古いフィルムを持っている。
幕間にかかるような、ショート映画の、モノクロの短いフィルム。
ところどころ日に焼けて黄ばんだそのフィルムの中では、その一コマ一コマに、黒い影が、蠢いていた。
そして、もう上映すらできず、中身もわからない、ボロボロで薄ぺらいただのモノクロフィルムのくせに、それは簡単に捨てられないくらい、強く不思議な魅力を纏っていた。
それを見つけたのは、まだ年端もいかない子どもだった頃だ。
そのフィルムは、施設の端、空き地の隅にふと落ちていた。
一緒に遊んでくれる友人がほとんどおらず、なにかにつけ、浮きがちだった僕には、遊びの自由時間を潰せる宝物だった。
あの頃は、端から三番目の場面が好きだった。
フィルムの中のモノクロの世界は、希望だった。
その三番目の場面の前後に、手垢が目立つようになった頃、こんな僕にも引き取り手ができた。
人を脅して、売り物に毒を混入した僕の実父より、よっぽどまともな里親だった。
まともな人の潔白の正義感が、僕に攻撃性を持ち、まともな親というのが僕にとっては有り難くないと気づくようになったあの頃は、真ん中のあの場面が好きだった。
物陰に隠れては、よくそれだけを眺めてすごした。
フィルムの中のモノクロの世界は、失望だった。
なんとか家から逃れて進学したあの時。
開口一番「お前、救いたい形をしてない救いが必要なやつじゃんか」なんて失礼千万を宣うような人と出会ったあの時。
その頃は一番端のおそらく最初のタイトルみたいな場面が好きだった。
何が書いてあるのか、必死に目を凝らした。
フィルムの中のモノクロの世界は、解明すべき謎になった。
こうして、僕は今でも古いフィルムを持っている。
失礼千万なあの人が友人となったおかげで、適切に対応されるようになり、ようやくまともの仲間入りをした僕は、澄ましてまともな顔をしながら、まともな奴の醜悪さを笑いながら、まともに生きている。
そうして、まともで人並みの自分の人生をそれなりに幸せに生きる僕は、今でも時々、古い色褪せたモノクロのフィルムを眺める。
フィルムの中のモノクロの世界は、別世界だった。
静まり返った大通り。
崩れたコンクリートの壁。
剥き出し、錆び落ちた鉄骨。
ヒビ割れたアスファルト。
絡みついた蔦。落ちる影。
どの風景も、この地から人がいなくなったことを、物語っていた。
永遠などないことを物語っていた。
この幽霊都市の道を、僕は先を歩いていた。
ここを、旅の行き先の一つに選んだのは僕だったから、当たり前だ。
旅行先では行くと場所を決めた方が先導をする、というのが、僕たちの共通のルールだった。
この島は、かつて、永遠の繁栄を期待されて作られた、人工開発都市だった。
しかし、完璧に思われた都市計画と経済計画は、不安定で複雑怪奇な環境問題と情勢にあおられ、あっという間に破綻してしまった。
追い打ちをかけるように、その翌年、島内で、突然変異した奇形の野生種が大量発生する。
人や自然環境を破壊しはじめ、子孫を残せなかった奇形突然変異種たちが絶滅するころには、この島にはもう、誰も住んでいなかった。
そんな島に僕たちはふたり、来ていた。
僕とあなたは、三年間も付き合っていて、それはもうすぐ、ブリザーブドフラワーは枯れるくらいの長さだ。
それで、僕たちの関係は、変化を考える時期に差し掛かっていた。
僕はあなたを愛している。
口を開けば、いとも容易く永遠を誓ってしまいそうなほどに。
そんな不可能なことの重ささえ、あなたの笑顔のためになかったことにしてしまうほどに。
愛しているからこそ、僕はここに来た。
僕はあなたに対して、いつでも誠実でありたかった。
かつて、僕の一世一代の告白に誠実に向き合ってくれたあなただから。
僕の一生懸命さを受け止めようとしてくれたあなただから。
僕の告白に、誠実に正直すぎるほどに、気障に見えさえするほどに真っ直ぐ答えてくれたあなただから。
立派だったであろう家は崩れ落ち、その中身を日光に晒している。
屋根は崩れ、床は朽ち、ただ、太い大黒柱一本だけが、雨風に吹きさらされ、削り取られながらそこにある。
僕は振り返った。
あなたがいる。
膝をつき、ポケットを探る。
震える指に、箱の硬さが当たる。
唇が震える。
口を開く。
「この世には、この世界には、この島だって、永遠なんて、ないけれど…」
汗が滲む。
あなたの視線を感じた。
緊張しているのに、なぜだか温かさを感じた。
僕は唾を飲んで、次の一言を口の中でこね上げながら、顔を上げた。
「僕とッ!…」
あなたが、僕を見ていた。
愛おしそうな、泣き笑いのような、穏やかな微笑みで。
息を呑むような優しさで。
永遠なんて、ないけれど。
永遠なんて、なくとも。
彼女が深く微笑んだ。
あの日、僕がプリザーブドフラワーを受け取った、あの日のように。
永遠なんて、ないけれど、それでいい。
僕とあなたなら。永遠なんてないからこそ。
指輪を受け取ったあなたの一瞬は、何よりも強く、美しく見えた。
人を慰める時、拭う前に真っ先に涙の理由を聞くやつは、モテない。
モテないっていうか、分かってない。
目頭に溜まった涙の重たさもそのままに、外へ出た。
外はまだ、朝靄で煙っている。
走り出す。
何も分かっていない、何も分かっていないと唱えながら。
涙が目頭から離れて、少し後ろに落ちる。
顔がぐしゃぐしゃになってしまいそうだ。
涙が顔から流れていき、朝露が顔に張り付いていく。
耳で風を切れるくらい、スピードを上げる。
学生時代、現役で部活をしていた時は、いつもこんなスピードで走り込んでいたものだった。
涙の理由。それ自体は、どうだってよかった。
いや、どうでもよくはないけれど、説明するほどでもなかった。
ただ、嫌なことが何度か重なっただけなのだ。
嫌なことが毒のようにじわじわ効いていって、ふと、決壊しただけ。
別に理由があったとか、そんなことじゃないのだ。
鬱病の時、訳も分からず涙がこぼれるあの感じ。
あの状態なだけなのだ。
その状態の同居人にかける言葉が「なんで泣いてるの?」って!
分かってない。なーんも。
それが悔しいのだ。
同居人が期待外れだったことではなくて、そんなデリカシーのない、何にも分かってない奴に涙を見せてしまった私が。
こんなことなら、散歩しながらでも泣けばよかった!
悔し涙が溢れてきて、私は強く足を踏み込む。
スピードを上げる。
涙の理由を聞くなんて、分かっていない。
何にも分かってない。
「早く決めて。コーヒーが冷めないうちに。」
2人分のマグカップに、ブラックコーヒーを注ぎながら、
決断を迫る夜。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
自分が分岐点だと感じていたところが、本当にパラレルワールドを作り出す決定的な分岐点だなんて、人間の思い上がりも甚だしい。
自分たちの決断で世界を左右できるなんて、ひどい思い上がりだったのだ。
パラレルワールド理論は真理だった。
選択の数だけ、世界は分岐し、並行して時間は過ぎ、パラレルワールドが形成される。
だからこそ、計算通りパラレルワールドに干渉すれば、私の計画もまた、完璧に遂行できるはずだったのだ。
しかし、私は思い違いをしていた。
パラレルワールドは、人の決定、人の決断だけが、形成するわけではないのだ。
パラレルワールドを別つ条件付けは、人の営みだけではない。
自然、環境、災害、運命、今までの生、他の動物の命…数多の条件が複雑に絡み合って、パラレルワールドは分たれる。
…つまり、人類だけが行動を改めたところで、パラレルワールドに行くことは叶わない。
シュレディンガーの猫は、確認せずとも死んでいたのだ。
だが、そうであっても私は諦めきれなかった。
なんたって懸かっているのは、私の推しの存亡だったから。
推しに出会った時は、一目惚れだった。
Vなる彼女が画面越しにとはいえ、こちらに微笑みかけてきた時、私の第二の人生が始まったのだ。
彼女がスクープと誹謗中傷に晒され、引退を表明したその時に私は死んだ。
私は私を生き返らせるために、灰色の人生を変えるために、パラレルワールドに辿り着きたかったのだ。
しかし、それももはや叶わない。
私の夢見たパラレルワールドは、存在しない。
存在したところで観測できない。
辿り着くこともできない。
なぜなら、私には推しと出会わない、という選択肢がないからだ。
私には、彼女に惚れないという選択は、とれないから。
私が観測できるすべてのパラレルワールドで、彼女は、引退を表明し、死に、私の前から去るだろう。
シュレディンガーの猫は死んでいた。
選択肢の数だけ、パラレルワールドがあったとしても。