、一度バラバラにしてから組み合わせて、空想の生き物をこっそり作っていたのだった。
僕の家の押し入れの中で、分類も器官もバラバラに組み立てられた、僕の幼い頃の空想の産物が眠っている。
めちゃくちゃで、出鱈目で、グロテスクで、それでも、いまだに見てしまったらワクワクが止まらない、秘密の標本。
もう今の僕には作れないであろう、そんなもの。
いつから僕は、あれが作れない人間になってしまったのだろうか。
僕は両親に感謝している。
仕事にやりがいもある。
人生に満足感すらある。
今の生活も、環境も、社会にさえ、僕は感謝している。
それでも、僕の押し入れには、あの秘密の標本が眠っている。
名残惜しげに、何かの心残りかのように。
きっと僕には捨てられないだろう。
これからもずっとあるだろう。
僕の押し入れの中には、秘密の標本が眠っている。
出鱈目で、めちゃくちゃで、それでいて心を惑わせる、唯一の標本が。
冬はつとめて。
火を焚いた跡はなんだか寂しい。
凍える朝の空気の中で、黒々と焼け残った炭の上を、白い粉っぽい灰がばらばらと滑っている。
窓がうっすら開いていて、それで失敗を知った。
暴力的な眠気から覚めて、ぼんやりと痛い頭を抱えて、それから沈黙している七輪を眺める。
空気はしんと冷えていて、すっかり冬の香りが感じられる、凍える朝だということに、今更気づいた。
外は薄紫の静かな早朝を迎えている。
小鳥が何羽か囀っている。
ここに辿り着いたのは、昨日の深夜だった。
驚くほどうまくいかなかった高速の乗り換えも、途中のホームセンターや薬局ですんなりできなかった買い物も、でこぼこと狭くて、ガードレールのない高ストレスの山道も、面白いくらいにうまくいかない自分の人生の象徴のような気がして、昨日に限って言えば、全く気にならなかった。
なんてことはないつまらない人生だった。
よくある、両親の離婚から人生が暗転して、ちょっと頑張ってみたことがちょっとした不運でポシャって、それで根性のない私は嫌になって、何もかも中途半端にうまくいかなくて、そのあまりのうまくいかなさに、嫌気がさしたのだった。
それで昨日、ふと思いついて家を出て、地図帳で見て、なんとなく良さそうな写真の場所の山へ、車を走らせて、そうして昨夜、七輪を組み立てて、火をつけて、眠りについたのだった。
そして失敗した。
失敗して、凍える朝に目が覚めた時、頭に真っ先に浮かんだのは、なぜだか遠い昔に学校でやった、国語だかなんだかの授業で習った古文の一節だった。
冬はつとめて。
昨夜のような夜をもう一度過ごす気は起きなくて、残った炭と灰と七輪をまとめてゴミ袋に放り込み、鈍い身体を伸ばしてから、車のキーを回す。
静寂の中、駆動音がぽつんと響き、車内時計が時間を表示する。
それで、今が正真正銘の早朝だと知る。
僅かに開いた窓から、凍える朝がゆるやかに潜り込んでくる。
朝の冷たさが、肌に優しい。
冬はつとめて。
窓を閉めて、ハンドルを握る。
鳥のご機嫌な囀りが、聞こえてくる。