助けを求めるときは「誰か」と言ってはいけないらしい。
「誰か」と呼びかけてしまうと、人間の心理的にはみんな「誰か」が助けることを期待して、なかなか手を貸してくれない。
だから、緊急救命時には「誰か助けてください!」ではなく、「そこの人、〇〇をしてください!」とか、「あなた、救急車を呼んでください!」とか、いうのが正解、だそうだ。
誰か、という呼びかけは、不透明で、不確実で、とかく呼びかけられた気がしない。
人間にとって、そういうものらしい。
私は、今、困っている。
理由は単純だ。目の前にまさしくその「誰か」を体現したような人物が、助けを求めていたからだ。
それは確かにヒト型をしていた。
しかし、とにかく、輪郭も顔も表情も体型も曖昧模糊ではっきりしない。
地面に転がって、助けを求めてのたうってはいるが、なぜそのような状況になっているのか、何を助けたらいいのか、全くわからない。
とにかくはっきりしない、説明するのも難しいほど、ごぬごぬしたナニカ、だった。
そしてそいつは、あろうことか、自分がどう見えているかも理解していない様子で、「誰か!誰か助けて!」と喚いていた。
声は震えてはいたが、その声の特徴も、あるようなないような…
とにかく、何もはっきりしていなかった。
確かに、その「誰か」は苦しそうで、憐れみを誘ってはいたが、いたが…。
周りの人間は足早に、その「誰か」を一瞥し、残して去っていく。
しかし、私は立ち止まってしまった。
誰か、は、まだ地面に這いつくばりながら叫んでいる。
「誰か、誰か助けて!」と。
私は少し迷ったものの、結局放っておけなくて、手を差し伸べた。
結局のところ、私も同類だと思ったからだ。
人間に紛れて暮らす、人間ではなく、同じような存在を持たないナニカ、それが私だったから。
私は手を伸ばした。
その曖昧模糊な、正体不明の「誰か」に向かって。
秋風が鋭く吹き抜けていった。
涼風吹人少
枯葉離枝多
外見景専寂
我感秋物哀
人足音未遠
鈴虫声尚近
秋歌哀移気
涼風吹きて人少なし
枯葉は枝から離れるが多し
外見れば景は専ら寂しく
我は秋の物哀しさを感ず
人の足音は未だ遠く
鈴虫の声は尚近し
秋は歌う移り気の哀しさを
鈴虫の 姿を探す 秋の暮
氷頭膾 作る動画で 秋を知り
冷房の 寒き夕餉に 栗ご飯
麦酒より 枝豆がうまい 秋の宵
跳ね竈馬 鳴きはせぬかと 見送りし
椋鳥の 糞散らばりし 歩道かな
人の歩を 蓑虫阻む 山の道
今年も頭 垂れて礼儀正しき すすき
自由席 握りしめたる 切符かな
青鷺も しずと飛び立つ 旅の道
今晩は 宿で更けゆく 秋の夜
でこぼこの 旅路登りぬ 鱗雲
受験票 旅は続くと 告げにけり
古いフィルムを持っている。
幕間にかかるような、ショート映画の、モノクロの短いフィルム。
ところどころ日に焼けて黄ばんだそのフィルムの中では、その一コマ一コマに、黒い影が、蠢いていた。
そして、もう上映すらできず、中身もわからない、ボロボロで薄ぺらいただのモノクロフィルムのくせに、それは簡単に捨てられないくらい、強く不思議な魅力を纏っていた。
それを見つけたのは、まだ年端もいかない子どもだった頃だ。
そのフィルムは、施設の端、空き地の隅にふと落ちていた。
一緒に遊んでくれる友人がほとんどおらず、なにかにつけ、浮きがちだった僕には、遊びの自由時間を潰せる宝物だった。
あの頃は、端から三番目の場面が好きだった。
フィルムの中のモノクロの世界は、希望だった。
その三番目の場面の前後に、手垢が目立つようになった頃、こんな僕にも引き取り手ができた。
人を脅して、売り物に毒を混入した僕の実父より、よっぽどまともな里親だった。
まともな人の潔白の正義感が、僕に攻撃性を持ち、まともな親というのが僕にとっては有り難くないと気づくようになったあの頃は、真ん中のあの場面が好きだった。
物陰に隠れては、よくそれだけを眺めてすごした。
フィルムの中のモノクロの世界は、失望だった。
なんとか家から逃れて進学したあの時。
開口一番「お前、救いたい形をしてない救いが必要なやつじゃんか」なんて失礼千万を宣うような人と出会ったあの時。
その頃は一番端のおそらく最初のタイトルみたいな場面が好きだった。
何が書いてあるのか、必死に目を凝らした。
フィルムの中のモノクロの世界は、解明すべき謎になった。
こうして、僕は今でも古いフィルムを持っている。
失礼千万なあの人が友人となったおかげで、適切に対応されるようになり、ようやくまともの仲間入りをした僕は、澄ましてまともな顔をしながら、まともな奴の醜悪さを笑いながら、まともに生きている。
そうして、まともで人並みの自分の人生をそれなりに幸せに生きる僕は、今でも時々、古い色褪せたモノクロのフィルムを眺める。
フィルムの中のモノクロの世界は、別世界だった。